23:幻の絵画
「古い絵の具の匂い?」
ミラの呟きにヴィンセントが首をかしげる。
「ミラはやっぱりあれに気付いていたのね」
アレックスが柔らかく笑った。
「彼らにあれを見せてあげよう」
ルシアンの言葉に、ヴィンセントは少しためらい、それでも頷く。
「あぁ⋯⋯シェパードさん、貴方にも見てもらいたい」
ミラ、ソーレン、イーライ、モロー夫妻、そしてヴィンセント。
六人は新駅舎へと向かった。
賑やかな駅前広場を通り過ぎ、駅舎内へ向かう。
最奥の広間は人もおらず、周りの喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
立ち並ぶ絵画の中、最も大きな壁画の前で彼らは立ち止まった。
ミラが壁面に近付き、目を閉じる。
「この絵の後ろに……古い絵の具の匂いを感じるんです」
その声に、ルシアンとアレックスは顔を見合わせ、わずかに笑う。
「やっぱり、あなたなら分かると思ってたわ」
アレックスが言うと、ルシアンは絵の脇にある重厚な鉄扉の鍵を外した。
その動作はまるで子供のように楽しげだった。
――ガコン。
重い錠前が外れる音。
二人は、イタズラが成功した子供のような笑顔で扉を開け、カチリと照明をつけた。
そこは真っ白な小部屋で、ひんやりとした空気が漂っていた。
まるで銀行の金庫のように、湿度も温度も完璧に保たれている。
空気の粒子すら整っているような、静謐で神聖な空間。
“祈りの箱”――その表現がぴたりと似合った。
「こちらです」
ルシアンが静かに言い、アレックスがミラの背を押した。
イーライと目を合わせたヴィンセントが、そっと頷く。
「これは……!」
ミラの声がわずかに震えた。
「……こいつは!」
イーライも低く唸るように言葉を漏らした。
「これが、古い絵の具の正体か……」
ソーレンが呟く。
壁画のちょうど裏側に、一枚の風景画がかけられていた。
淡い青と金色で描かれた、古いアルテリオ市の街並み。
そこには、この都市の“始まりの物語”が描かれていた。
イーライは一歩前に出て、真剣な眼差しでその絵を見つめた。
「――そしてこれは、三十年前にギャラリーゴーストが盗んだアルテリオ市の伝説の絵画……そうですね?」
視線を逸らすヴィンセントが、静かに頷く。
「私たちの……最後の仕事だったものです」
ルシアンが肩を並べ、微笑む。
「素晴らしい絵だろう? 私たちの前に盗んだ連中の扱いが酷くてね。修復に時間がかかったんだ」
「ええ……本当に、素晴らしいです」
ミラが小さく息を呑む。
ルシアンは続けた。
「せっかく修復したんだ。守るだけじゃなく、皆に見せたかった」
ヴィンセントが苦笑する。
「そうは言っても、私たちも“盗んだ身”だからね。どうしたものかと悩んでいたんだが、アレックスが“駅舎に飾ればいい”と言い出して」
ルシアンが笑って頷いた。
「絵の後ろに絵を隠すなんて、私では思いつかなかったよ」
アレックスが肩を竦める。
「だって、こんなに素敵な絵なのに眠らせておくなんて勿体ないでしょ?」
「この市のために描かれた絵です。市民に返したかったんです――今は、こんな形ですが」
ヴィンセントの言葉に、ミラとソーレンは穏やかに微笑み合った。
やがて、ヴィンセントはイーライの方へ向き直る。
「三十年前の盗難事件ですが……まだ時効にはなっていないはずです。証拠はこちらに。犯人も……」
ミラとソーレンがはっと息をのむ。
イーライはじっとヴィンセントを見つめ、そしてふっと困ったように笑った。
「――あ〜、俺の記憶が確かなら、これはアルテリオ市の美術館から悪人が盗んだ絵だったよな?」
「それをギャラリーゴーストが盗み返して、市に戻した……なら、被害者はいないんじゃないか?」
軽く首を傾げ、隣のソーレンにとぼけた目を向ける。
ソーレンは一瞬固まった後、慌てて言葉を探した。
「あ、あぁ……被害届はアルテリオ市から出てたはずだから、えっと……紛失扱いで……なんとかなるんじゃ……」
「なくしものが見つかっただけってことですか?」
ミラが続ける。
「そう、そういうことだ。じゃあ問題ないな」
イーライが満足げに頷く。
呆気にとられる若者二人をよそに、ルシアンとアレックスは微笑み、ヴィンセントは目を瞬いた。
「ちなみに――担当刑事は俺だった」
イーライが笑みを浮かべる。
「元担当刑事として、これは私が処理すべき事件だ」
「報告する上司も、とっくに引退しちまってるがな」
そう言ってウインクすると、場の空気が少しだけ和んだ。
記録にも、報告にも残さない。
それが彼なりの赦しだった。
ミラは静かに絵の前に立つ。
冷たい空気の中、そっと息を吸い込んだ。
そこには、絵具の香りだけでなく、新しい石灰と金属の匂いがかすかに混じっていた。
――この部屋そのものが、絵を守るために造られたのだ。
“政治には金がかかる”――昨日の彼の言葉が、胸の奥で柔らかく響いた。
あれは方便ではなく、誇りだったのだと、ミラは静かに悟った。
隣を見ると、ソーレンも同じ事に気が付いたのだろう。
その金の瞳に、尊敬と少しの羨望が宿っていた。
ガチャリと大きな音を立てて、再び扉が閉じられる。
絵は再び眠りにつき、いつかまた誰かが夢を見るその時を待つ。
そこに漂うのは、誰かが心に描いた“幻”の香りだった。




