3章:駅舎に立つ匂い
閉店間際のカフェ・アローム。
いつものようにソーレンが最後の一杯を楽しんでいる。
「明日、新駅舎の視察に行く。……もしよければ、君にも来てほしい」
拭き終わったカップを持ったままミラが振り返る。
「私も⋯⋯ですか?」
「君の鼻は鋭い。……あの場で、何か感じ取れるかもしれない」
探偵の顔をしたソーレンが真剣な表情で答える。
その目に浮かぶ“信頼”を見てミラはゆっくりと頷いた。
翌日、ルシアンに新駅舎の視察に連れて行ってもらった。
工事用の幕をくぐると、高い天井から陽光が差し込む広大な空間が広がっていた。
完成間近ではあるものの、まだあちらこちらで彫刻やベンチがシートに包まれたままになっている。
ミラは無意識に深呼吸をし、現場全体の空気を吸い込むと仄かに石材と乾いた塗料の匂いがした。
広場奥には巨大な壁画が設置されているが、こちらもまだ半分カバーがかかったままだ。
ルシアンの後ろで室内を見回っていると、入口の方からゆったりとした足音が聞こえてきた。
「モローさん、順調ですか?」
溌剌とした笑顔の背広の男性、アルテリオ市市長ヴィンセント・ロウである。
彼のことはミラもTVニュースなどで見たことがある。
ルシアンも笑顔で振り返る。
「ええ、問題ありません。ロウ市長」
「警備について、なにか不安があるということでしたが?」
ロウ市長は聡明そうな緑の目を、ルシアンの隣に立つ二人に向けた。
「その件で彼に依頼しました。彼は元捜査一課のソーレン・ウルフ。彼女はアシスタントとして連れてきたミラ・アマリです」
「ウルフです」
ソーレンは手を差し出し簡潔に挨拶する。
その手をがっしりと掴むと市長はよく通る声で言う。
「このアルテリオセントラル駅からこの街を再び盛り上げていきたいのです。その為にも邪魔される訳にはいかない。どうぞよろしく頼みます」
すっと隣のミラにも手を差し出す。
ミラも手を差し出し慌てて挨拶する。
「ミラ・アマリです。お会いできて光栄です」
「アマリさんもよろしくお願いします」
今度は、少し優しげに――しかし確かな力で、ミラの手を握った。
その市長から漂う香りにミラはふと何かを思い出す。
(この香り……すっきりしたハーブと、微かなレザー。アレックスさん……に、似ている?)
挨拶を終えた市長はすぐにルシアンと彫刻を置く場所について話しながら歩き出した。
その様子をソーレンは視界の隅で観察する。
ルシアンはいつも通りの丁寧な姿勢を崩さず、市長はニュースで見るままの政治家然とした態度で話している。いかにも仕事の間柄といった風だ。
しかし頷く仕草、腕を組む癖は奇妙なほど似ているように見える。
なにより、少し左足を引き摺るように歩く市長を庇うかのように左側に周るルシアンはあまりに自然な動作だった。
(……あの二人、ただの仕事相手って感じじゃないな。長い付き合いか、あるいは――)
「なんて大きい絵⋯⋯」
ミラは広場奥の壁画の前に立って、絵を見上げた。
しかし、何かが彼女の嗅覚に引っかかる。
「古い油絵具の匂い……でも、その中に混じってる。もっと古くて、もっと重い……記憶みたいな香りが――」
「覚えておこう。それが手がかりになるかもしれない」
いつの間にか隣に来たソーレンが静かに告げる。
ミラは少しだけ頷きながら、視線を壁画に向け続ける。
絵自体は抽象的な都市の風景だが、背後から“何かがこちらを覗いているような気配”があった。