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夢に罹る

作者: 今井葉子

 掛けられた毛布と十和の胸元との隙間を火の玉が浮かぶ。青白く発光する幽体は十和の視界の上をさまよう。梅雨寒に備えた毛布は汗が染みこんでじっとりとして重い。窓を打つ雨は風にのって不規則に叩きつけられ、建て付けの悪いそれはがたりと揺れる。

 鬼火の発光は一旦消え失せると、また現れてはそのまま回遊するように十和の上を行ったり来たりする。頬を打ち付けるように射貫いてくると、十和の頬は左に逸れる。そして右に逸れる。十和は眉間に力を入れ、硬く目を瞑った。じわりと握った掌に汗が滲む。細く吐いた息の先を鬼火が掠め取っていく。十和はうっすら目を開け「もうゆるして」とつぶやいた。幾度も嬲られて、首筋が、みしりと音を立てる。

 十和の視界は靄のなかにいる。眉間を通り過ぎていく鬼火は十和の目線に煙を吐いていく。灰色の煙は部屋を満たして、十和にはもう、すぐ先の手元すら朧気にしか見えない。瞳孔は収縮をくりかえし、白呆けていく十和の手元は輪郭も背景と溶け合って、闇へと吸収される。

 月明かりが青白く透ける障子紙。四角く区切られた影に十和の影が重なる。十和はパジャマを捲った。今日新しくできた痣を数えるように、腕をあげ、腰まわりに目線を落とす。ひとつふたつ…火の玉をスミスと名付けた十和は、スミスから受けた無法な力に為す術なく屈してしまう。スミスと出会ってから二年が経った。その間に十和は十四になった。小学校を卒業する間際に神懸かりにあったと胸を高鳴らせていた十和はもういない。十和はスミスを卑俗な夢魔としてあしらいたいくらいなのに、スミスはしつこく十和の周りを蛾のようにせわしなく飛び回る。

 鬼火は狂ったように十和を打ち付ける。十和は倒れ込んで天井を仰いだ。舌は捲れ上がり、口を閉めようにも閉まらない。鬼の火は十和の口の中に勢いよく飛び込んだり、吐き出てきたりして、十和は口をすぼめながら舌を唇の裏へと上手にしまおうとする。意に反して捲れ上がる舌は何度となく鬼火に吸い込まれてしまう。

 スミスは亡者の霊か生き霊か。鬼火は十和に乗り移って十和はスミスの表情を形取る。スミスの不敵な笑いが十和によって体現されると、十和はまるで自分でない冷酷さで世界を見つめる。へへ、へへへ、くく、くくくく、十和の笑いかスミスの笑いか、闇に浮き上がる細い声は毛布の中に籠もって響いて行く。

 階下で、江口が帰ってきたのかバタンと戸が閉まった。「十和。ただいま」と声を掛けられた十和は体を起こした。階段を降り、江口が靴を脱いでいる玄関の手前で、

「お父さん、おかえり」

と十和は言った。

「どう? からだは?」

 江口は鞄を下ろし、ネクタイを外す。肩やズボンが雨に濡れている。

「お帰り。今日も遅かったね」

 祖母の朝子が居間から顔を出すと、十和はまた階段を上がって行ってしまった。

「ああ。十和…」

 江口が残念そうに声をだす。

「もう遅いから、十和はいいよ」

 朝子が江口の背中に言うと二人で奥の台所へと入っていった。二階へ上がった十和は襖を引くと中に入り畳に腰を下ろした。江口と朝子の話声が壁を伝って聞こえてくるが、なんと話しているかは分からない。朝子の非難がましい語調ばかりは二階にいる十和にも気づくほどだ。

 漏れ出る朝子の声に十和は顔をしかめた。十和のことを話しているのは明らかだった。毛布を被り、十和は仰向けに寝転んだ。乾いた汗の臭いが湿った室内に溶け込むように充満する。雨の音に気持ちを寄せると、いつしか和んでいってそのまま瞼を閉じた。途端にまた口のなかが疼きだし、歯の根元を撫で上げるように舌が動き出す。舌はぴりぴりと電気の走ったような直線的な痛みが襲うと、うねうねと口の中で捲り上がっていった。ふと空気を切り裂くような朝子の怒鳴り声が階下から響くと、昼間の自分の様子がよぎり、朝子に向かって後ろめたいように「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りだした。届くはずもない十和の声であるのに、不思議と朝子の声は収まってもとの静寂の夜に戻っていくのだった。

 それから江口の低い声が夜の淵に流れるようにしばらく長い間十和の耳に届いてくるのだった。朝子のすすり泣くような声がそこに混じり、夜の底へと落ちていった。横になってからも十和の舌は捲り上がったまま、ほとんど口を閉じることもできずに堪るよだれを時々ごくりと飲み込まなくてはならなかった。それによって妨げられた眠りは、夜の深閑とした黒い落とし穴のような淵に十和は誘われるようだった。向こう三軒隣の若い夫婦のいざこざまでもが十和の耳に聞こえてくると、なにか安心したようにようやく眠りの底に落ち込んで行くのだった。



 十和がフライパンに卵を落とした頃、江口が台所に姿を出した。昨日の雨はいつしか上がり、空は静かに青空が晴れ渡っていた。しんとした台所に落とした卵の油が跳ねる音だけが際だっている。江口は出勤に備えたワイシャツとスラックスに身を包んでいる。十和の作った目玉焼きを手に受け取ると十和のすぐ隣に立った。

「昨日は眠れた?」

「うん」

 十和は小さく頷いた。

「父さん、今日は短大の方だけど午前中で終わるから、十和の参観には間に合うよ」

「無理しなくていいよ」

 十和のつっけんどんな調子に、

「無理なことなんてあるか。父さんが見に行きたいんだから」

と江口は咎めるように言った。

「昨日、おばあちゃん、怒ってたでしょう」

 十和は俯きながら目玉焼きをターナーで掬うと、お皿に滑らせた。そのまま手の動きが止まってしまう。

「なあ、十和。気にしなくていいんだよ」

「窓を閉め切ろうか。声が漏れないように」

 江口は十和の代わりにウインナーを焼きはじめる。十和は椅子に座り、うなだれた格好をすると頭を大きく振った。

「だいじょうぶだよ、窓をしめなくても誰も聞いてはいないから。今だって、そんな譫言なんて言ってないじゃないか」

「ひとりきりになってしまうとだめなの。ぶつぶつと勝手に喋ってしまうから」

「いいんだよ。学校にだって行けているじゃないか。十分だよ」

 それから襖の引く音と共に朝子の廊下をぱたぱたと歩く音がすると、十和は立ち上がった。食器棚からご飯茶碗を取り出すと炊飯器を開け、急いでご飯をよそる。朝子が台所に入ってきた。二人をいぶかしむように同時に見ると、朝子は湯飲みを出し、急須と共に緑茶の入った茶筒を手にする。

「ばあちゃん、今日は店に出るから」

 そういったまま、朝子はテレビのリモコンを手に取る。途端にニュースを伝えるアナウンサーが画面に大きく映り、椅子を引いて座る朝子は湯飲みに口を付けた。

「今日はばあちゃんが店に出るから、十和が夕飯を作ってくれるか。父さん参観終わってから少し大学に寄るから、帰ってから手伝えたら手伝うよ」

「いい。わたし全部やれる」

「そうしてくれたら助かるよ」

 十和は急いで食事を済ませると重ねた食器を流しに置いた。「行ってきます」と小さく声を掛けると、江口が顔を上げてにこりと笑った。

 こんな時、お母さんがいてくれたらどうだったのだろうかと感傷にひたることなどほとんどなかった。十和にとっては母の記憶というのはなにもないに等しく、朝子のことを見るにつけ、母に対しても似たような感情と諦めのようなものが胸中を占めていくのだった。

 写真館を経営する朝子はさりげなくしゃれた格好に身をつつみ、気位が高かった。非常勤で大学に勤める息子の江口に愚痴っぽいことを漏らすことも少なくなかった。おっとりした十和は、朝子とはなじめないまま遠巻きに眺めていることが多かった。朝子は十和を白痴のこどもと罵ったし、江口のいない昼間の時間に強く叱責されることも少なくなかった。そうかと思うと、朝子は江口の前では十和のことでめそめそと涙を流した。祖父は十和が生まれるとうの前に亡くなっており、未亡人になった朝子は、年老いてからは自分の体の利かないのを理由に、息子の江口をまるで自分の夫のように扱って、なよなよと覆い被さっては泣き濡れていた。十和にとって、自虐を演じる朝子は脅威だった。朝子の、十和を見るときの憎悪に満ちた顔は逃れようのない脅威だった。十和はひっそりと朝の支度をすませると、鞄を背負って、玄関に降りた。戸を開け、江口家の沈黙を飲み込んで、気取られないように外に出て行ったのだった。



 窓の外の木の葉はさざめき、葉擦れは風を手放していった。波打つ枝に視点を置くと、まるで悶絶する女の豊かな四肢を連想させる。伸びやかな四肢は縦横に踊り狂い、髪は乱れ打ち、その空の彼方に向かって立つ木を憧れるように十和は見つめていた。

 理科室の窓辺からは中庭に出られる。中庭は美術室ともつながっており、その真向かいの美術室の光景を十和は遠く見る。中庭の中央には彫刻が聳え、ものともしない風のさざめきを、不動の表情で中庭全体を見守っているかのようだ。

 担任の五井は理科を専門にしている。理科室での参観はいつもの五井よりもはりきっているように見えた。白衣はいつもよりアイロンの糊が利いた真っ白な出で立ちで顔面は笑みで歪んでいる。張り上げられた声は理科室の外の廊下で参観する母親たちにも届くようで、遠巻きにみつめる母たちに安堵を与えている。

 実験のようすを観て回る五井は緊張に震えるのか、声もうわずり笑みで誤魔化し続ける。生徒たちはしらじらしく五井を眺め回し、実験道具も整然と揃えはじめると各班ごとに実験が進められた。十和はプレパラートにスポイトで液体を垂らすと顕微鏡を前にした。隣の夏木がのぞきこむのを横から眺め、それからノートに目線を落とした。教科書通りに進められると次々に顕微鏡をのぞきこむのを順番で待った。順番が来て、有り体に十和も眺めると顕微鏡から顔を外して隣へとずらした。

 江口が参観している気配も感じ取っていたが、十和は見遣ることもなくクロムブックに視線を向けた。課題を済ませ、送信する。十和は隣にいた、佐々木に雑談を仕掛けられ、声を殺すように笑いを含ませた。佐々木は十和と同じ町内に住んでおり、小学校の時は同じ登校班だった。佐々木のくだけた話ぶりに十和はこれ以上にない幸福と似たようなものを感じている。

 佐々木はセーラー服のリボンを人差し指でくるくると巻き上げると、絞りきったリボンを勢いよく手放した。リボンはもとの形に収まるようであり、くたっと疲れたような様子で佐々木の胸の上に落ちている。佐々木は何度も人差し指で巻き上げ、細くなったリボンを引っ張り上げる。その合間の話ぶりは十和をいつまでも笑わせる。ふざけきった二人の様子はいずれ五井の目にも入る。佐々木は口を噤むと小さく咳払いをして顕微鏡に恭しく顔を埋める。それを真似た十和はとうに終えた課題も見直すとクロムブックのキーボードにいたずらに手を置いて、かちかちと言わせた。

 何度か黒板を見上げ、ノートに鉛筆を走らせる。様々な色のペンを駆使し、ノートを仕上げるとほうとため息をついた。見上げたり俯いたりと忙しく首を動かしながらノートを取ると、やがてチャイムが鳴った。移動する母親たちの波を見上げ、十和は江口の後ろ姿を確認すると、小さく微笑んでシャープペンを筆箱の中に放った。教科書やノートを脇に抱えると佐々木と共に理科室を出て行く。近道の中庭を横断していく波はクラスの面々たちで、それに違わず佐々木と並んで歩く十和は中庭を抜け真向かいの廊下に入る。階段を上がり二年生の教室にぞろぞろと入っていく波に紛れ、十和は清掃の準備をした。

 掃除用のロッカーをがたがたと言わせながら中から箒を取り出す。教室の隅に箒をあてて規則正しく右から左と掃き出すと、一歩一歩前へとずれていく。しばらく続けているとやがて飽きたように箒を振りだした十和は溜めたゴミを振り切りながら隅へと追いやった。ごみすてに行っていた佐々木はゴミ箱を教室の後ろに置くと、十和に寄ってくる。十和は箒をロッカーにしまうと佐々木と窓際で寄りかかってセーラーのリボンを縛り直した。胸元の高い位置に縛って、小さな蝶々結びにすると、佐々木がわたしにもやって、それやって、とリボンをほどいて寄越す。十和は笑って、佐々木のセーラーの襟元にリボンを通すと、佐々木と真向かいに立ってリボンを結びはじめた。ああ、左の方が長いじゃん、と佐々木はリボンを引っ張って自分で縛り直すと、また左右の長さが均等にならなくて、飽きたようにリボンを振りほどいて放った。ぐるぐるとそれを振り回すと、座っていた楢本の頬にその端っこが当たって、いてえ、と楢本は佐々木を睨んだ。佐々木は、ごめん、とぶんぶん振っていたのをやめて、リボンをたたむとスカートのポケットにしまう。佐々木の頬は赤らんでいて、俯いて隠そうとすると余計に紅潮してにやけて崩れた顔面が十和の目に入った。楢本が立ち上がって教室から出て行くのを佐々木は、ならちゃんってちょいヤンキーでかっこいい、と十和に耳打ちするのだった。



 あー行ってこー行って、こっち行ったらそっち行って、そっち曲がってこっち来て、こっち来たらそっち行って、と十和はスミスを追ってぶつぶつとしゃべり出すと、着ていたセーラーを脱いで、畳の上に正座になった。スミスは十和の頭の上を回遊して、十和の頬にめがけて打ち抜けてくる。十和は畳に倒れ崩れると、頬を連発してくる痛みにうう、と唸った。そっからこっち行って、こっちからあっち行って、あー行ってからそっち曲がって、と仰向いたまま譫言が突いて出てくる。スミスは激しく炎を燃えさからせ十和めがけて射貫いてくる。十和の唇は捲り上がっており、腫れぼったくなって火の粉を吹いたように痛みが走った。ねんねえしなよ、ねんねしなあ、と声を震わせ祈るように歌い上げると、襖がとんとんと叩く音がする。十和は慌てて、セーラー服を寄せると勢いよく首から被り、スカートを座る膝元のうえに置いた。

「ねえ、十和。具合悪いの。なあ」

と朝子の猫なで声が襖の向こうからすると、

「ばあちゃん、心配しなんで。なんもないよ」

「そうは言っても、ばあちゃん、心配でさあ」

 十和は急いでスカートを穿いてホックを締めると、立ち上がって襖を開けた。

「心配しなんで。十和は、もうごはん作る時間にするから」

「そんなんじゃ出来っこないさあ。ばあちゃん、作るけども」

「大丈夫。大丈夫」

 そう言って朝子の横をすり抜けるととんとんと階段を下りていった。十和は、ああもう、だから言ったのに、とまたぶつぶつ言いながら台所へと入っていった。

 ばあちゃん、心配してんだから作ってもらえ、なあ、そうしろよそうしたらまた二階に上がろう。ばあちゃんに心配掛けやがってばかやろう、ゆうれいは黙ってろ。十和が喚きながら冷蔵庫を開けて次々と野菜を出していくのを朝子は慄いて、震える目で十和をみつめると、なんまんだぶなんまんだぶと唱えだした。

「おばあちゃん、心配かけてごめんね、なんでもないのよ、本当よ」

 十和は玉葱の皮を剝きながら朝子に同情するように声を掛けると、

「なあ、十和。十和はなにかに取り憑かれているんだろう、とばあちゃんは思うんで。お寺さんに一緒にいかない? ねえ、十和」

「お父さんは精神科にいこうって言うし、お寺さんにまで行ったら十和が忙しくなっちゃう。本当に何でもないんだから。だいたいウチは無宗教でしょう?」

「じゃあ、なにをぶつくさと言っている? 誰と喋ってるの」

「ひとりごとよ。気にしないで」

「十和は脳天やられちまってさあ…」

と朝子までぶつぶつと言い出す。ようやく黙った十和はいちょう切りにした人参を鍋に入れた。玉葱を手に取ってとんとん刻んでいると、

「やだよお、また暴走族めが…」

と遠くのライダーの爆音に朝子が顔を顰めた。爆音はどんどん近くなるようで耳をつんざくようにうなり上げると、同時にパトカーのサイレンの音が鳴り響く。十和は胸騒ぎがしだすと、口をきゅっと結んで眉間を絞るように目を細めた。呼吸がつまるとえっえっと咳を出す。夕焼けが水場の向かいの窓から差し込むように十和の頬をオレンジに染めた。曇りガラスは模様を受けるように日を反射して宝石のようにきらきらと窓をまるで画布のように彩る。やがてライダーの爆音がガラス窓を揺らすとやがて走り抜けるように射貫いていった。爆音に合わせて十和の心臓は刃に引き裂かれるようにライダーに轢かれていくと、十和は血潮をみたような気がして、その場に倒れ伏した。持っていた包丁が落ちて、朝子が悲鳴を上げるとそのまま朝子は台所を飛び出していった。十和は胸を押さえ、溢れ出る血をかき抱いた。と、ふと胸元を見ても、血は一滴も流れていない。十和は動悸ではあはあと息を荒くした。

 十和はセーラーを胸元を開けてみると、そこにタイアの走る跡が胸から腹にかけて一本筋赤黒く映っていた。十和は震える口元を押さえつつ、胸元を締めると、涙をぼろぼろと流し立ち上がった。ぐつぐつと音をたてて煮える鍋に火を止めると、ずきんずきんと痛み出す胸を庇うように抱きしめその場にへたり込んだ。いつの間にかサイレンも遠ざかり、聞こえない寂静の夕闇に、日もほとんど落ちかかってしんとしている。十和はたどたどしく脚を前へ前へと出し、台所を出ると居間に座り込んで、呼吸を深く吸ったり吐いたりした。

 やがて雷のごろごろと遠くの空で鳴り響くのを、夕立がぽつりぽつりと窓を濡らす。あっという間もなく地面を強く打つ雨が雷の稲妻と共に空を一転させると、十和の胸も雨を打つようにしとどに濡れていくのが分かった。十和は何でもない胸を抱いてはさすり、ただひたすらに雨の強く打つ音を聞いていた。見上げると天井の照明はちかんちかんと光が絶え絶えに消え入るのも落雷のためか、稲光とともに、部屋は暗く視界を奪っていく。ただ天井でちかんちかんと音を立てて光の消えゆくのも、十和は体の震えが止まらなかった。握りしめていた胸元は汗が滲み、セーラーにしわが寄る。何層にも襞になった胸元を撫でて、十和は雷の止むのを待った。隣の部屋から朝子のすすり泣く声が漏れ聞くと、十和は奮いたって空に祈った。それから玄関を下りて靴を履くと、戸の外に飛び出していったのだった。

 家がだんだんと遠ざかり、雨脚は変わらず地面を打ち付けてくる。十和の靴はやがて水が浸って、ぐしゅぐしゅと水の擦れる音を鳴らす。傘に落ちてくる雨は風で十和の顔まで濡らし傘を顔の前に持ってくると、視線を足下に落としてあてどなく歩いた。空を稲光が分断し、その瞬間にずどんと音が体に響く。十和は身をすくめながら傘を抱くようにして歩いた。山に雨雲が垂れかかり、雲の中では時々ぴかぴかと光っている。山の稜線は空と溶け合って、雨と共に落ちてくる。空から「江口?」と声が下りてきて、十和は空に向かって見上げると、そこに楢本が立っていた。

 楢本はうさぎ公園の入り口の東屋に立っている。うさぎ公園は住宅地の中にぽつんとある小さな公園で、小学校の低学年の頃は、十和もよく佐々木とここで遊んでいた。うさぎの形をした遊具はペンキがとうにはげていて、その隣にはここでボール遊びをしてはいけません、と立て看板がぶら下がっている。東屋で所在なさげに立ち尽くしている楢本は、暇そうに脚を投げ出して、「江口じゃん」ともう一度十和を呼んだ。

 十和は東屋に入ると傘を下ろした。濡れた前髪を横に分けると、楢本を見て、

「雨宿りってやつ?」

と声を掛けた。

「そう」

 江口は笑った。

「家、近いんだから走って帰れば?」

「走って帰ったってばあちゃんしかいねえし」

「はは。うちもそう」

 十和は傘をくるくると畳むとマジックテープを嵌めた。

「それ、染めてるの?」

 十和はずっと気になっていたことを初めて聞いた。

「これ? 髪?」

 楢本は自分の前髪を引っ張る。

「そう。怒られたことある?」

「怒られないよ。だって地毛だもん」

「地毛? 金髪の地毛?」

「そうだよ。赤ちゃんの時からオレ、金髪」

「お父さん、お母さんは日本人だもんね」

 十和は不意に楢本の髪に触れたくなって手を引っ込めた。

「そう。江口は真っ黒じゃん。市松人形みてえ」

「それっていじりだよ」

「お前だって、オレにいじりだよ」

「褒めてるのになんだよ、ちくしょう」

「ちくしょうとか言うんだ?」

「言うよ」

「もっと江口はその感じでいけよ」

 楢本が首をもたげて笑う。十和もまねをして首を重そうにもたげると、髪を手で梳いた。雨音は段々小さくなる。糸のような雨が一直線に空から降ってくる。

「もう帰れるよ」

 十和はもっと話していたかったのにそう言った。

「じゃあ、オレ、帰るわ」

 本当に帰るとは思っていなかった十和はがっかりして遠くに楢本をみた。

「じゃあな」

 走って行く楢本の背中を見ながら、帰れるよ、と言った自分に後悔していた。でも本当は十和が親切に言ったりしなくても楢本はすぐにでも帰ってしまうのだろうとも思った。心が緩むと、胸の直線に切り裂かれた傷がずきんずきんと痛み出した。傷口が抉れてひりひりとさせているように十和には思えた。十和は傘を開くと、小さな雨音を聞いた。傘に染みいるように流れる細い雨は、やがて傘から放物線を描いて十和の目の前をぽつりぽつりと落ちていくのだった。

 十和は胸元に手を置くと、右手の傘を握りしめる手に、力を込めた。風でさらわれそうになる。曇天の空を仰いで、鼻筋をくんとさせると、みずたまりのような匂いがした。



 それから三日と立たない週末の朝学習の時間だった。梅雨の明けた夏の空は、朝から晴天を知らせ頭の芯を火照らせるかんかん照りの太陽が空高く輝いている。

 十和は図書館から借りたブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を開いてまだ二ページも読んでいない頃に佐々木にこづかれ横を仰いだ。佐々木は小さなメモ書きを十和に渡して、口に人差し指を立て、しーと言葉を漏らした。

 ならちゃんと付き合うことになったよ、から始まるその手紙は佐々木の丸っこい文字に象徴されるように甘ったるい言葉が並べられていた。楢本は佐々木の背の高いところが好きだとか、佐々木の長い髪のさらさらなところが好きなことだとか、佐々木の惚気が小さな紙にびっしりと並べられていた。十和は全部読むと、また元の通り小さく畳んでスカートのポケットにしまった。

 佐々木に自分のことのように喜ぶお返事を並べ立て、メモを小さく折りたたむと佐々木の机まで持って行った。佐々木は恭しく両手を前に出してそれを受け取った。口元は笑みで崩れていて、頬の紅潮するのもそのままに佐々木は同じ教室の楢本をいつも視界にいれているようだった。

 十和はブラム・ストーカーの続きを読むと、顔を埋めながら、心のうちにスミス、スミスと叫んだ。スミスはにやりと十和の顔を借りて笑うと、また目を閉じて十和の傷をいたぶるように何度も傷口を抉っていくようだった。文字を目で追いながら痛みに耐えていると、十和は気も失いそうに目を瞬かせた。文字が大きくなったり歪んでいったりするのも読んでいくスピードは変わらず、右から左へと読み上げていった。目線が弧を描いて、首が触れるのも構わず読んでいくと、佐々木に「どうした? 熱中症か?」と笑われ、十和はつられて笑って立ち上がったのだった。

 十和は廊下を急ぎ足で歩く。そのままトイレの個室に滑り込んだ。スミスは十和の胸を嬲ると、膣の中に入ってきた。十和の膣は炎に燃えて、熱くたぎる魂が胸までつきあがってゆくようだった。膣は捲れ上がり、熱い液体が漏れて太ももを濡らした。個室の外で騒がしく喋り散らす生徒たちの笑い声の裏で、声を押し殺した。歯ががちがちと震えるのを口元を手で押さえ、膣の熱く燃えあがる痛みに小さく唸った。そうでいて冷え冷えと背筋が凍ると、十和の口は半円を描いて笑った。その笑みはだらしなく、よだれの垂れるのも手の甲でぬぐうとまた十和はだらしなく笑った。

 十和は個室から出ると、教室に戻り席に着いた。国語の教科書とノートを出し、筆箱を開けると、教師の入ってくるのに合わせて顔を上げた。何気なく教科書を開き、シャープペンを取ると、十和は変わらない昨日からの延長線上の自分を演じて黒板を見上げるのだった。

 背中をとんとんと小突かれ振り向くと、回ってきた、佐々木から、と真後ろの席の夏木から小さなメモを受け取った。佐々木の、どーしよーが連発された文字が並ぶのを読むと、落ち着かない佐々木を嘲笑ってメモを畳んだ。佐々木の喜びが溢れれば溢れるほど、十和は冷酷になるようだったし、スミスを求めるようでもあった。スミスは十和に応える度に傷口を抉った。ひりひりする胸元にそっと手を置き、誰からも気取られないように強く押さえつける。十和が知る限り、恋愛と呼べるような痛みを胸に感じ、ひたひたに浸っていくようだった。十和にとっては初めてと言ってもいい恋心は、誰に向けられるともなく自己完結していた。それはスミスに向けられているようでもあり、楢本に向けられているような気もした。

 擦れる痛みに、心臓が削られているとさえ思える。傷口に十和の体全体が収まっていくような気がした。教師の声はいつになく遠くに聞こえる。佐々木は自分から離れていくようにも思える。遠ざかっていったものを懐かしくため息をつきながら、いつになく十和は心の内でスミスに声を掛け続ける。十和の目元に映り棲むスミスは冷ややかに世界をみつめているのが十和にとって心地よかった。地獄に棲む亡者であるスミスと、十和が今世を果たした後は共に暮らせたらと祈るときもあった。そんなときはスミスは一層冷酷に口の端を持ち上げて笑うのだった。

 ノートに向かっていると、また後ろからメモが回ってくる。後ろにいる夏木はうんざりしたように、佐々木から、と放って寄越す。メモが机の下に落ちて、椅子をひくと、ガガと思った以上に音が響いて十和は萎縮した。腕を伸ばしてメモを拾う。ねえねえ相談なんだけど、と丸文字の並ぶ佐々木のメモに、十和はぐわんと視界が歪む。ざっと流しみると文字が泳いで目を伏せる。メモを畳んで筆箱に放った。

 佐々木が望むように自分も佐々木と楢本に混じって塾に通い始めたら、朝子は喜んだり安心したりするのだろうか、楢本をもっとじっと観察したり、佐々木から楢本のことをもっと聞けたりするのだろうか。閉じられたメモを十和は食い入るようにみつめた。三人で塾に通って、そのまま志望校も三人一緒で、自分はいつどんなときも佐々木や楢本と一緒にいられるのなら、と十和はそっと後ろを振り返って佐々木を盗み見た。気づいた佐々木は十和に笑いかけると教師を仰いで身を竦める。そうして教師が自分に気づいていないと知って、また十和に笑いかけた。十和も笑うと、またメモをじっと見た。小さなわだかまりがほどけていくような高揚感だった。チャイムの音と共にがたがたと机の鳴る喧噪に、十和は小さく息を吐いた。そうやってまた佐々木は十和の席へと寄ってくるのだった。



 申し込みした? 申し込みした。お父さんと行ってきた。あたしはお母さんと。とりあえず、英国数。私も英国数。ならちゃんは英数だけなんだって。あたし、ちょっとつまんないな、て。でも一緒に通えるんじゃん。まあねえ。事務の女の人みた? あのショートカットの女の人? そうそう。ネイルがすごくなかった? ちょー気合い入りまくり。よく見てなかった。そうだった? そうそう。……。楢本が国語を受講しないのが十和にとっても残念だった。知っているなら、国語は申し込まなかったのに、と十和は唇を噛んだ。

 十和は受話器を置くと、二階に上がっていった。そうして着ていたシャツを捲ると、かさぶたになった胸の傷を指でなぞった。指はぞくぞくと血の気も引いて冷たくなると、傷から手を離し、両手を握りしめた。タイヤの跡のかさぶたは所々剥げかかっていて、かゆみを感じさせる。禿げたかさぶたの胸元はほんのりピンク色をしていて、新しい肌が透けて弱々しそうに張り詰めている。

 十和はそのままシャツを脱いで、軟膏をつけると両手を広げて寝転がった。くく、くくく。冷たい笑い声が夕焼けに透けていく。十和の横顔に熱い日差しが照っていて、頬を火照らせた。十和はいつまでも笑っていて、自分の胸をまさぐると痛みに涙がにじんだ。ううう、と唸り背中を丸めるも、自分の腕は容赦なく胸をまさぐっていく。やがて爪で掻き壊すとと十和は痛みに絶叫した。胸は血が滲み、赤くみみず腫れが一直線に引かれていった。ゆるしてください、ゆるしてねえ。と十和は訴えると、体にのしかかってくるような重圧感に息苦しくなる。重い、重いよお、どいてよお。息の止まったまま、ぷはあと、勢いよく吐き出すと、はあはあと大きく息を吸い込んだ。

 十和を押しつぶす鬼火はどんどん燃え上がり十和を覆い隠す程の大きさに膨れ上がると、十和の中に入ってこようとする。十和は畳に押しつけられたまま、行き場を失い、スミスと同化するようだった。スミスは十和の形を象って押し入ろうとする。十和は呼吸も失って、細く息を吸い込むと目を閉じた。体を押し上げられて、鬼の火は十和の体の中で燃えた。細い無数の光線が自分を射貫いていくようだと十和は思った。突き刺さっていく熱い鏃を受けとめて、十和は横たわりながら気を失っていった。

 気を失った十和は口がぱっかりと開いてしまって、舌が捲れ上がってしまうのも防ぎようもなかった。よだれは顎を濡らし、首まで浸っていった。首には手で締め上げた跡が残されている。その跡に沿って、十和は気を失ったまま手を添えると締め上げていった。きつく締められるとやがて十和は目を覚まし、大きくげほんげほんと咳き込む。起き上がると十和は壁に寄って、げほげほと咳をした。

 鬼火が十和の口から飛び出ると、そのまま天井近くを回遊している。十和は涙を滲ませながらスミスの泳いでいるのを眺めた。睨むように見上げる。すると十和の目の前を掠めていって、そのまま消えたかと思うと、また現れて十和めがけて射貫いてくる。十和は崩れ落ちると、頭を低くして消えて消えてと祈った。

 窓の向こうの外で朝子の声がする。朝子は笑って、そうそう、もう受験生だもんねぇ、と高らかに笑った。ああそうなの。みっちゃんも。二人で揃って。もうそんな時期だねえ。でも十和ちゃん、えらいわよねえ。ええ? おうちのこともやって、康子さん、出て行ってから浩介さんも苦労あったわよねえ、でも十和ちゃんも大きくなってぇ。ええ? 康子さんはほらあそこ、あそこの飲み屋で働いてるってぇ。ええ、もうそんなひと、忘れちゃったよお。ほらあそこ、あそこよ、スナックで働いているってぇ。十和ちゃん、大きくなったら康子さんそっくりよねえ。よく似てるわよねぇ。そんな女はもう忘れちゃったよお。ははは。

 十和は耳を塞ぐとまた仰向けに寝転んだ。天井を見上げて、お母さん、と小さく呼んだ。お母さん、十和はどうにかなってしまいました。お母さん、十和は汚れています。十和にはいぼがあるみたいです。いぼはスミスと言います。十和にくっついて離れないのです。いぼは無数に十和の体にできています。お母さんにはいぼがありますか。いぼはお母さんに悪さをしたりしますか。十和のいぼは十和をむずむずさせます。十和はそれでよく泣くんです。とっても痛いので。ぽろぽろと取れたらどんなに幸せだろうと思います。ぽろぽろ取れてきれいな十和になったら、十和もみんなみたいに普通の女の子として、学校に行ったり、塾に行ったり、彼氏ができたりするんでしょうか。

 お母さん、スナックってなんですか。スナックで働いているって、それはどこですか。そこにお母さんがいるって、それは住所はどこになりますか。おばあちゃんが十和のことでよく泣いてます。おばあちゃんは十和のことが嫌いなのでしょうか。十和は本当はおばあちゃん孝行をしたいと思っています。お母さんもです。十和がもっと学業に勤しんで、このいぼも取れて、そしたらお母さんは十和と一緒に暮らしてくれますか。十和はいつも願っています。お母さんが帰ってきてくれること。

 それから十和はパンツに手を差し入れてそおっと撫でてみた。撫でていると熱く湿ってきて、それと共に十和の体は火照って汗が滲んだ。撫でる手を早くして、ううと声が漏れた。あ、あ、あ、と息が出た。

 スミスは十和の上に乗っかる。十和の上で弾んで、十和は細目をあけてスミスを見上げた。スミスは十和と重なる。スミスは十和になって、十和は熱く燃えた。冷え冷えと燃えた。そして冷淡に笑った。くくく、ふへへ。くくくく。声は沈んだ夕日とともに濃くなる闇に混じって畳に落ちていった。

 十和は暗闇の中で目を閉じた。十和の胸にスミスの顔のいぼがついている。顔は十和を見上げて笑っている。口の端を持ち上げて笑っている。十和は胸を見つめた。ああ、スミスってこんな顔をしていたのか。初めて見るスミスの顔に、十和は背筋を冷たくさせると、全身の悪寒に、ぶるると震えた。私たちずっと一緒ね。十和はそうつぶやいてみた。くくく。へへへへ。傷はスミスになっちゃたんだね。くくく。くくくく。

 汗のむせかえる体をさすって、胸をかき抱いた。スミスを抱きしめたかった十和は、初めて抱いたスミスに、いいようのない郷愁が掠めていった。湿った空気に混じって、お母さん、とまたつぶやいてみる。くくくく。スミスはいつまでも笑った。

 やがて雨が降り出した。ぽつんぽつんと屋根を弾いて、染み出すと、やがてざあと音をたてて空から雨が落ちてくる。屋根を流れる大量の水が雨樋を伝って流れ出す。灰色の空気は世界をよどませて梳かしていく。十和は窓の外を見つめながら、いつも眺めている当たり前の景色に寄る辺もない怖さが滲んでいるように感じていた。

 雨で濃くなる瓦屋根の色は闇の中の曇天の空と溶け合っているようだった。空を見上げると、雨の糸が一直線に落ちてくる。十和に向かっておちてくる。十和は空を遠く見据えると、そこに波打つ夜がみえた。夜が始まる、と十和はつぶやいた。夜を寸断するように稲光が空を巡っていったのだった。何度でも夜は引き裂かれていく。十和は、こんな夜に自分が生まれてきたような気がした。稲光が作る夜空の切り傷に十和は同情した。痛いでしょうと同情した。

 雨の降る夜空に星がひとつ瞬くようだった。雲に隠れてもなお輝こうと光るのだった。それは雨となって十和に落ちてくる。十和は受けとめてその手にしっかりと握りしめた。十和は胸の隆起する人面疽を指でなぞった。スミス、スミスと唇の先で発声すると、スミスは十和の口を覆った。舌が吸われるとそのまま捲れ上がり、よだれが顎を濡らす。スミスと息を漏らすと、十和の胸ぐらは持ち上がり畳に叩きつけられた。

 十和は叫ぶ。障子の桟がみしりと音を立てがたりと揺れると、十和は仰向いたまま何度も頭を打ち付けられる。がくがくと首が振れ、うっと唸ると、胸元から血が滲み出す。いぼは破け、周りは赤く腫れぼったく膨れ上がると痒みが全身を巡っていく。十和は畳の上でのたうち回り、胸を抱くと、がくがくと下半身が揺れ部屋全体が揺さぶられていった。鼻の下に汗の玉が滲むと、唇に伝っていく。舌はそのまま捲れ上がると勢いよく吸われていくようだった。



 毎晩、幽霊に乱暴されています。そう、二年間ずっとです。違います。見えません。いえ、見えてます。火の玉なんです。火の玉、見たことありますか。消えたり現れたりするんです。ふわふわと飛んでいるんです。火の玉に下半身を打たれながら、頬を殴られるんです。お腹も殴られます。股のところにどろどろの液体みたいなのが付いているときがあります。それと、体にいくつも痣があります。

 寝ているときに起こされます。はい。そうです。目が覚めてしまうんです。体がぞくぞくしてきて、寒くなります。そんな時は譫言を言ったりしていることもあって…おばあちゃんが気にするんです。おばあちゃんが聞き耳たてているときもあるんです。不潔で気持ち悪い。

 あと、人の顔をした、いぼみたいなのが胸にあります。最初は切り傷みたいに一直線だったのが、かさぶたになって、だんだん人の顔みたいになってきました。いぼなのででこぼこしてます。この傷が出来たときは痛かった。そうです。どうやって出来たのか…タイヤの跡のような切り傷でした。

 幽霊に抵抗はしません。痛いけれど我慢します。目をつむって我慢します。時間が経つのを待ちます。頬とお腹と、股が痛いです。あと、最近、いぼが痒いです。

 乱暴された後はなぜかすっきりします。怒りがすっと抜けたような、晴れた日に腕を思い切り伸ばした時のような爽快な感じがします。だから私は幽霊を待っているんです。毎晩、服を脱いで待っています。乱暴の終わった後だけが頼りです。それのみが救いです。

 いえ、一年前に入院していたときは一度も乱暴されませんでした。いぼもまだなかったし。本を読んでいると、そう、指が文字をなぞっていって。そうです、文字を指さすんです。幽霊が何かを伝えようとしているんだと思いました。ちょうどこっくりさんをしているみたいな。いえ。全く言葉になんてなってなかった。ただ文字を指が追っているだけで、めちゃくちゃでした。

 医師はめがねの端を持ち上げると、その右手に持ったペンでカレンダーを指した。

 次は二週間後、この日に来られますか? はい、そうです。薬は残ってますか。じゃあ次の日まで残るように、少し多めに出しておきますね。え? そうですねえ……まずは症状が出ないようにお薬を三回飲んで下さい。そう。あまり根を詰めて頑張りすぎないように。今の状態がずっと続くわけではないと思います。回復の段階が少しずつあがっていくと楽になりますよ。そう。そうです。

 十和は立ち上がると、診察室の扉を引いて出て行く。医師の後ろ頭にむかって、ありがとうございました、と小さく挨拶すると扉は自動的にするすると閉まっていった。

「十和、どうだった」

 中待合室のベンチに座っていた江口が立ち上がって十和の横に立つ。

「いつも通りだよ」

 十和は総合待合所に出ると受付の真ん前のベンチに腰を下ろした。江口は隣に座ると、手を組んで膝の上に忙しそうに載せた。

「十和のいつも通りって言うのが、お父さんは分からないよ。どういつも通りなんだい」

「薬飲んでね、って言われるだけだよ。いつも言われてることだよ」

「それは前も聞いたけど、それだけなの?」

「それだけだよ」

 十和は受付を遠く見るように眺めると、その上で光る電光掲示板を見上げた。呼び出し音と共にちかちかと数字が映し出される。

 電光掲示を見上げていた江口は横にいる十和を見ると、

「次の診察は、お父さんも診察室に入ってもいいかな?」

とその真顔を向ける。十和は、

「だめ。そしたらもうここには来ない」

と小さな声で俯いた。

「そうか…」

 それじゃ、仕方ない、と江口は立ち上がった。十和はぼんやりと電光掲示を見上げた。やがて、会計のところに十和の待合番号の数字が映し出され、江口が受付に立った。十和は、頓狂な声を上げるのが特徴のこの医院の受付の女が嫌いだった。受付から離れたこの待合所の中で、女の声はきんきんと響いてくる。

「さあ、行こうか」

 薬の袋を持った江口が十和に声を掛ける。

「私、これから遅刻して学校にいく」

 十和は江口を見上げずに真っ直ぐ前を向いたまま自動ドアを抜けた。

「じゃあ、ぼくもこれから大学へ向かうよ。十和を学校まで送る」

「うん」

「外は随分、暑いね。もう夏休みだ」

 江口は急ぐように駐車場を横断していく。正面の入道雲は空上空へと張り出していくようだった。青空は高いところにある。草の繁茂する駐車場脇から重く湿った空気が充満している。

「塾の夏期講習が始まるよ」

「ああ、そうだったね。十和は行きたい高校とか決まっているの?」

 畑の脇の道を抜け、大通りに出る交差点で江口は一時停止させると左右を見遣った。アクセルをまた踏むと大きく右折していく。十和は進行方向をみつめ、ううん、と首を振った。

「来年になれば体験入学もあるよ」

 江口は喜々として十和と話すようだった。長い待合の間、ほとんど話したりしなかった江口は急に饒舌になったようだった。十和は上の空でうん、うん、とそれらしく頷いてみせる。江口の顔に笑みが広がり、車中は江口の声が滲んでいる。

「みっちゃんと通うのかい? 同じ塾にしたって言っていただろう」

「佐々木は他に一緒の子がいるから」

「へえ。みんな夏から始めるんだね」

 楢本の志望校に関する話はまだでていない。佐々木から楢本に関する情報を仕入れては恋心を自分のものとして温めているのだった。佐々木の屈託ない話しぶりに十和は安心をする。それは罪深いまでに無邪気に十和の胸に飛び込んでくる。十和は安心して自分のための恋として飼い太らせてしまう。佐々木の十和への侵食は、十和も両手を広げて歓迎するのだった。

 江口の車から降りた十和はそのまま正門へと入り、正面玄関の前で振り返った。江口は十和を見ることもなく、車をUターンさせ、正門を出て行く。十和はそのしんとして誰もいない玄関で靴を履き替えると、二階へと続く階段を上っていった。踊り場にさしかかって見上げると、十和は立ち止まった。二階に上がりきった非常扉の脇に佐々木の後ろ姿が見える。その向こうに楢本が立っていた。楢本は十和に気づいたように踊り場を見下ろすように目線を下げた。かと思うと、楢本の顔が佐々木の顔に覆い被さった。楢本の目線は十和を捉えているようだった。十和は立ち尽くしたまま、踊り場から二階を見上げる格好で時が止まる。その次の瞬間、佐々木が非常扉の向こう側に消えると、楢本だけがそこに残った。十和は何でもないように駆け上がると佐々木の行った教室の方向とは逆の右側に折れた。先の職員室を見据えながら、目の奥では佐々木と楢本の姿が鮮やかに映っていた。そして、くくく、と押し殺すように笑うと、十和は口をきゅっと結ぼうと口を覆った。十和の手の下で、くくく、と口の端が持ち上がる。十和は職員室の扉の前で困ったように立ち尽くした。

 チャイムが鳴ったその時に、五井が職員室の扉から現れると、「おお」と驚いたように声を上げた。

「江口、来たか」

「はい」

「そのまま教室行っていいぞ。次は四限だから」

「はい」

 五井の走り去った方向に歩き始めた十和は、ここに来た先の非常扉に戻るのに憚れて立ち止まった。しかしまだそこに楢本がいるはずもないと思い直して歩き出した。階段が見えた先の非常扉に楢本はいなかった。当たり前だと肩を落として、教室に入る。休み時間の教室内は静かに和やかで、ゆっくりとした時間が流れている。

 佐々木の脇を何気なく通り過ぎて十和は席につくと、かばんを机の上に放った。中のものを次々と机の中に入れていくと、筆箱だけを机の上に出す。それから後ろの佐々木を仰いだ。佐々木は俯いていて十和が教室に入ったのも気づいていないのかもしれないと、十和は思うと、また前を向いた。窓際の今は使われていないストーブに寄りかかっている楢本が夏木と笑い合っているのが十和の目の端っこに映る。それを視線の真ん中にいれないように端に追いやると、また佐々木を仰いだ。佐々木はずっと俯いたままだった。



 だから、思っていたのと違うって言うか。わたし、ファーストキスって、もっと違うものを想像していたっていうか。ふうん、よくわかんないけど。だから、ならちゃんは好きだし、かっこいいなって思うんだけど、キスは違うな、って思ってしまったというか…。ふうん、だからどうしたいの? どうしたいか…ううん。なによ? その先もいずれあるんだよねえ? その先も、その、するんだよねえ? それってなんか違うかも、って思うんだけど。まだ早いってこと? ううん。なんか、違うんだよね。思っていたのと。なんにも感じないのが、ならちゃんにすっごく罪悪感。うん、まあ、そうかも…。だよねえ…。楢本が好きじゃないってこと? うん、かっこいいなあって思っているんだけどねえ。けど? ならちゃんもわたしも、ほんとうにお互いのこと好きだと思う? なに、今更。ならちゃんってほんとうにわたしのこと好きかな? 佐々木はどうなの? うん、それより、ならちゃんがちゃんとわたしのこと好きなのかなってところが気になるの。佐々木は楢本のこと好きなの? 楢本は佐々木のことが好きだからキスしたに決まってるんじゃん? 違う? ああ、そうだよねえ。わたしのこと。そっかあ。そうだよ。楢本はちゃんと佐々木のこと好きなんだからさあ。そっかあ。なんか十和と話していると、ならちゃんのこと、好きって思えるなあ。なんだよ、それ。わっかんない奴だな。

 佐々木と並んで歩く塾の帰りは夜道で街灯もちかちかと消えかかっている。たかる夜虫は時々十和の顔面に飛び込んでくるのを、十和は煙たそうに手で払いながら歩いて行った。佐々木は夏期講習が始まってからも十和にべったりで楢本と一緒に行動をしたりすることもなく、楢本はひとり、先へと帰って行ってしまった。夏期講習が始まって今日で二週間目だったけれど、佐々木は十和と隣合って楢本を避けているようにも十和には見えてしまう。

 佐々木と楢本はフォトジェニックなカップルだと思うけどねえ。と十和は思ってもいないお世辞を言った。ええ? まじ? うん。まあ。十和は、うん、インスタとか始めたらーと笑って見せた。

 まじかよ、スマホ持ってねえし。ははは。おねだりしなよ。受験意識して塾はじめたばっかでこれかよ、って言われかねねえし。ははは。

 はい、終了。って? なに? 十和、言った? え? あたしじゃない。って、オレ。佐々木、こいよ。え? ならちゃん? いいよ。わたし。いいじゃん。ほら、迎え来たし、あたし、行くね。え? 十和、いいよ。十和もいてよ。いいじゃん、じゃあね。

 楢本に手を引かれる佐々木の顔面はあまりに情けなくて、十和は思わず笑ってしまうと、二人に手を振って早歩きでその場を去って行った。十和は掌を握りしめると振り返らないように駆けだしていった。

 ばかやろうばかやろう、と十和は声の内側で叫んだ。それはのどの奥に流れて行った。誰からも聞かれない声だった。ばかやろう、何度も叫んだ。スミスにだけは聞こえたようでスミスは笑った。十和の顔を借りてにやりと笑った。

 十和は非常口で見下ろされた自分を思った。佐々木にキスをしながら自分を見下ろす楢本にちくしょうと罵りたかった。先に帰ったふりをして、背後から現れた楢本にちくしょうと怒鳴りたかった。

 十和は走る脚を緩めると、そのまま自分の家まで歩いて行った。街灯はほとんどなかった。暗い夜道に、スミスが手を握ってくるのを、十和は喜ぶように受け入れた。スミスの掌は冷たかった。十和の掌の体温はどんどん奪われていって、汗が滲んだ。

 ただいまと玄関に入ると、江口が顔を出して、おかえりと声を掛けた。十和を労うような優しさにこもった声だった。十和は居場所を見つけたように笑った。さきにお風呂入る、と脱衣所に入った。

 お風呂から出ると、十和はタオルも頭に巻いたまま江口が台所で十和のお膳を出すのを、十和は冷蔵庫の中の麦茶を江口の分も注いだ。十和が帰るまで待ってくれただろう江口の心遣いに気づいて、十和は笑みがこぼれた。

 食事の終わった後も十和は台所で江口とテレビを見ていた。江口は時々テレビの中の芸能人に笑ったりしながら十和に話しかけた。終始、機嫌がいいようなのが、十和を安心させた。

 視ていた番組が終わった後、ニュースが流れた。駅前の映像からアナウンサーの映る画面に切り替わり、その伝えられた内容に十和は釘付けになった。というような感覚だった。釘付けになったのは十和ではなくスミスだった。スミスは顔を歪ませた。目を伏せ、胸を覆った。十和の姿に、江口の「大丈夫か、十和」という声が十和の俯く頭に落ちてきた。

 それは人間魚雷と称された特攻隊員たちの追悼式を伝える三分ほどのニュースだった。十和は胸を襲う悲しみに知れず涙が流れているのに気づいた。十和の悲しみではなかった。胸が泣いているようだった。散れ散れに悲しみが広がっていくと、十和は初めて自分の悲しみのように実感していったのだった。

 違うぞ、違うんだからな、十和。と十和は譫言が突いて出た。違うぞ、オレはな、そんなんじゃないんだ。と譫言が次いで出る。

 十和、オレは今、同情しただけなんだ、オレは、オレは…説明しきれない言葉が奥に潜んで、十和は黙りこくった。江口が心配そうに見つめている。

「十和、もう休もうか」

 十和の肩に江口の手が触れると、十和は体を起こして、

「お父さん、だいじょうぶ。でももう寝ちゃうね」

と、十和は笑みを作った。

「ああ。そうしようか」

 十和が台所から出て行こうとするのを、

「薬だけは忘れないで」

と、江口が後ろ姿に声を掛ける。

「うん。飲んでいるよ」

「そうか」

 江口を残して十和は二階へと上がっていった。細く開けた窓から外気が心地よく入るのも部屋の熱気は癒やされそうになかった。むん、とした重苦しい空気に十和は身を沈めるように横たわった。

 スミスが何者でも大丈夫、と十和は声に出してつぶやいた。わたしは佐々木みたいな女子とは違うから、と力強くつぶやいた。スミスが何者でも、何者か一生知ることができなくても、わたしはだいじょうぶ。

 それから十和はパジャマを脱いで座ると、ゆっくりと目を閉じた。ばかやろう。スミスのばかやろう。口の先でそう漏らすと、そこに寄ってきた鬼火が冷え冷えと燃えさかり、十和は笑みで口元が歪む。十和は誰もいない襖に向かって喋り散らす。スミスは楢本でしょう。楢本が化けてわたしに悪さをしているんでしょう。ポーカーフェイス。そんなの無駄だよ。わたしはお見通しなんだから。わたし、知ってるんだから。楢本がわたしのことこっそり見張っていること。またポーカーフェイスするし。スミス、ずるいね。

 楢本じゃないよ。お母さんでしょ。本当はスミスはお母さんでしょ。十和のことが嫌いで、化けて出たんでしょう。ちがうよ。お母さんでもないよ。やっぱりスミスは楢本だ。

 十和は鏡台のまえに立って胸にある人面疽をみた。ほら、やっぱり。楢本にそっくりだ。どうしてわたしをいつも見ている? わたしを見た後、悪い人みたいににやけるのはどうして? わたしを見た後、ふっと無視するのはなんで? そうやって細い目でにらまないで。スミスはどこ? どうして気取って、なにも言わない?

 鬼火は十和の胸元で蝶のように飛んだかと思うと、ぱっと消えた。それから十和は部屋の隅々を見渡した。揺れる火の玉を探した。鬼火は十和の目の前すぐを掠めたかと思うと、また消え失せ、捕まえようと手をのばす十和は残念そうに、ああ、と息を漏らした。

 ずるいよ、スミス。うううん。鬼火は十和の両手首に絡まる。畳に押しつけられたまま十和は唸った。寂静の闇にうだる暑さが滲んで、十和はのどから押し出すように声をあげた。細い声だった。障子の桟の影だけが浮き上がり、夜空を区切った。

 胸の人面疽がめりめりと音を立てる。腫れ上がるとパンッと音を上げて弾けた。めりめりめり。パンッ。パンッ。中から膿が溢れて血が滲む。膿が十和の胸を伝っていくと、じっとりした空気に混じって臭い匂いを発した。十和は顔を歪ませると、くくく、と口の端が持ち上がり、冷ややかに笑った。胸に強い痒みが襲うと、我慢しきれないように胸をどんどんと打ち付けた。

 十和は軟膏を手に取ると、いぼに塗り込んでいく。膿と軟膏が混じるようだった。汚れた人差し指をティッシュで拭うとそのまま放った。恥ずかしいよこんなんじゃ。恥ずかしくてプールにも入れないよ。スミス、ひどいよ。わたしの体を元にもどして。痛いよ、痒いよ。ひどいよ。汚いよ。わたしの胸は汚いよ。元に戻してよ。ああああん。あああああん。

 溢れる思いに勝てず、十和は声を上げて泣き出した。スミスは十和の肩を抱いて優しくさする。十和は自分の腕を振り払うと、ちっくしょう! と怒鳴った。

 慰められてたまるか! 汚い胸をどうにかしろ! ああああん。あああああん。どうしてわたしばかりこんな目に遭って! 佐々木にしろよ! 楢本のばかあ。ばかあ。わたしはもう殴られないよ! わたしに触れるな! 地獄に墜ちろ! 奈落の底へ墜ちろー!

 十和はただ手足をじたばたと畳に打ち付けると、涙がどんどん溢れてくる。十和は窓を開けて外に向かって泣いた。夜空は雲が覆っているようだった。灰色の雲に紛れてちいさく星が光るようだった。高いところで吹く風は灰色の雲を追いやって、星の光源が地上に落ちてくるのだった。十和は空を見上げながら、胸に手を置いた。

 その瞬間、胸の人面疽は跡形もなく消えていた。もとの平らな胸が十和の掌のしたにあった。十和は掌を下ろすと、胸をみつめた。撫でると、その滑らかな肌に、十和は静かに奮いたった。涙は止まらなかった。十和は背中からスミスが剥がれ落ちていく感覚に天井を見上げた。服を剥いでいくような感覚だった。背中から頭を伝って、抜け殻は十和の足下に落ちた。電流のような直線的な痛みが後を追って巡っていく。それから、すとん、と静かに音を立てて、鬼火は消えていった。十和は消えた先の畳の上をじっと見つめた。一人きりになったんだ、という感じに背筋がぶるんと震えた。こめかみを伝う冷や汗をぬぐうと、また背中が震えた。

 遠く突き上がっていくような夜空を、両腕をあげて空気を大きく吸い込んだ。闇は重苦しく十和の頭に覆い被さる。癒えない暑さが部屋を満たして、外気に涼感を求めていた。何度となく見上げた空にぼやけたお月様が透けて見えた。ほの白くひかる光源をいつまでもみつめていた。  

スミス、バイバイ。胸に手をあて、小さくつぶやいた。もう一度つぶやくと、十和、とスミスの声が聞こえたような気がした。また胸を嬲られたような気がした。掌をにぎりしめると、とくんと脈打って、爪の先が震えたようだった。十和は小さなその乳房をスミスのように触れてみた。爪を立てて、胸に緊張が走ると、バイバイ、とまたつぶやいた。

 十和に触れようとする鬼火はもう姿を現さない。静寂を貫く闇だけがそこにある。秋を告げる虫の音もすぐそばに聞こえたような気がした。青々と茂る草が、夜露を探す。遠くのテールランプが連なりが、夜に飴玉をころがしたように光っているのだった。やがて雨が降り出す。屋根を打つ雨粒は、黒い斑点を作ってやがて溶けていった。風に雨樋が揺れる。窓に点々と打っていく。月は曇天の向こうでかすかに瞬いているのだった。



 夏休みが終わると、佐々木と楢本は別れてしまった後で、期待していた楢本の志望校に関する話も聞けずに夏は過ぎていった。楢本は隣のクラスの女子と付き合いはじめたという噂が十和にも聞こえ、遠ざかっていった楢本の後ろ姿を遠巻きでみつめていたのだった。楢本はクラスにいることが少なくなり、やがて十和の心の内に占める楢本の存在も小さくなっていったのだった。

 佐々木は相変わらず十和とつるんでは、塾の行き帰りも同伴で、変わらない侵食を繰り返す。楢本のことを会話にすることはなかったけれど、時々、楢本をそっとみているような様子の佐々木に十和は気づいていた。佐々木のほうから別れ話をしたと言っていたにもかかわらず、佐々木に後ろ髪をひかれる思いがあったことは十和にも察せられた。

「志望校、どうする?」

「S高校かなあ。M学院の体験入学もいこうよ、十和」

「私立はウチはだめだと思うなあ…あ」

「きゃ…」

 街灯のない夜道にライダーが唸りを上げる。蛇行していくライトの光が十和たちを照らす。エンジンをふかしながら爆音を道路に落としていく。十和と佐々木のすぐ横を通り過ぎていくと、猛スピードを上げて走り抜けて行った。十和の胸が疼く。締め付けられるような痛みに十和は胸をかき抱いた。

「だめ…吐きそう」

「大丈夫? 佐々木。行こう」

「うん」

 十和と佐々木は急いで小路に入ると家路を急いだ。十和は、はあと息を大きく吐き出すと、佐々木を仰いだ。

「怖かったね、マジで」

「行こう」

 遠くで走り去るライダーに顔を顰めると、十和は胸の違和感に掌を押さえつけた。スミス、と心の内でつぶやくと夜空の向こうで爆音が応えるように唸りを上げていった。十和の回りを蛾がせわしなく飛び回る。十和は手で払いながら夜道を家へと歩いて行ったのだった。

 




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