1章:静かな予兆
ランチの時間も終わり、カフェ・アロームは今日も穏やかな空気に包まれていた。
強面の男、ソーレン・ウルフがいつもの窓際の席につくと、店主ミラ・アマリは注文を聞く前にそっとカップを差し出す。
「いつもの、でよかったですか?」
「ありがとう。……やっぱり君が淹れると、香りが違う」
ミラはふふっとはにかみ、
「そんなに変わりませんよ⋯⋯今日は、いつもより早いですね」
「静かな時間を狙って来てみた」
「……お気に入りの席も空いてましたしね」
「それだけじゃない。君に会いたかったから、って言ったら――営業妨害になるか?」
彼の穏やかな低い声が、ミラの耳を撫でる。
言葉を探して沈黙する彼女に、カップに口をつけたソーレンが問いかける。
「最近、よく眠れてるか?」
「……ええ。ようやく、悪夢も減ってきました」
「そっか。……でも、もしまた何かあったら、遠慮しないで。君が困ってるなら、俺はすぐ来る」
まっすぐに見つめてくる金の目に、耳も頬も熱を帯びていくのを感じた。
「……そんなふうに言われると、頼ってしまいそうで怖いです」
「頼られたくて、ここに通っているのに?」
こてん、と首を傾けたその姿は、事件のときの猟犬のような鋭さではなく――撫でられるのを待つ子犬のようだった。
「……それ、ずるいですよ」
「そうか?」
「君に頼られたら、いつでも飛んで来るよ」
そう言って、ソーレンはふっと微笑み、ミラの手を取ろうと手を伸ばす──
室内の空気が甘くなりかけた、その時。
一つの足音が、階段を降りてきた。
「おや、これは偶然……というには、毎度すぎるな」
2階から現れたのは、今日もループタイをきゅっと締めたルシアン・モローだった。
ソーレンは何食わぬ顔で手を引く。
「やぁ、ルシアン」
「あ、こんにちは。お仕事終わりですか?」
「いや、今日はちょっと相談があってね。できれば、君も一緒に聞いてほしい」
ルシアンの雰囲気が変わったのを感じ取り、ソーレンも自然と仕事の顔になる。
「……何か、あったのか?」
普段穏やかなルシアンの焦りと疲労を嗅ぎ取ったミラは黙ってカモミールの茶葉を手に取った。
「⋯⋯ありがとう」
温かな湯気とカモミールの香りを吸い込んだルシアンはソーレンに向き直ると語りだす。
「ソーレン、今日は貴方に依頼があってきました」
ルシアンが言うには数日前から自宅やギャラリー周辺に何者かの痕跡があるとのことだった。
昨日はついにギャラリーに侵入を試みたようで外壁に足跡が残っていたらしい。
「レクシーの話では明らかな狙いがあって中を探っているようだと」
カフェ・アロームと同じ建物だけに、ここ数日、業者の出入りがないことはミラも把握していた。
「自宅だけならただの泥棒⋯⋯ということもあるのでしょうが、ギャラリーまでとなると」
チラとルシアンの視線がミラへ注がれる。
「⋯⋯まさかクロウ絡みだと?」
「まだそうと決まった訳ではありません。――お二人とも、工事中の新駅舎をご存知ですか?」
突然話題が変わったのに2人は戸惑うように顔を見合わせてから頷く。
「実は市からの依頼であちらの新駅舎に設置する絵画を修復、監修していましてね。街の玄関口に飾る絵です。それなりの“代物”を用意しているのですよ。」
「では、その絵画を狙っている可能性も?」
困ったように笑いながらルシアンは頷いた。
「今は修復のため私のギャラリーで保管していますが、工事が進み次第、駅舎に移す予定です」
深く息を吐いたルシアンの表情がキッと険しくなるとどこか挑むような目でソーレンを見捉える。
「レイブンバンクは美術品を狙うことが多かったと聞いています。貴方に依頼するのが一番だと思いまして⋯⋯受けていただけますか?」