8章:宵闇の鴉
ミラが外に出ると初夏の生ぬるい風が吹いていた。
「もうそろそろ暑くなってくるわね⋯⋯」
通りに出した看板を畳むために、一歩踏み出したその瞬間、思わず身体が固まった。
革が焦げたような、野獣のような匂い――。
忘れもしないこの匂いは⋯⋯
「ミラ?どうした?」
立ち止まったままのミラを不審に思ったソーレンが店内から出てくる。
「ソーレン⋯⋯あの男の、クロウの匂いがする」
「――中にいろ」
すっと探偵の顔になったソーレンはそれだけ言い残し駆け出した。
ソーレンはビルの周囲を全力で駆け抜ける。
事前にチェックしていたクロウがこのビルを監視していそうな、街の死角となる位置を確かめる。
角を曲がり、裏路地に差し掛かるが、すでに姿は見えない。
「消えた……早すぎる……やはり、あいつか」
周りを見渡すと隅の方に煙草の吸い殻が一本落ちていた。昔、クロウの捜査資料で見た銘柄だ。
間違いない。あの男はここにいた。
閉店時間を過ぎ、薄暗くなったカフェで、ミラはソーレンの帰りを待っていた。
「ソーレン!」
店内にいたミラが駆け寄る。
「逃げられた。だが、確かにいた」
「どうして、ここに……」
「……それが問題だ。ルシアンのギャラリーが目的なら、動き方が妙だ」
ソーレンの額には汗がにじんでいる。
走った後で暑いのだろう、ミラはキッチンに水を取りに行く。
グラスとタオルを手に、ミラが振り向いた瞬間、足がぴたりと止まった。
ソーレンはリネンのジャケットを脱ぎ捨て、Tシャツ姿になっていた。
その鍛え上げられた逞しい腕。
その厚い胸板に、無意識に視線が引き寄せられた。
(私ったらこんな時に――)
ミラは慌てて目をそらしグラスとタオルを差し出した。
「ソ、ソーレン、お水⋯⋯」
「ああ、ありがとう」
いつもより掠れた低いその声を強く意識してしまう。
首をゴクゴクと鳴らして水を飲むソーレン。
上下する汗ばんだ喉元をちらりと盗み見てしまう。
(ああもう!客席の明かりを消していてよかった。きっと私、顔が真っ赤だわ)
「今日は送る、奴がまだ近くにいるかもしれない」
タオルで顔を拭いたソーレンが外を警戒しながら言う。その顔は事件と対峙する探偵の顔だ。
「⋯⋯うん、お願いします」
(……ああ、なるほど。今のソーレンは“警察犬モード”)
そう思ったはずなのに、心臓がまた少し速くなる。隣を歩く彼の肩や、控えめに差し出される手に触れるたび、ミラの胸の奥がざわめいた。
彼はただ、探偵として目の前の危険に備えているだけ――それは、よくわかっているのに。
(……ずるいわよ。そういうつもりじゃない顔で、ちゃんと“守って”くるなんて)
ソーレンは、振り返りもせずに言った。
「鍵をかけたら、二重に確認しろ。窓もだ」
「……はい」
言葉は短くても、そこには確かな想いが込められていた。
夜の空気はまだ少し暑くて、でも心のどこかがひんやりと、そしてあたたかかった。