2章:その香りは、まだ新しい
詳細を話し終わったルシアンは時計に目をやり立ち上がった。
「今日はこのあと市の担当者と打ち合わせでね、警備の話もあるしソーレンも同行していただけますか?」
「ああ⋯⋯警察にも話をする必要がある」
ソーレンが立ち上がるのを待たずに入り口まで歩いたルシアンはミラに振り返る。
「あぁ、レクシーが上にいます。よかったら手伝いをお願いしますね」
「それじゃあ、行ってくる」
少し大股でソーレンがルシアンを追いかける。
「二人ともいってらっしゃい」
カランカランと小さなベルの音をさせて二人が店を出ていった。
ミラの視線を背に、ソーレンとルシアンは並んでカフェを出る。
いつもより少し硬い足取りのソーレンに、ルシアンがふと目をやる。
「肩に力が入ってるよ、ウルフくん」
「……試験中だろ?」
「ほう、察しがいい」
ルシアンが口元を緩めたのを、ソーレンは目の端で捉えながら、静かに息を吐いた。
二人を見送ったミラは二階のギャラリーへ上がる。
「⋯⋯アレックスさん?」
「あら、ミラちゃん」
ギャラリーの奥からアレックスがキャンバスを片手に顔を覗かせた。
「ルシアンさんから手伝いがいると聞いてきました」
「ありがとう、助かるわ。駅舎に搬出する絵があるの。だから他の作品を一度動かさなきゃならなくて」
ギャラリーの作業は、思いのほか力仕事が多かった。
アレックスは慣れた手つきで展示台を持ち上げ、長身を活かして棚の上へ木箱をしまう。すらりとした体からは想像できないほどの力強さがある。動きに無駄がなく、それでいて一つ一つが丁寧だった。
「それ、持ちましょうか?」
ミラがそう声をかけると、アレックスは振り返って微笑んだ。
「ん?ありがとう。でも、これは意外と重いのよ。慣れてるから平気」
そう言いながらも、ミラは手近な軽そうな箱を抱えようとしゃがみ込む。だが、ちょっとした段差につま先が引っかかり、思わずよろめいた。
「わっ……」
「あら、危ない!」
咄嗟に伸びたアレックスの腕が、しなやかにミラを支える。
腕の中、彼女の香りがふわりと漂ってきた。
すっきりとしたハーブと、微かに甘いレザーのような香り――
どこか懐かしい。けれどミラがまだ知らない、“憧れ”の匂い。
「ミラちゃん、大丈夫?」
「あ、ありがとうございます」
微笑むアレックスにこんな風に歳を重ねていけたら、どんなに素敵だろう。
そう思った自分に、少しだけ照れた。
担当者との打ち合わせが終わり警察署へ向かう道中、いつも通りのルシアンといつもより少し硬い雰囲気のソーレンの間には妙な緊張が流れていた。
「クロウのことは、正直まだ確証はない。でも――レクシーの勘は信じている。何より、彼女が今、本気で“身構えて”いる」
その言葉に、ソーレンは短く頷いた。
まだアレックスとそう何度も話したことはない。しかし、ルシアンが曖昧なことを言う人ではないと感じている。
その彼が真剣な眼差しで妻の勘を信じているという。ならばソーレンとしてもそれを信じよう。
「ところで……後日予定されている、内部の視察、ミラを連れて行きたいのですが?」
「ミラを?」
ソーレンは静かに頷いた。
「彼女の鼻は鋭い。現場で何かを感じるかもしれない。もちろん、俺が付き添います」
ルシアンはしばらく目を細めて考え込んでから、ひとことだけ。
「なら、任せます。ただし……」
言葉の先は続かない。だが、それだけで十分だった。