リハーサル
文化祭の二週間前になると、体育館でのリハーサルが始まった。
幸樹はステージ袖二階の音響ブースにこもって、CDを取り替えながら舞台の進行を見続ける。トップライトの操作も、音響ブースに居る者の役目だった。目の前のキャットウォークには、雪降らせ役の千秋が雪の袋を抱えて陣取っている。
そして、青年がお地蔵さんに笠を掛けるシーン。
幸樹がメリー・クリスマス・ミスター・ローレンスを流すと、ステージは一気に厳かな雰囲気に変わった。
――やっぱりこの曲はなにか得たいの知れぬパワーを持ってるな。
音楽の力を痛感しながら幸樹は舞台を上から眺めていた。
千秋が降らせる少し大きめの雪の中、七体のお地蔵さんは目を閉じて澄ましている。
そこに、松岡が演じる青年が一体ずつ笠を掛けていく。
青年が持っている傘は五つ。それだけでは足りないので、六体目のお地蔵さんは青年が掛けていた笠が掛けられる。
そして最後のチビ地蔵。
いよいよ小雪の番だ。
――あいつ、ちゃんと演技できるかな。
少しドキドキしながら幸樹が見ていると――青年役の松岡が自分の掛けている手ぬぐいを外している間、小雪はそっと目を開けた。
――おいおい小雪。お地蔵さんはずっと目を閉じてなくちゃダメだろ。
松岡が手ぬぐいを外し終わると、今度は二人の目が合った。そして小雪は松岡に向けて満面の笑みを送る。
――だから表情を変えちゃダメなんだよ。お地蔵さんは無表情なんだから……。
なんて嬉しそうな笑顔なんだろうか。そのまぶしさは、幸樹の心に影を落とした。
そして手ぬぐいを掛けてもらっている間、小雪は松岡をじっと熱く見る。
観客側からは、松岡の影になって小雪の表情を見ることはできない。
――だからといって、そんなに見つめることはないじゃないか。
幸樹の心は張り裂けそうになった。
もしかしたら、他のお地蔵さん役の女生徒も松岡を熱く見ていたかもしれない。他の先輩方のそういう演技を、真似しただけなのかもしれない。しかし二階に居る幸樹からは、笠が邪魔になって他のお地蔵さんの表情は見えない。幸樹にとって、松岡を見つめている存在は小雪だけなのだ。
『小雪先輩のこと、松岡先輩に取られちゃいますよ』
先日の千秋の言葉が、幸樹の頭の中で反射する。
――こんなに胸が苦しくなるなんて。
この期に及んで幸樹は理解した。
小雪に対する自分の気持ちが本物であることを。
そして同時に、もう手遅れかもしれないということを。
それからの演劇の進行について、幸樹はほとんど覚えていなかった。
機械のようにCDを取り替えて、機械のように音楽を流す。
行動をオートマチックにすれば、心なんて必要なかった。
幸樹を我に返らせたのは、突然体育館に響いたキャーという女生徒の悲鳴だった。
――な、なんだ。何が起きた!?
二階からステージを見ると、真下に小雪が倒れていた。顔の辺りを血で赤く染めながら。
「小雪、大丈夫か!?」
松岡が小雪の元に駆けつける。
「小雪ちゃん、しっかり!」
彩夏も小雪の元に駆け寄る。
「誰か、顧問の先生を呼んできて!」
二人の影になって小雪は見えなくなってしまった。だから自分の出番は無くなったと幸樹は呆然とする。
――小雪だって松岡先輩に介抱してもらった方が幸せだろう。
すると千秋がキャットウォークを慌てるように幸樹に向かって来た。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私の雪で小雪先輩が転んでしまって……」
千秋は泣いていた。
「えっ、雪がどうかしたの?」
「先輩、見てなかったんですか? 小雪先輩、ダンスの時に雪で足を滑らせて……」
全く記憶に無い。
「あ、ああ。う、うん」
生返事をする幸樹に、千秋は「だから小雪先輩を取られちゃうんですよ」と言わんばかりの眼差しを幸樹に投げつけた。そして幸樹の横をすり抜け、階下の小雪の元へ駆けて行く。
幸樹は二階に一人残された。
ぼんやりと目に映るステージでは、慌てて駆けつけた顧問に小雪が抱えられて消えて行く。きっとこれから病院に連れて行かれるのだろう。
――今日の帰りは一人か。小雪にとって僕は、もう要らないもんなんだな……。
ステージには千秋が降らせた紙の雪と、小雪の鼻から流れた血が残された。