JK第10号 伝票起票-890円のコンプライアンス-
「お疲れさま、佐倉さん」
パソコンの画面を見ていた私は、見知らぬ声に呼ばれて顔をあげた。声の先には、セーラー服を着た50歳前後の女性が立っていた。言うまでもなく、わがJK課の課長だ。
「あ、はい!」
私は慌てて立ち上がる。すると課長は穏やかな笑みを浮かべて、私に書類を手渡した。
「決裁が終わりました。それでは発注を行ってくださいね」
「はい」
書類を渡すと、課長は私に背を向ける。私は課長の背中を見送った後、渡された書類に目を落とした。それは、先日私が見積書を頼んだ、電動パンチの替刃の支出負担行為伝票だった。
この支出負担行為伝票と題名のついた書類は、物品を買っていいか尋ねるための書類。課長の印鑑をもらえば購入してよいと認められたことになる。そして、何円で買えるのかを確認するために、伝票には見積書を添付する。
そこまでは理解できた。しかし、千円もしない物を買うだけなのにここまでする必要があるのか、と言う疑問は、未だに私の中で燻っていた。
「ともかく……注文してみよう」
私はとりあえず仕事を先に進めることにした。仕事の是非を考えるのはその仕事を最後までやってからでも遅くない。
私は見積書をもらった星光事務器という会社に電話をかける。横芝先輩の話によると、この会社は県庁のすぐ近くに支店があり、用件があれば一時間以内には来てくれる会社だそうだ。私が見積書を頼んだ時も、その日の内には書類を届けてくれた。
私は受話器を取り名刺に書かれた電話番号を押していく。コール音の後、受話器から女性の声が聞こえた。
『はい星光事務器です』
「あの、私は県庁商工労働部、JK課の佐倉と申します」
『お世話になっております。先日は見積書のご依頼をいただきありがとうございました。本日のご用件はその件についてでしょうか?』
私が用件を伝える前に、電話口の相手は話を先に進めてくれる。
「はい。あの……課長から、注文しても良いと了解をいただきましたので、見積書の値段で電動パンチの替刃を購入したいと思います」
『承知いたしました。本日の14時過ぎにお届けできますが、その時間でご都合はよろしいでしょうか?』
私はその時間に何か予定が入っているかを考える。特に問題は無さそうだった。
「その時間で大丈夫です」
『それでは、その時間に伺います。ご注文いただきありがとうございました』
相手のその言葉を聞いて、私は受話器を置いた。他にも用件があるのかもしれないが、890円の品物1個を直接届けてくれるというのは、やはり不自然な気がした。
不自然なくらい過剰なサービスをするということは、そこにそれ以上のメリットが隠れていると言うことにもなる。そしてそれは、見過ごしてはいけないことのような気がした。
「なに難しい顔してんの?」
「あ、え、その」
突然隣の班の柏さんに声をかけられ、私は狼狽する。
「何があったにせよ、お昼の時間だからご飯を食べてから考えよう」
柏さんは時計を指差してみせる。確かにいつの間にか時刻は12時を回っていた。
「ご、ごめん、すぐ用意する」
今日のお昼は柏さんと茂原さんと、3人で食べる約束をしていた。私はパソコンを閉じると、机の下に入れている鞄から財布を取り出す。
「お待たせしました」
「おっけ。じゃあ行こうか」
柏さんは私に背を向けて歩きだす。私は少し早足で歩き、柏さんの横に並んだ。
「まなちーん。行くよー」
「はい」
柏さんに声をかけられて、茂原さんも立ち上がる。そして私たちは3人集まって、JK課の外に出た。
「今日ははじめての給料日! なので豪勢にいきたいと思いますがどうでしょうか!」
「柏さんはどこかお勧めの場所はありますか?」
茂原さんがそう尋ねると、柏さんはふふんと鼻を鳴らす。
「議会食堂に行ってみたい!」
「なるほど。悪くありません。私は議会食堂で構いませんが、佐倉さんはどうですか?」
「え、えっと」
話がぽんぽんと先に進んで私は追い付けなくなる。
「そもそも、議会食堂って何でしょうか」
とりあえず、一番根本的な部分を私は尋ねることにした。
「議会食堂は県議会棟にある食堂です。要するに、議員さんたちの社員食堂ですね」
「え……私たちがそこに行って、大丈夫なんですか?」
「普通の県職員も利用できます。さらに言えば、一般の方々も利用できますよ。まあ宣伝はしていませんから、それを知っていて利用する県民の方々はごく少数でしょうが……」
茂原さんは議会食堂について説明してくれる。相変わらず茂原さんは県のことについて詳しかった。
「それなら私もそこでいいです。議会食堂、行ってみたいです」
私はそう答える。少しだけ値段が気になったが、普段のお小遣いの10倍以上の金額が手に入ったのだ。怖いものはない。
議会棟は私たちJK課のある南庁舎の建物を出ると、右手に見える。他の庁舎と比較すると、入り口周辺にあまり人気はない。警備員が入口に立っていることもあって、入りにくい雰囲気だ。
「お疲れ様でーす」
柏さんは普段の調子で警備員に軽く声をかけると、全く躊躇せずに議会棟の中に入っていった。私もその後に続いて議会棟の中に入る。
議会棟の中は静まり返っていた。他の庁舎とは違いインテリアが多く飾られていて、静かな様子と合わせて厳粛な雰囲気を漂わせている。
通路を進み地下に向かう階段を降りていくと、段々と人の声がするようになってきた。階段を降り、人の声が聞こえる方向を向くと、そこに確かに食堂はあった。
「おお。偉そうなおっさんばかりだ」
柏さんがナチュラルに暴言を吐く。しかし確かに、食堂内の年齢層は明らかに高く、9割は男性客だった。そしてその大半がスーツ姿であり、一般の人らしき姿は見えない。
「そしてまさかの食券制か」
入口にあった券売機に柏さんは目を向ける。
「なんか、こう……思ったよりは、地味?」
「あくまで社員食堂ですからね。社員食堂として考えれば、かなりの高級店になるはずですよ」
券売機のメニューを見て、柏さんと茂原さんはそんな会話を繰り広げる。ざっと見て、一番値段が高かったのは天ぷら定食の1100円だった。大体700円から900円くらいのメニューが多い。
それは県庁周辺にある飲食店とあまり変わりはない価格設定だった。とは言え社員食堂として考えれば確かに高級ではあるだろう。県庁の他の社員食堂ではランチは大体500円くらいだ。
「じゃあ私はCポーク定食にしよっかな」
柏さんはそう言うと財布を取り出し、券売機に千円札を投入する。Cポークとは千葉県産の豚肉の種類のことらしい。券売機の横にそう書いてある。
「私は天ぷらうどんにします」
続いて茂原さんも財布を取り出す。私は改めて券売機を眺め、自分の注文を考えることにした。
「890円か……」
ふと、その金額を見て先程注文した替刃のことが気にかかった。
「私はシーフードカレーにします」
同じ金額なのも何かの縁だろう。私は890円のシーフードカレーを頼むことにした。
私たち3人は注文を終えると、セルフサービスの冷水をグラスに注ぎ、空いている席に着く。
「お二人とも、昨日はお疲れさまでした」
席に座るなり、茂原さんは昨日の私たちの労をねぎらってくれる。昨日というのは、もちろんあの販促イベントのことだろう。
「私もCテレビで皆さんの勇姿を見させてもらいましたよ」
「あれ、テレビ放映されたんですか?」
「はい。柏さんのお手玉も、シーバくんのカレー紹介も放映されました」
「ああ……」
私は微妙に恥ずかしい気持ちになる。私自身の姿が放映されたわけではないのだが、話を聞くだけでも心臓の鼓動が少し早くなった。
「私にはああ言う舞台は向いていないです」
「私にも無理ですね。自分が企画広報班に配属にならなくて良かったです」
私が素直な心境を述べると、茂原さんもそれに追随した。私も、もし自分が企画広報班になっていたらと思うと、心臓の鼓動がさらに早くなりそうだった。早死にしてしまう。
「素朴な疑問なんだけど、誰をどの班にするかって誰が決めてんの?」
柏さんはそんな疑問を口にした。
「普通は課長ですよ。ただ私たちは特殊な立場ですから、採用された時点でどの班にするかまで決められていたような気がします。まあ、正解は人事の担当者にしか分からないことですが」
「そーだよねー。明らかに私はにぎやか担当で採用されたよ」
茂原さんの答えに柏さんは納得したように頷く。
茂原さんの説明が正しいのなら、私は総務班に相応しい人物として採用されたことになる。一体私のどの部分がそう評価されたのだろうか。
「まなちん、どした? 悩み事?」
「え? いや、ううん」
柏さんに顔色を伺われて、私は慌てて首を振る。
「女子高生の悩み事なら学生支援班にお任せ! 私、茂原真名が相談に乗りますよ」
「だ、大丈夫です」
茂原さんに勢いよく迫られて、私はさらに強く首を振る。
同じ日に採用された優秀な二人と比較すると、私自身はどうしても劣っている。そのことを優秀な二人本人に直接相談することは、やはりできなかった。
お昼のカレーは想像以上に量が多かった。
男女平等の時代とは言え、議員さんと言えばやはりまだまだ圧倒的に男性が多い。議会食堂も、男性向けに量は多目にしているのかもしれなかった。
お昼を食べ過ぎるとどうしても眠気が強くなる。県庁で働き始めて3週間。緊張も薄れてきて、より眠気が感じられるようになってきた。
「失礼しまーす。星光事務器でーす」
少し気が緩んでいた私の頭に、大きな声が響く。
「あ……ありがとうございます。佐倉です」
私はとても微妙な返事を返す。時計を見ると13時50分。先程電話でお願いした替刃を届けてくれたのだろう。
「ご注文はオイソン社電動パンチの替刃、GX500が一箱でよろしいですか?」
業者の女性はそう話しつつ、机の上に小さなブルーの箱を置いた。箱の表面には確かに私が頼んだ、そして業者の人が読み上げた型番が記載されている。
「は、はい。大丈夫です」
私は頷いてみせる。すると業者の女性は少し驚いた表情を見せた。
「よろしい……ですか?」
「え……は、はい」
私は改めて箱を眺めるが、確かに私が頼んだ商品だ。箱を手に取ってみるが、何の問題もないように思える。
「……ストップ」
すると、私の背中から声がかかった。
「あなたに納品が正しいかを確認する権利はない」
声の主である横芝先輩は、私の横を通り抜けると、そのまま業者の人の横も素通りし、なぜか課長席の方に歩いていった。そして、副課長の前で立ち止まる。
「副課長。納品確認をお願いします」
横芝先輩に声をかけられ、副課長は立ち上がった。そして替刃の箱を持ったまま固まっている私の方に歩いてくる。そして私の手からその箱を取る。
「納品書は?」
「こちらです」
副課長が誰にともなく尋ねると、業者の女性は手に持っていた紙切れを手渡す。副課長はその紙切れと替刃の箱を交互に見比べ、そして紙切れに自分の印鑑を押した。
「お疲れ様でした」
副課長はその紙切れを業者の女性に渡すと、そう声をかける。
「ありがとうございました」
業者の女性はその紙切れを受け取ると、頭を下げて部屋から出ていった。私はその様子を、何もできずにただ眺めていた。
「佐倉さん。物品の納入があった場合は必ず私に声をかけてください。私がいない場合は、課長に声をかけるように」
「は、はい」
副課長のその言葉に、私は返事を返す。しかし状況がつかめていない私には、それ以上の言葉が出てこない。
「…………」
副課長は無言のまま、私の顔を見つめる。自分の席に帰ろうとはしない。私が何かしなくてはいけないのか、考えてみたが何の言葉も思いつきはしなかった。
「佐倉さん。ちょっと向こうで話しましょうか」
副課長はJK課の片隅にある打ち合わせ用のテーブルに視線を動かした。
「は、はい。分かりました」
私がそう返事を返すと、副課長はテーブルの方に歩いていく。私もその後を追った。
席に着くと副課長は私の顔を改めて見つめ、軽く笑ってみせる。
「怒るわけではないから、楽にして構わない」
「は、はい」
副課長は敬語を止めてそう伝えてくれたが、それでも私の緊張は解けなかった。
「数百円の文房具を買うだけなのに面倒な手続きだ。と思わなかった?」
「えっ……そ、それは……はい」
自分の悩みを言い当てられて私はうろたえる。しかし嘘をつく場面でもないので、私は素直に頷いた。
「実は10年くらい前までは、こんな面倒な手続きはしていなかったの」
「……そうなんですか?」
「そう。昔も法令……ルール上今と同じようには面倒な手続きをする必要があった。ただあまりにも面倒な方法だったから、実際に正式な方法で物品を買う人はいなかった」
そこまで話すと、当時の様子を思い出しているのか、副課長は少し考え込む仕草をした。
「一番多かったのは見積書と負担行為の省略。買う前に買ってよいか了解を取って、買った後に買ったことを報告するのは二度手間だから、少額の物を買う時は事後報告だけにしてしまうことが多かった」
「事前に何も言わず文房具を購入して、後からこれを買いましたと報告していた……ということですか?」
「買うこと自体は事前に上司に伝えるのよ。ただ、見積書を取って伝票に印鑑を貰うことはしなかった」
副課長は私の言葉をそう訂正する。口頭であっても事前に買うことを伝えていれば問題はないのではないか、と私は思った。
「さらに買ったことの報告をまとめてしまう人もいた。買ったことをいちいち報告しないで、1ヶ月くらいまとめて、今月は何を買いましたって報告してしまう」
「なるほど……」
そこまで省略してしまうと流石にやり過ぎのような印象を受ける。
「ともかく、物品購入のルールは昔はあまり守られていなかった。そんな中で、事件が起こった」
副課長は少し声のトーンを落として、話し始める。
「物を買った報告まで省略してしまうと、嘘を付けるようになってしまう。実際に買ったものとは別のものを買ったことにしてしまうこともできるし、何も買っていないのに何かを買ったふりをして、お金を払うこともできてしまう」
「そんなことをしてしまう人が……出てしまったんですか?」
私が尋ねると、副課長は頷いた。
「そう。何も買っていないのにお金を払って、後からそのお金を自分の物にしていた。何の弁護もできない、明らかな犯罪よ」
副課長はそう言うと、呆れたようにため息をついてみせる。
「しかもそれは個人ではなく複数人の犯行だったの。JK課で例えると私と船橋班長、佐倉さんの3人が共謀して犯行に及んでいた。……あり得ないでしょう?」
「……はい。誰かが止めると思います」
税金を自分のお金にするなんて、何も知らない私だって明らかな犯罪だと分かる。人一人であれば魔が差してしまうこともあるかもしれないが、それを知ったのに止めず、あろうことか仲間に入ってしまった人の心境は、私には理解できなかった。
「そんなあり得ないことが起きて県庁はパニック状態。県庁が過去に買った全ての物は正式な手続きを踏んでいるか、大規模な調査が始まった」
副課長はもう一度ため息を吐いてみせる。
「もちろん、他に着服……県のお金を自分のお金にしていた人はいなかった。でも、最初に話したとおり、大半の物は正式なルールでは購入されていなかった」
「…はい」
「そして結論はこうなった。C県職員はほぼ全員が不正に手を染めていた。ルールを守っていなかった全員を罰するべきだと。そして、千人近い職員が懲戒処分を受けた」
「そんな……」
私は何か言おうとして、しかし何も言えなかった。
「この事件があってから、物品購入のルールは非常に厳格に守られるようになった。例えばそう、物品が届いたときに他に誰もいなかったから、つい注文した自分が受け取ってしまった。……この程度のことでも処分対象になる」
「……!」
先程やってしまったことをそう言われ、私は息を呑んだ。
「私の話したいことは2点。まず、この県では物品購入のルールは厳格に守ってください。理由は今話したとおり」
「はい……」
結局怒られているような気になってしまい、私の声は小さくなる。
「もう1点。ルールは守りなさい。この世界には不合理に見えるルールが沢山ある。中には、間違っているルールもあるかもしれない。でも、それはルールを破っていい理由にはならない」
「……分かりました」
私は小さい声で、しかしはっきりと頷いてみせる。副課長の今の話は、学校の先生に怒られた時と同じ印象を受けた。
気分は落ち込んだが、悩んでいた部分は少しほどけていった気がした。