36、《15歳》恋ではなくて。
――ソフィアの視線が辛い……。
先ほどの、「ソフィアはステファン王子の嫁」発言から、ソフィアの冷たい視線がユーリに刺さっている。
――確かにさっきのは失敗だった……。
ソフィアがステファン王子と結婚しなければパッドエンドになるのは本当だけれども、この現実世界では、クロエが婚約破棄されるのはまだもう少しだけ先の話だ。王子がソフィアに惚れているといっても、正式に発表されているものは何もない。
――今現在、ソフィアは王子の婚約者でもないのに、王子の側近である俺が「ソフィアはステファン王子の嫁」宣言しちゃったら、これ、王子の秘密をばらしたことにならないか?うん、なるな。
ユーリの死にそうな顔とソフィアの無言の圧を見ていたハデスが吹き出した。
ソフィアが文句を言う。
「そもそも、ハデス様があんなこと言うから、このおっちょこちょいが反応したんじゃないの。」
「ん?だめだった?」
ハデスは悪びれない。
「僕がソフィア嬢を気に入ってるのは本当だし。」
驚いたのはユーリだ。
「ええっ?!初耳だよ。」
「気に入ってなきゃ毎日一緒にいないよ。」
「ええっ?!てっきり学食が気に入ってるのだとばかり。」
また吹き出しているハデスに、ソフィアがイラッとして付け足した。
「ハデス皇子は、学食が気に入ってるからここに入り浸ってるのよ。あとは、ユーリ、あなたのことも気に入ってるようよ。」
ハデスは笑いを止められないまま、
「いやいや、学食も気に入ってるし、ユーリも気に入ってるけど、……ソフィア、君のことも僕はずいぶん気に入ってるんだよ。」
と言ったが。
「笑いながら言われてもねえ。」
とソフィアは呆れている。
ハデスは呼吸を調えて、それからソフィアを見た。
「実は最初から気になっていたんだよ、この国に来る前から。君、川の治水と農地改革をしているだろう?その話を聞きたかったんだ。」
その話はユーリも気になっていたけれど、ずっと聞きそびれていた。
ソフィアが何と答えるのかとユーリは身構えた。
治水も農地改革も、多分国で秘匿する必要がある技術である可能性がある。ハデスはいい奴だけれども、敵国アステッドの第二皇子だ。簡単に話していい相手かというと、確実に違う。
ソフィアの返事は簡単だ。
「聞きたいなら聞けば良かったじゃない。」
「そうかな。聞いても答えてくれなさそうだなあと思ってたよ。」
「へえ。じゃあ、それを聞きたいから毎日ランチで私と距離を詰めようとしてたんだ?」
ハデスは「ん?」と斜め上を見て考えたが、
「いや、それはないな。」
と笑った。
「技術的な話を聞きたいのは本当。でも、君たちと一緒にいたのは学食が気に入ったのと、ユーリが気に入ったのと……ああ、やっぱり僕はソフィア、君が気に入ったんだ。」
ハデスが意味深にソフィアを見つめたものだから、ユーリが慌てて止めた。
「ダメ!ソフィアはステファン王子のもの!」
また、ハデスが笑った。
「分かっているよ。大丈夫、二人とも安心していいよ。僕の人生には恋も結婚もないから。」
ハデスは笑っていたけれど、その言葉の重さは二人に伝わった。
自分が義兄に騙され、母と義父と弟をみすみす殺させてしまったこの皇子は、自分が幸せになるつもりがないのだと。
ユーリはハデスの心の内にある苦しみを見た気がした。そして自分も苦しくなった。あまりの苦しさに何か言葉をかけようと思ったのに、何も浮かばない。
ソフィアが静かに微笑んだ。
「聞きたいなら教えてあげるよ、治水の話。」
ユーリだけでなく、ハデスもギョッとした。
「それ、話していいの?」
でも、ソフィアは軽く「うん。」と言う。
「うん。別に秘密にするつもりはないからね。」
「ああ、本の知識だと言っていたね。」
「ああ、それ、嘘。」
ソフィアは軽くばらした。
「本の知識じゃないよ。なんというか……。」
ちらりとユーリを見た。ユーリは、ソフィアが前世の話をするのだと悟って慌てた。
「まあ、夢を見たって感じかな。ここではないどこか違う世界の夢。」
夢と言ったが、それは明らかに前世の話だ。ソフィアが幼い頃、「東京音頭」を踊ったのをユーリは忘れてはいない。
不思議な話だと言うのに、ハデスは頷いて話の先を促した。
「その世界で私は、世界中あちこちの国の治水や農地改革を指導するボランティアをしていたんだ。夢から覚めても、その技術を覚えていた……それだけだからね。」
「夢か。不思議な話だけど。……僕に話して良かったの?」
心なしかハデスのオーラが黒いが、ソフィアは笑い飛ばした。
「別にいいよ。」
ハデスが破顔した。
「そうか。」
ユーリはどぎまぎしていた。
――ボランティアで世界を歩いていたという話はすごいと思うけど。これ、ハデスに話して本当にいいのか?
ソフィアがハデスに聞いた。
「ねえ、ハデス様?あなたはここに転校してきた日、クロエ様が領主として私の案を採用した、みたいなことを言ってたわよね?本当なの?」
「うん。それは調べがついてるからね、本当だよ。ボッサム領の領主は雇われ領主で、本当の領主はソーデライド公爵なんだよ。しかも、どうやらその時動いていたのは、娘のクロエ嬢らしい。」
それを聞いてソフィアが「そうか。」とつぶやいた。
それがとても嬉しそうだったから、ハデスが尋ねた。
「君は知らなかったんだね。」
「うん。でも、そうかなって思ってたから。当たってて嬉しい。」
たかが平民の子どもの案を聞いてくれたことも、その後必要な物資をボッサム領に届けてくれたことも、必要な人材を連れてきてくれたことも、……そして、今、この学園に入れるよう手はずを調えてくれたのも、何となく、小さい頃に一度だけ出会ったあのお姫様然としたクロエじゃないかとソフィアは思っていた。それが今、確信できた。
「なるほど。だからか。クロエ嬢はステファン王子の婚約者で、君にとっては恋敵のはずなのに、その割にずいぶんクロエ嬢に肩入れしているなとは思っていたんだ。」
「うん。恩を受けたから、返すんだ。」
おかげでたくさんの人を助けられたからね、とつぶやきながら、ソフィアは真っ直ぐにハデスを見た。
ハデスは、小さく「やはり君はいいね。」とつぶやいた。
それからソフィアを見て今度ははっきりと言った。
「やっぱり、僕は君がとても好きなようだよ。」
ハデスのとろけるような目が、ソフィアに愛を語っているふうに見えて、ユーリは慌てて、
「好きって?!好きって何?」
と尋ねたが。
ソフィアが穏やかな笑みとともに言った。
「恋ではなくて、でしょ?」
ハデスも静かに答えた。
「うん。恋ではなくて。」
◆◆◆
半年以上経った今もステファン王子のダンス指導は続いている。今朝も、王子の指導でソフィアがひとしきり踊った後、ステファン王子が言った。
「ハデスとうまくやれているようだねえ。」
ソフィアはにっこりと頷いた。
「まあね。王子がなんでユーリに頼んだか分かるよ。ユーリは人と打ち解けるのが得意なんだね。ハデス皇子もユーリを気に入ってるって。」
ステファン王子がクスッと笑う。
「私が言っているのは、ソフィア、君のことだよ。」
「私?」
ソフィアがポカンとする。
「こないだの話、聞いているよ。」
「こないだ?」
すっかり忘れているソフィアに王子は苦笑しながら言った。
「ハデス皇子が君に懸想しているって噂になってる。」
「ああ。あれか。」
「あれかって……。ハデス皇子も報われないな。」
「恋とかじゃないわよ。恋とか言うには、彼の受けた傷は大き過ぎるのね。」
「だろうねえ。」
ソフィアに飲み物を渡しながら、アレックスも同意した。
アレックスも幼い頃に、大切な家族である兄を失いかけたことがある。しかも自分のせいで。その時は、クロエのおかげで兄を失わずに済んだが、ハデスは同じような局面で三人もの家族を失ったのだ。彼の気持ちが分かるだけに、悲痛の面持ちでアレックスはつぶやいた。
「失ったものが大き過ぎると、恋とか自分の人生とか……そういうの、難しいだろうな。」
ソフィアはため息をついた。
「そうよ。そういうわけだから、王子。ハデス皇子が義兄と戦って皇帝になるように仕向けろとか私に命令しないでよ。無理だから。」
王子は「そう?」とソフィアの顔を覗き込んだ。
ソフィアが睨むと、あっさりと目を離して、
「まあ、順番の問題なんだよね。」
とソフィアには分からないことを言った。
「どういうこと?」
「どんなに複雑に見える問題も、実は小さい問題が重なっているだけのことが多いんだ。だから、順番に紐解いていけば、すべての問題が解決できる。今、ハデス皇子の気持ちを変えようという順番ではないから、君もユーリも今まで通りでいいんだ。」
「じゃあ、今解くべき問題は?」
「今、国家間でいろいろ調整かけてるところで、それはおおむねうまくいっている。ただ、展開を早めようとするとどうしてもソーデライド公爵の絶対的な力が必要なんだ。」
「つまり?」
「ソーデライド公爵を本当の意味で動かせるのはクロエだからねえ。クロエの気持ちを私に向けるのが一番最初に解くべき問題。」
「ほう。それはぜひ頑張ってほしいところだけど。手はあるの?」
王子は自信ありげに答えた。
「あるね。しかも二連続で、だ。まずは二ヶ月後のクロエの誕生日!そこでクロエに私とおそろいのドレスを贈る。それでまず気持ちをつかむ!」
それで本当に気持ちをつかめるか?とソフィアは首をひねるが、王子の語りは止まらない。
「次は四か月後の建国祭!そこで私たちの結婚式の日取りを発表するんだ。クロエは私との結婚を信じていない節があるからね、具体的な日取りを言って、さらに皆の前で彼女に愛を誓おうと思う。これならクロエも私の愛を信じてくれるだろう?」
王子は一人盛り上がっているが、王子の後ろでアレックスとサイラスが微妙な顔をしている。
ソフィアも、
――この人、普段は完璧王子のくせに、クロエ様が絡むと途端にポンコツになってない?
と微妙な顔をした。




