6章:兄弟
その日、ソーレンはランチタイムが終わるころ、普段より少し早い時間にカフェ・アロームに現れた。
「いらっしゃいませ、ソーレン」
「やぁ、ミラ。いつものを頼む」
そう言って彼が腰かけたのは、すっかり指定席になっている窓際の席……の隣にある、少し広めのテーブルだった。
(あら?⋯⋯ああ、そういえばお兄さんが会いに来るって言ってたわね)
いつも通りお礼を言ってカップを受け取ったソーレンは、どこかそわそわして落ち着きがない様子だった。
(緊張してる?お兄さんって、怖い人なのかしら……?)
ソーレンはいつものアロームブレンドの香りを吸い込んで気分を落ち着かせていた。
(兄さんにミラを紹介できるだろうか?兄さんは優しいけど、見た目が熊みたいだからな。ミラは怖がらないとは思うが⋯⋯)
時計を確認しつつとりとめのない事を考えてしまう。
14時。カランカラン、と鈴の音が鳴る。
ミラが顔を上げると、大柄な男性がドアをくぐるところだった。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
「こんにちは。すみません、人と待ち合わせをしているのですが⋯⋯」
穏やかな声で挨拶しながら、男は眉を下げてミラに問いかける。
眼鏡の奥の瞳がどこかで見たような――そう、誰かに似ている。
「こっちだ」
「あぁ、ソーレン」
男はミラに軽く会釈をしてから、ソーレンの席へ向かい、がっしりとハグを交わす。
「元気だったか、ソーレン」
「兄さんも久しぶり」
あっとミラは納得した。 並んで座るふたりは雰囲気こそ違うが、確かに同じ瞳をしている。
「兄さんは何がいい?ここはサンドも美味しい」
「そうだな、じゃあ本日のサンドと……飲み物はお前と同じのを貰おうかな」
仲良さそうにメニューを覗き込むふたりの姿は、まるでかつて一緒に絵本を開いていた兄弟の姿を想像させる。 ミラも自然と笑みがこぼれた。
けれど、熊のような兄と、狼のような弟が並んでいる図は、知らない人にはなかなかの迫力かもしれない。 実際には――今日のソーレンはすっかり“子犬モード”で、尻尾を振っているのが見えるようだ。
(なるほど、落ち着かなかったのはお兄さんに会えるのが嬉しかったからなのね)
「かしこまりました」
メニューを受け取ったミラはキッチンで“本日のサンドイッチ”サーモンのホットサンドの用意に入る。
「相変わらず忙しくしてるみたいだな」
「刑事時代ほどじゃないさ、兄さんこそどうなんだ?」
「週末はいつも息子の試合さ。この間も何回かゴールを決めたんだ。お前に似てなかなか筋がいいらしい」
「やるじゃないか。それに兄さんの子ならもっと背が伸びるだろう」
「ははっ違いないね。⋯⋯そういえば、母さんの誕生日プレゼントはどうするのか聞こうと思ってたんだ。もう来月だろう?」
「⋯⋯しまった。まだ考えてない」
「ガーデンチェアはやめてくれよ、俺が贈る」
「⋯⋯来月までに考えておく」
子犬ちゃんが少し落ち込んだところにミラはサンドイッチとコーヒーを持っていく。
「お待たせしました、本日のサンドとアロームブレンドです」
「ありがとう。美味しそうだ」
「ありがとう、ミラ」
カップを置くと兄弟が同じタイミングでお礼を言ってくれる。ソーレンもお兄さんも丁寧にお礼をするのはウルフ家の教えなのかもしれない。
「そうだ、紹介がまだだったな」
キッチンに戻ろうとしたミラをソーレンが呼び止めた。
「こちら、ミラ・アマリ。……この店のオーナーだ」
「はじめまして、アンダース・ウルフです。弟が、よくお世話になってるようで」
「こちらこそ、いつもご来店ありがとうございます」
ミラはにこやかに挨拶を返し、アンダースも柔らかい笑みを浮かべる。
彼の体格は大柄で、一見すると威圧的にも見えるが、その口調と仕草には穏やかさがにじんでいた。
「この間、兄さんに少し話した“親しくしてる人”が彼女だ」
ソーレンがやや照れたように付け加える。
ミラは少し驚いたようにソーレンを見た。
紹介されたことが嬉しくないはずがない。それでも、その表情の奥には「何をどこまで話しているんだろう」という疑問も見え隠れしていた。
「なるほど、なるほど……」
アンダースは目を細めてソーレンを一瞥し、控えめに頷く。
「来月母の誕生日パーティーをやるんだが、アマリさんもどうかな。うちの母も、君みたいな人が来てくれたら目を丸くして喜ぶよ」
「……余計なこと言うな、兄さん」
そう返しながらも、ソーレンの頬がわずかに赤らんでいるのを、ミラは見逃さなかった。
それから兄弟はしばらく近況報告をし合っていた。ニコニコと笑い合っている訳ではないが、それを互いに気にしている風でもない。リラックスした自然体の空気。その光景はミラにソーレンの部屋で過ごした数日を思い出させた。
誰かといることに久しぶりの心地よさを覚えたあの夜。彼とならあんな風に毎日を過ごせるのだろうか。
「⋯⋯元気な顔が見られて安心した」
ソーレンはポツリと漏らした兄の声に思わず苦笑する。
「⋯⋯それが今日の“本題”か?」
「そりゃお前が強い男なのは分かっているが、兄としては弟のことが心配なんだよ」
「兄さん⋯⋯」
アンダースはにやりと笑うと態とらしく声を落として弟に囁く。
「俺はまたお前が無茶してるんじゃないかと⋯⋯ほら、ガキの頃もクラスメイトがイジメられてたって上級生と喧嘩して大怪我して帰ってきたろ?」
「アンディ兄さん!⋯⋯その話ミラにはしないでくれよ?」
食器を片付けていたミラが顔を上げると、アンダースが帰り支度をしているところだった。
「ありがとうございました」
「アマリさん、今日はお会いできてよかった。これからも弟をよろしく。無愛想だけどいいヤツだからさ」
「え、はい!」
「⋯⋯兄さん」
「ははっそれじゃあまたな、ソーレン」
アンダースはミラと別れの握手をし、それから再びソーレンとがっしりハグして笑顔で帰っていった。
残されたのはふんわりとした日向の匂いだった。
ソーレンと同じ陽だまりのような暖かな香り。
彼ら兄弟は瞳の色がそっくりなように、香りもそっくりなのか――もしかしたらこれが“血の繋がり”なのかもしれない。
少しだけ照れたようなソーレンの横顔を眺めながらミラは“家族”という言葉の意味を、改めて考えていた。