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紅の狂鬼  作者: 夕霧沙織
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三章 法の奉仕者



「遅かったな女王。客人が来ているぞ」

 城の玄関で仲間数匹と暖炉前に溜まっていた賢狼は、今にも温さによる睡魔に負けそうな声で呼び掛けた。

「客?私に?」

「いや、女王にではないな。あの時々女王の様子を見に来る有翼の」

「え?イスラに用があるの?人間が?」

「ああ。聖族らしいが確かにそう言った……そうだ衛兵、お前の名前も出していたぞ」フィジスの言葉にアスは首を傾げる。

「僕ですか?聖族の知人はいなかった気がしますが……」

「変な客ね。男?女?」

「男だ。皇太子や衛兵と同い年ぐらいの。今婆さんが相手をしているはずだ……ふぁ、伝える事は伝えた、儂はもう寝る」べたん、ぐぅ。

 お婆さんの部屋への廊下を進んでいると、大臣の部屋で主と彼女、そして若い青年の声が聞こえてきた。

「ほう、矢張り本場の法学は徹底している。この国も住民が増えてきたら、一度きちんと整備せねばなるまい」

「へぇ、この分厚い本を全部覚えているのかい?若いのに大したものだねぇ」

「それは法律の極一部です。本官はまだ未熟者なので少しでも覚えておかないと」


 コンコン、ガチャッ。


「失礼するよ。お客さんってあなた?」

 銀髪を一センチ程まで刈り込み、ありふれた茶色の瞳。年は賢狼の言う通り二十代前半、ジャンバーにジーンズとラフな格好にも関わらず、背筋が真っ直ぐ過ぎて定規でも入れているのかと思った。

「はい。あなたがクランベリー女王陛下」彼は深々と礼をして「突然の謁見御許し下さい女王陛下。本来なら事前に連絡すべきだったのですが」

「別にいいよ。アス」

「はい」彼が前に出ると、客の顔に動揺と喜びが浮かぶ。「あの、僕に御用がお有りですか?」

「え、ええ。元気にしているかずっと心配で、その様子なら大丈夫そうですね」

「?済みません、どなたでしょうか?」アスは眉間に小さな皺を寄せた。

「いや、覚えてないのも無理はないのです。会ったのは一度きりですし、その頃の君は精神的に不安定で、とても本官の事など気に留めているはずがありません」

「いえ、少し待って下さい。声に聞き覚えがある気がします……一体どこでお会いしたんでしょう」

 悩む彼を尻目に私は大臣の肩を叩き、耳元でアスの戸籍を出してくるよう命じた。

「うーん……クオルに来てから、ではありませんよね?」

「ええ。他の皆さんとは初対面です」

「となると刑務所……?でも僕はずっと独房で同室の人はいませんでした。大体あなたは罪人に見えません」

 大臣の持って来た封筒を開け、書類をパラパラと捲る。

「ラント・アメリアでいいの?あなたの名前は」

「!?ど、どうして自己紹介もしていないのに本官の名前を?」

「当たりね。アス、会ったのは裁判所だよ」戸籍と一緒に保管された裁判記録の上の方を指差し、「ほら、裁判官ラント・アメリア」

「そ、そうです!確か裁判が終わった後に声を掛けられて……あれはあなただったんですか」

 正体を見破られた裁判官は照れ臭そうにもじもじ。

「心配掛けて済みませんでした。僕は見ての通り大丈夫です。こちらに移ってから彼女の夢療法を受けて少しずつ快方に向かっています」

 紹介を受け、セミアが胸を張って一礼する。

「良かった。バーモン刑務官の事件もありましたし、鬱病になっていたらどうしようかと思っていたので」

 安心の言葉にセミアがクスッとした。

「変わってるねお兄さん。弁護士なら心配して当然だけど、あなた裁判官でしょ?」

「アスの時は弁護士いなかったからそのせい?」書類の欄は空白だ。「絶対必要な訳でもないんだね」

「僕が刑務官さんに頼んだんです。出された求刑に服したいと……」

 裁判中の重圧を思い出したのか、酷く苦しそうに息を吐く。顧みた所で自傷行為、神経を参らせるだけだ。誰が何と言おうと、刑務はきちんとやっているのだから堂々としていればいい。この誠実な衛兵にはとても無理な注文だろうけど。

 レイは不思議そうに珍客を眺める。「裁判官ってこんな若い奴でもなれる物なんだな」

「本官は新米なので、まだ審議の殆ど必要無い事件しか取り扱えません。重大事件はもっと経験を積まないと。まして“神々しく比類なき攻防の裁き”など夢のまた夢」

「何だそれ?」全くだ。

「聖書にある裁判だね。天使と悪魔が検察と弁護士、被告人は魔が差して罪を犯した人間、それを裁判長である大父神が裁くって言う話。成程、ラントはそれに憧れて。夢があっていいね」

 セミアが説明すると、彼は目を輝かせて、「あなたもそう思いますか!」共感者の存在に小躍りせんばかりに喜んだ。

「うん。実際あったらさぞや楽しいと思うよ、ねえお姉ちゃん?」

「?私そのこうごう何とか知らないんだけど」

「嘘!?お姉ちゃん聖書読んだ事無いの?兄弟が神様なのに?」

「うん」身内の出てくる本なんて恥ずかしくて読めたものではない。「イスラに会いに来たのはその関係?」

 バンッ!膝を打つ音が部屋に響く。

「そうです!イスラフィール様、今日はお見えになられていないのですか!?」

 経緯を聞くに、例の眠り病の最中に知り合いになったらしい。そう言えば目覚めた時、人間がいたとかいないとか言っていた気が。

「うん。そう言えば最近来てないね、上の仕事が忙しいのかも」

 そう言うと明らかに肩を落とし、「ですよね……四天使様ともなれば宇宙の維持のため奔走の日々のはず」

「奔走なんて出来ないよ。足、私より遅いもん」

「え?」目玉が飛び出さんばかりに驚く。「天使様は聖書通り万能ではないのですか?」

「確かに何回か万能なる御使いって書いてあるね、どうなのくーちゃん?」

 こちらは彼等の素直さに吃驚だ。

「二人共人が良いね。他の天使はどうか知らないけど、少なくともイスラは完全な運動音痴だよ。マトモに出来るのは飛ぶぐらい。大体、万能は裏を返せば平均的って事でしょ?四人共別のスペシャリストなら問題対処の選択肢が広がる」

「それはそうだね。全員一緒じゃつまらないし」

 レイが口を挟む。

「クラン、呼んでやったらどうだ?折角ここまで来て無駄足ってのも可哀相だ。兄貴からお前の事任されてるんだろあいつ。大変一大事なのー!とか言えば飛んで来るんじゃないか」

「そ、そんな本官のためだけに御足労願うなど」

「だってお前、今日逃したら次の休みまでここ来れないだろ?裁判官の仕事はよく知らないが、しょっちゅう私用で抜けられる職業とは思えないし」

 期待の籠った視線に、私は首を横に振った。「残念だけどこっちから連絡する方法は無いの。いつも向こうが勝手に来るから」わざわざ火急に呼ぶ用も起こらないし。

「本当か?そいつは弱ったな」

「いえいえ!元はいきなり押し掛けた本官が悪いのです。ええと」

「グレイオスト・クオル。レイと呼んでくれ。一応この国の皇太子だ。そっちはセミア、クランの妹」

「お気遣いありがとうございます、レイ皇太子」敬礼。「本官は大丈夫です。天使様にお会いできるまで毎週でも通う心意気です」

「今度来たら伝えておく。一応住所と連絡の付く電話番号教えて。向こうを行かせた方が多分早い」

「え!?直接御足労頂くなど……宜しいのですか?」

 彼は信じられないと言った表情のまま、自分の手帳のページを破って自宅と職場の住所と電話番号を書き、一枚の名刺を添えた。四天使研究会。

「ふぅん」

「イスラフィール様にはこの前お渡ししたので、これは女王陛下の分です。研究会と言っても現在会員は本官一人ですが……」

「渋い趣味。でもそういうの私好きだよ」どうやら妹はかなり彼が気に入ったらしい。「時間があるなら書庫を見ていかない?聖書関係の希少書が奥にあるの」

「いいんですか?」

「うん。いいよねお婆ちゃん?」

「ああ。もうティータイムの時間だしねえ。早く持っておいで、お婆ちゃんがお茶の用意をしておいてあげるからねえ」

「ありがとう、お婆ちゃんだーい好き!」白い生腕がお婆さんの首に絡んだ。



 綺麗に片付けた座敷の中、棚上の祖母の遺影に目が留まる。今日だけで四度目、その度に思い出してしまう。―――鬼憑きを。

 両親と環紗でない別の街で暮らしていた頃。初等学校に通い始めた私は、通学路の途中にある公園で一匹の猫と友達になった。飼い主に捨てられたらしく、水色の古い首輪をしていた。

 毎朝家からミルクを少し拝借し、放課後はペンペン草を振ったりして遊んだ。初の学校生活に慣れておらず、クラスの友達はまだいなかった。

 ある日。公園に行くと、それまで見た事の無いガラの悪い不良達が占拠していた。彼等は猫を蹴飛ばして、嗤った。

 多分あれが祖母の遺言の鬼、なのだろう。頭が真っ白になって、次に、


 殺してやりたくなった。


 恐怖は感じなかった。憤怒が私の小さかった拳を振り上げさせた。


 聞いた事の無い音がした。


 顎を砕く程の攻撃。なのに私は指一本骨折せず、続け様に別の標的に飛び掛かった。

一挙一投足が、卑怯者達を確実に破壊していく。子供で、女で、体格も全然相手の方が良いのにも関わらず、だ。必死の反撃は全てスローモーションに見え、避けるのも面倒だった。拳に拳を合わせると、相手は肘まで折れて地面を転がり回った。大人になった今でもその時の絶叫は耳の中に残っている。

 死屍累々の中、私は猫を抱き上げた。家に連れ帰り、キッチンの母に動物病院へ連れて行ってと頼んだ。彼女は振り返り、悲鳴を上げた。幼い私には、まだ服に着いた返り血に気付くだけの注意力が無かったのだ。


―――どこを怪我をしているの!?

―――私じゃないよ。蹴られたのはこの子。ほらここと、こっちにも傷が出来ているの。獣医さんに治してもらわないと。

―――じゃあそれは誰の血!?

―――ああ、虐めっ子のかな?公園で成敗してきたの。正義の味方なんだよ私、凄いでしょ?


 卒倒しかけた母は、それでも何とか私を連れて公園へ行き――余りの惨状に気絶した。


―――お母さん!?急にどうしたの!と、とにかく大人の人を呼ばなきゃ!


 通行人の男性を大声で呼んだ後、あれよあれよと言う間に公園は大人で一杯になった。その日は迎えに来た父と帰宅し、鍋に作ってあったミネストローネとパンを夕食にした。

 翌日は学校へ行かなくていいと言われ、代わりに父と動物病院へ。幸い猫の怪我は大した物ではなく、一日一回患部に塗る軟膏を処方されただけだ。

 帰宅すると母が警察の人達に付き添われて戻っていた。


―――お嬢ちゃん。少しおじさん達と一緒に来てくれるかな?

―――お父さん達も?

―――いや、一人で。


 硬く大きな手に引かれ、公園まで連れて来られた。不良の名残で、地面には黒ずんだ血がそこかしこに染み込んでいた。錆びたブランコの鎖の臭い。


―――お嬢ちゃん一人でお兄さん達をあんなにしたのかい?本当の事を言って御覧。他の大人の人がやったんだろう?

―――ううん、誰もいなかったよ。虐めっ子なんて私一人で充分だよお回りさん。

―――嘘を吐いちゃいけないよお嬢ちゃん。被害者達は複雑骨折や内臓破裂を起こしている。私達は犯人を見つけて謝罪させなければならないんだ、分かるかい?

―――謝るのは虐めっ子でしょ?この公園の猫を散々蹴ってたもん。

―――確かに動物虐待は良くない。しかし彼等の重傷具合とは比べ物にならないだろう?お嬢ちゃんは真犯人に口止めされているんだね。何を言っても大丈夫、おじさん達が必ず守るから、教えてくれないかい?

―――真犯人なんていないよ。私が悪者を成敗したの!どうして信じてくれないの!?


 その後の返事が最悪で。


―――嘘を平気で吐くなんて、親は一体どんな教育をしてるんだ?


 侮辱が私だけならまだ耐えられる。だけど、優しいお父さんお母さんが貶されるのは赦せなかった。


―――謝って!


 まだ心の手前付近にいた鬼が目覚める。小さな手が警察官の後頭部を鷲掴みにし、地面に伏せさせ謝らせようとした。


―――那美!!


「……いけない」

 物思いに浸り過ぎた。

 廊下においてある電話の受話器を上げ、暗記したダイヤルを押す。


 プルルル……ガチャ。


『はい』

「栗花落さん?どう?先生の機嫌治りました?」

『まぁ……それなり、ですね』

 半ば攫われるように帰ってしまったので、いつも通りの声で少し安心した。

「全く、先生の癇癪には困った物です。栗花落さん、危なそうだったら何時でも家に来て下さいね」

『何がだね那美君』突然の重低音。

「わっ!せ、先生聞き耳立ててたんですか?吃驚させないで下さい」

『君こそうちの栗花落に余計な事を吹き込まないでくれたまえ。そこらの子供より余程純な娘だ、信じたらどう責任を取ってくれる?』

 娘って……奇跡的な若作りとはいえ四十代の女性への代名詞か?

「先生こそ亭主馬鹿も大概にして下さい。どこの世界に初老の女房をお姫様抱っこで連れて帰る人がいるんですか。さっきまで近所の人から質問攻めだったんですよ祖父と私は!抱っこがしたいなら家で好きなだけして下さい!家を巻き込むな!」

『やれやれ、これだから女の僻みと言うのは困る』

「先生の方がよっぽど困り者です!」

『君の悪い所は』

『旦那様、携帯電話が鳴っていますよ』

『後で掛け直す。それより那美君』

 ピーッ、と聞こえた一瞬後、凄まじい大音量が電話の向こうから押し寄せてきた。思わず受話器から耳を離す。

『きゃ』

『ぐわっ!!くそっあのヒステリー女め!栗花落、こっちを持っていろ』

『はい』

 ドタドタと先生が部屋を出て行く音。『分かっている!だから怒鳴るな、耳が壊れる!』

 喧騒が去り、私は恐る恐る耳を近付けて「栗花落さん、大丈夫ですか?」小声で尋ねた。

『はい、いつもの事ですから』

「そう、なら良かった……さっきの電話の相手の人は誰です?凄く機嫌が悪そうでしたけど」

『そうですか?今日はむしろ良い方だと思いますよ』

 目の見えない分微妙なイントネーションに敏感なのかもしれない。

『あの方は旦那様の伯父様の、パートナーとでも言えば宜しいのでしょうか。離れて暮らしている私達を色々気遣ってくれています。ああ大声を上げていますけど、とても御心の優しい方ですよ』

 先生にも親戚がいたんだな一応。今まで一緒に仕事しているのに、全く身内の話など出なかったからてっきり天涯孤独なのだと思っていた。

『それより今日は済みませんでした。教室の後片付け、大変ではありませんでしたか?』

「大丈夫ですよ、クラン達に手伝ってもらってあっと言う間に終わりました」

 正確にはクラン以外の三人にだが。自由人の女王陛下は祖父とひたすらせっせっせーで遊んでいた。

『良かった。一人で先に帰って、那美さん達の御迷惑になったのではないかと』

「いいですよ栗花落さんが気を揉まなくても。毎週遅くまで残っているんですから、偶に早く帰れて嬉しいぐらいに思っておけばいいんです」

 受話器の向こうにはきっとあの柔らかな微笑があるのだろう、想像するとこちらまで口元が緩む。

「あ、そうだ。スナック杏里のトラブルですけど」

 私はママンの話とクランの指示を掻い摘んで説明した。

「それで明日芳養先輩の家へ行く、と言うか不法侵入する事になりました」

『まぁ!』

 クランは不思議な事に、家族や近所に聞き込むと言ったバイトで馴染みの方法の一切を禁止した。

『コンクリートで固めた壁からは何も滲み出さない。直接穴を空けて中を覗き込む方が何倍も手っ取り早い』

 芳養先輩の家は共働き。先輩自身も平日の昼間は龍士会で仕事中。その留守を狙って家に入り部屋を物色とは、正に泥棒そのものだ。

『一応レイを付けるよ、女の子一人で男の部屋に入るのもどうかと思うし。まぁ、いざとなったら逢引に丁度良い場所を探していたとか言えばいい。人間ってそう言う事には結構寛容だから』

『おい!那美にそんな事させられるか、お前が来い!』

 微妙なニュアンスでレイ君が反論する。まるでクランとなら堂々と声高に宣言してやろうじゃないか、と聞こえる。

『駄目、私は別の用があるの。ねえ二人共?』

『そうよレイ。人間諦めが肝心って教わらなかった?』セミアちゃんがピンクの唇で冷笑を浮かべる。色っぽい。

 そんな訳で私は明日、レイ君と非公式ガサ入れに行く。あくまで教室の生徒の問題なので、バイト先の上司への相談はしていない。

『那美さん。その捜査、私にも協力させては頂けませんか?』

「栗花落さん!?」何を言い出すんだこの女性は。「いけません!あなたは一般人です。危険な目に遭ったら先生に怒られますよ、叱られて叩かれるかも」

『それは大丈夫です』確信を持った言葉。『旦那様は私を殴りません、絶対に』

「そう、なんですか?」確かに先生が持ち得る愛情の全てを捧げる(隣人愛ごとだ。お陰で周りの評価は気難しい偏屈学者で一致している)この女性に手を上げる姿など想像もできない。栗花落さんはそれ程先生を信じ切っているのか。

『はい。怒られるぐらい、教室の皆さんのためならどうという事はありません。私もお役に立ちたい……飾られるのは本意ではないのです』

 確かに先生、彼女を人形のように大事に大事に扱ってはいるが(その分他人は雑の極み)、飾るとは少し違う気がする。普段家の中でどんな接し方しているのだ、先生は。

「でもどうやって出て来るつもりですか?」商店街の買い物なら一人でも出来るが、芳養先輩の家は方角も違うし、アパートから徒歩片道二十分は掛かる。アリバイ作りで買い物までしていたら絶対先生に勘付かれ、以後厳戒令物だ。

『旦那様は明日午前中からお出掛けになるそうです。こっそり抜け出しても発覚しません』

「だけど栗花落さん」盲目の彼女に窓から入るなんて芸当、出来るのだろうか?「窓枠まで足上げられますか、じゃなくて!私達芳養先輩の家を調べに行くんですよ?何も見えないあなたがいても手掛かりは……」

『那美さん、視力では見つけられない物も案外沢山あるものですよ』

「栗花落さん……」もう限界だ。彼女を説得する手持ちの切り札は無い。「分かりました、今からクランとレイ君に相談してみます。それで駄目だったら諦めて下さいよ」

『はい』憎らしい程嬉しげな返事だった。

「じゃあ今夜はゆっくり休んで下さいね」

『分かりました。お休みなさい、那美さん』

 プツッ、ツーツー……。

「ふう」

 再び祖母の遺影の前に行き、両手を合わせて拝んだ。

(柚芽お婆ちゃん、お願い。栗花落さんを守ってあげて……)

 昔の私みたいに。



「母さん。さっき母さんと父さんの友達に会ってきたんだ。“白の星”のスナックのママン」

 うちの真面目な衛兵が掃除したのか、薄い雪の積もった墓地には雑草一つ無く綺麗なものだ。

「写真見せてもらったよ。俺と父さんそっくりだな……母さん、ありがとう。クランと出会えたのは母さんのお陰だ」

 彼女は普通いそうな可愛い女の子ではない。いつも寝惚けた目に、やる気があるのかないのか分からないしかも突飛な言動。年頃の娘と殆ど接触の無かった俺でさえ、普通の女子とは別種だと早くから気付いた。彼女に比べればセミアはすこぶる文学女性ど真ん中だ。

「ここから聞こえるかな、今家の中結構賑やかだよ。昼間は広間で大勢作業しているし、夕食の後もよく遅くまでお喋りしてるんだ。人が増えるってのは良いもんだな」

 前は国を支える場特有の静寂みたいな物があって、子供ながらに騒いだりしてはいけないと感じていた。重く積もったそれらを今の女王陛下はあっさり溶かした。古臭い城がようやく家に生まれ変わった。

 黙祷を捧げて立ち上がった時、ポケットの中で何かが音を立てた。

「母さんごめん、また来るよ」

 家へ歩きつつ、ラッピングされた小袋をズボンの中で握る。

(こんな大事な物忘れるなんてどうかしてるぜ。もうセミアに先越されちまったかな)

 洋服と一緒の袋に入れたのか、特にそれらしい物は持っていなかった気がする。

(同じフロアでは一度も見かけなかったから、物が被っているって事は無いはずだ)

 裏口から城に戻ると美味そうな匂いが鼻腔をくすぐった。お、今日はカレーか。何とか夕食前にはこいつをクランに渡しておかないと。さて、あいつはどこ行ったんだ?ベストスリーは自室、婆さんの部屋、執務室のソファの上って所か。いや、この匂いに釣られて既に食堂に来ているかもしれないな。

 取り合えず第一候補の女王陛下の部屋のドアの前まで来た。異音、ドアの中から不気味な含み笑い声が漏れ出している。ノックしようとするが何故か腕が上げられない。金縛りなのか声帯も使えない。何なんだこれは!?

 後退し、部屋に背を向けて俺は廊下を戻った。あの声が何か……知ってしまったら二度と戻れない気がする。

「あらレイ。もう来たの?」

 食堂では姉さんがテーブルを拭いていた。そこへアスがワゴンで取り皿、スプーンフォーク、グラスやナフキンを持って来る。

「よう。セミアはまだラントと婆さんの所か?」

「セミアさんなら女王様を探していますよ、さっきここを通って行きました」どうやら向こうもまだのようだ。「レイさんはもう渡したんですか、プレゼント?」

「いや、すっかり忘れてた。飯の前に渡すよ、もうすぐ来るだろ」

 衛兵を手伝って食器を並べていると、キッチンからラントが顔を出した。

「あれ、まだ帰ってなかったのか?大丈夫なのか終便は」

「はい。今日は両親の船に乗せてもらって来たので。二人共スキーが趣味で、今日もナイトタイムギリギリまで滑ってくると言っていました」

クオルの周辺地域では冬になるとスキーやスノボーが盛んだ。幼い頃は俺や姉さんも、母さんに連れられて毎日のようにゲレンデで遊んだものだ。

「では帰りも御両親の船で?」

「待ち合わせまでまだ四時間以上、ここでゆっくり夕食を摂ってからでも充分間に合います」

「個人の船って事は、家で商売でもしてるのか?」

「いえ。曾祖父のつてで、連合政府で中古になった小型船を自家用に安く貰ったのです。二人共アウトドア好きで、手に入れてからはそれこそ毎週のように――あ、済みません!鍋を混ぜないと」頭が引っ込む。

「今日は彼の特製カレーよ。ルウはいつもと同じだけど」布巾を返しながら姉が言う。

「そりゃ楽しみだ」

「隣で見ていたけれど、結構料理上手よあの子。野菜の切り方が随分慣れているわ」

 因みに家のスタンダードは中辛のスープカレー、鶏肉とトロトロに煮込んだジャガイモがメインだ。

 キッチンに入ると、休暇中の裁判官は寸胴鍋の中身をお玉で一生懸命混ぜていた。

「ほう」

 シャバシャバでない、ドロッとした緑色のルウ。

「この時期よく家で作るほうれん草カレーです」

 草以外の具はジャガイモと鶏肉、人参玉葱と至ってオーソドックス。

「美味そうじゃないか」

「そう言って頂けると作り甲斐があります。もう五分程煮込んだら完成ですね」

 その時食堂の方でキィキィ車椅子の音がした。キッチンを覗き込む皺くちゃの顔。

「おや、今日は客人さんの手料理かい?」

「はいお婆さん。いつもとは一味違うカレーライスです」

「それは楽しみだねぇ」

 婆さんは手を叩き、ホッホッと笑いながら定位置に車椅子で着いた。


 リリリリンッ―――!


「こんな時間に誰だ?」

 電話を取りに大広間へ行くと、反対側の通路からクランとボビーが来ていた。少女の手が一足早く壁に設置された鉄製の受話器を取る。

「はい……ああ、そう。いいよ、多分そうなると思ってた。それより最近身の回りで変な事が起こってたりしない?」

 クランは首を横に振る。

「違う、那美の周りで。家にいる時やバイトの時」

 ???女王陛下は何を訊いているんだ?トラブルがあるのはオカマバーだろう?

「……ふぅん、成程。ところで那美、芳養先輩と最後に会ったのは何時か覚えてる?……その時はどんな話を?」

 ボビーが俺に気付いて近付いてくる。普段と違うカレーに反応しているのか、鼻がヒクヒクしていた。

「クゥンクゥン」

「よしよし。お前の飼い主、今度は何を考えてるんだ?」

「クゥン?」ふさふさの首を捻る。分かる訳無いだろう?と言いたげだ。

「へぇ、じゃあ精々顔見知りって所?」眠たげな目に少しだけ光が宿る。「ふぅん……それはそうか……ねえ、一つお願いがあるの。明日芳養先輩の家に行ったら」手で受話器を覆って小声で指示する。「うん、お願い。じゃあね、お休みなさい」ガチャッ。

「あれレイ、いたの?」

「いたさ。今の電話那美からだろ、何かあったのか?」

「ん、明日栗花落さんが一緒に来るって話」

「え?栗花落さん?」

「手伝いたいんだって、教室の皆のために。中々度胸あるね」

「いや待て!何でお前それを承諾したんだよ!?彼女目が見えないんだぞ!」潜入捜査なんて出来る訳がない。

「視力だけで全てが見える訳じゃない」ボビーの頭を撫でる。「もしかして彼女も薄々気付いて……レイ、芳養先輩の家に着いたら栗花落さんに出来るだけ協力してあげて」

「おい!」人の話聞いてるのか。




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