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夜の引力

作者: 黒森牧夫

 いびつな形をした真っ黒でゴツゴツした塊が、何時までも私の中に蟠って、私の頭を押さえ付けていた。世界喪失者の昏い回帰の念が、陰気に力無く哄笑を響かせ、果ての無い既知感に埋め尽くされた余りにも愚劣なる未来の展望は、途轍も無く私をうんざりさせ、退屈させ、この〈現在〉と云う代物が、狭くて窮屈な檻と化してゆくのを、私は只黙って四肢を投げ出した儘側で見ていた。惨劇が必要な季節になって来ていたのだ、生を再び覚醒させる為の7%溶液が。気の滅入る鈍い頭痛が、私の陰鬱な気分を更に煩わしいものにしていた。肉体は単に私を閉じ込める為の鈍重だが容赦の無い罠となり、散々私をあらぬ方向へと目眩のする程ぐるぐると連れ回しておき乍ら、結局は元のちっぽけでむさ苦しい貧相な生活の疲労へと舞い戻って来るのだった。意地の悪いと云うよりもはっきりと悪意を持ったこの無軌道な悪童と付き合うのにも到々我慢がならなくなった私は、その晩例によってどんな本を読むことも叶わず、散りぢりに乱れて定着せぬ思考を振り回し乍ら、無分別にもまた夜の目的地の無い行軍へと私の両足を駆り立てたのだった。

 安手の扉を開けるなりどっと冷気が押し寄せて来た。実際、こんな時期の真夜中近くに、幾ら厚手だからと云ってコートを一枚羽織っただけの恰好で外に出て行くなど、凡そ正気の沙汰とは言えない。雪こそ降ってはいなかったが、気温は疾うに零下を回っており、まともに考えれば下にもう一、二枚でも着込んでいるべきだった。だが私は、一度始まってしまったことを途中からまた再開させるのは面倒だとばかりに、その儘その冷え切った大気の中へと足を踏み出した。寒かろうと暖かろうと、進むことに変わりは無いのだ。

 自分の体が動くと、周囲の大気もそれにつれて動くのが判った。コートの内側も含めて全身の皮膚がまるでバリバリに凍り付いた様な感覚が走った。一度全身に冷水を浴びて、それから厳寒の屋外に出た感じだった。もっと大きく身体を動かせば、その儘パリパリと割れてしまうのではないかとさえ思えた。確かに寒さは厳しかった。風は無かったが、乾燥し切った冷気は一寸動くだけでも酷く痛かった。だがその冷たさの中には、何かもっと、単ただ冷たいだけなのとは別の、もっと悪質な寒気、何か禍々しいものを予感させる不穏な悪寒を引き起こすものがあった。まるで周囲の夜の暗がり———敢えて「闇」とは呼ばないでおこう、その名称は街の薄汚い明るさの中では勿体無い気がする———にびっしり悪意が充満していて、皮膚一枚隔てて私をぎゅっと押し込め、隙無く取り囲んでいる様な感覚があった。

 視線を上に向けると、空は一面、腐った赤ワインをぶち撒けた様な、反吐の出る色彩でぐちゃぐちゃになっており、家並みに遮られて見えない彼方の地平からは、何か瘴気の様に仄白い澱みが立ち昇って来ていた。私は喉の奥で獣じみた唸りを一声上げると、その汚らしいものの下に広がる、更に汚らしいものの群れに目を転じ、凝っと眺望した。今度も、何処か行く当てがあって出た訳ではなかった。何にしろ目路の限りに家、家、家、狭っ苦しい小さな檻の大群が一面を埋め尽くしていて、私の足では何の方向に進もうとも同じこと、こことは違う何処かへ脱出しようと思ったら、飛行機か一片のガラス片が要るのだった。それでも私の足は自然と普段通り慣れた道を避け、迷い易い住宅街の見知らぬ今踏み出した道の更なる奥へと、私を誘い込んで行った。

 幾ら都会と云うものが夜を知らないものであっても、流石にもう日付が変わってしまったこの時間帯、しかもだだっ広い住宅街の真直中では、出歩いている人影なぞ殆ど居はしなかった。時折、ふと長いコートを羽織った無言の人影が遠く視界の端に見えることがあったが、この無意味に明るい街灯の数々がこんな夜中にこんなにも明るいのは、きちんとこうした人々を導く役割を果たしているからだと言い訳を叫び散らしている様だった。

 通る車なぞ皆無の路上で、一定間隔を置いて赤い夜間灯がゆっくり無気味に瞬いていた。私は両手をコートのポケットに突っ込んだ儘、足早にそのひとつひとつの下を通り抜けて行った。体を動かせば少しは温かくなるだろうと思ったが、全くそうはならず、それどころか全身の皮膚に貼り付いた氷の皮膜は、益々厚さを増し、今にもバリバリと音を立てて皮膚と一緒にひび割れ、削げ落ちそうになっていった。

 小さな駐車場、閉じた金持ち共の家々の門、歪んだ凹凸を露に白々と浮かび上がる硬い路面、やけに明るい街灯が埋めてゆく暗がり、廃墟を連想させる路上看板、常緑樹の窮屈そうな植木、似た様な、そして一様にどんよりと死んだ家並み、何遍も繰り返し現れるそっくりな街角———そうしたものどもを、私は瞳を凝らしてひとつも見逃すまいと集中した。その色、形、間隔、変型、パターン、歪みや逸脱、繰り返し、類似、配置………要は普遍性を持ち得るもの一般へとバラバラに分解し、再構築し、またバラバラにし、それらの存在性をひとつ残らず把握しようとした。単純に視覚の面で言えば、私の両目は焦点が合っていなかったろう。私はその不完全な夜の光景全ての背後に、それらだけに終わらぬより根底的なものの姿を探し求めていた。それら全てを自分の目で組み立て直すことによって、私はそれらが語り掛けて来るものどもを聞こうとし、唯其処に存在するだけの、在るが儘の世界に肉迫し、(しか)と認識しようと欲した。通常の意味、私がその中で動き回り、目印を探し、距離と角度を測り、硬さを推測し、適切な位置関係を調整すべきものとしての意味ある形はどんどんとその属性を剥ぎ取られてゆき、代わりに夜の凝っと重く佇んだ無言の黒い集積体が視界を塗り替えていった。私は一方的に自らの存在を一個の眼差しへと純化させてゆき、手と足はそれを黙々と運ぶだけの乗り物となっていった。視線は両目の真ん中の少し下、額中央の下部の辺りでひとつになって固定した儘ピクリとも動かなくなった。眼球も更に捨てられ、私は唯一個の眼差しとして世界を見ていた。(、、、、、)

 世界内存在者達の群れはそれらであり乍らも最早それらではなかった。鼓膜を圧して低く重く唸り続ける大気の存在………無数の剃刀で皮膜を突ついて来る怖気立つ夜の冷気………拡散し、入り乱れる無用の光の束………寒さに身を固くし乍らも、無言の儘凝っと獲物と捕える機会を、己が生をどぎつく開花させる機会を窺っている植物達の視線………むず痒い乾燥した膚………様々なものが色々な形を取って意識の中に一瞬その場を占め、そしてまた闇の中に沈み込んで行った。それらは全くバラバラな様でいて、何故か酷く統制が取れていた。奇妙に平板な奥行きを持った幾つもの画像が現れては、次々とその次の画像にその座を明け渡して行った。風景はひとつのものとして現れてはいたが、同時に幾つもの合成物でもあった。私の視線はそれら入り乱れる視野の中をふらふらと彷徨い、時に狼狽え乍ら、その夜の風景そのものに肉迫しようと足掻いた。

 不思議な冷たい熱が体の中にあった。———ガチガチに固まった氷が持っている様な熱だ。全身の表面はきゅっと氷の殻で(くる)み込まれたかの様にひりひりと痛んでいるのに、そこから何か火傷でもししそうな程の熱がふつふつと湧いて来ているのだ。煮え繰り返る様な、しかし酷くゆっくりと静かな高揚感がやって来て、私の前頭部を押さえ付けた。鼻孔に吸い込まれた冷気がガリガリと私を内側から削り落としていった。濁った大気の中で白く色の付いた呼気は、その一息ひといきが、まるで私の中から逃れ去って行く生気の様に見えた。夜の冷たさに私が同化しようとして、それでも尚必死でそれに抵抗している………そんな感じだった。ポケットの中で固く握り締められた両の拳が、時折痙攣でも起こした様にブルブルと震え、その震えはその儘腕全体へと広がった。私の肉体は酷く不完全で、不調和で、適応のなっていない出来損いだった。

 不意に、犬の吠える声が悪意ある静けさを破って轟いた。私は反射的に身を竦めて立ち止まり、怯えるのと怯えた振りとを同時にしつつ、声の出所へと目を向けた。誰かの家の門の鉄格子の向こうで、耳の少し長い薄茶色の犬が吠えていた。その時歩いていた区域は専ら金持ち連中が住む所で、如何にも、何処ぞの名のある建築家に頼んで設計させましたと言わんばかりのがっしりした、馬鹿ばかしい程に地代の高い都会にしては「広い」部類に入る屋敷が所狭しと犇めいており、番犬用だか慰みの為か、犬を飼っている所も多かった。一方大きな通りからは余り見えない侘しい裏通りには、そうした金持ち連中が道楽半分で小金を稼ぐ為に建てた古びた安アパートが軒を連ねており、年金暮らしの老人達や、低所得層の若者達が、大抵は一人切りで、頼れる者や近所付き合いも無くひっそりと暮らしていた。ほんの数カ月足掛け程度に敷居を跨いで来るものも多く、要するにそこは家と云うよりはねぐらの集合体なのだった。富める者と貧しい者が奇妙にも混在したこの辺一帯の光景は、何か不思議な俗的奥行きを夜の中に展開していた。私は一度大きく鼻から息を吸い、一度口から出し切ってしまうと、ゆっくりと胸を膨らませてからこう口の中で呟いた。

 ———馬鹿な犬奴!

 犬はまだ狂った様に私に吠え続けていた。私は呼吸を整え乍ら、再度足を進めた。月も出ておらず、目印になる様な星など当然見える筈も無く、入り乱れる街路に方向感覚をまるで奪われ、私は途方に暮れた足が勢いに任せて進むが儘に前へ、前へと歩いて行った。恐らくその先へ行けば見知った光景へと繋がっているかも知れない方向と、恐らくはまだ足を踏み入れたことの無い方向、そして全く見当が付かない方向の間で、私の足は揺れ乍らもその度に何度かの決断を下し、道を決めていった。先程一瞬だけ感じた怯えが、体を動かす内に次第に再び意識の方面へと浮かび上がって来て、時折身ぬちを走る痙攣じみた震えによって増幅され、大きく渦を巻いた。視界全体の重心が、それにつられて前へ前へと動いて行った。私はそれに引き摺られる様な形で、前方の何か測り知れざる重い重い空虚へと吸い込まれ、落ち込んで行く様に前進して行った。辺りには何処も彼処も陳腐で妄りがましく安っぽい照明が闇からその正当な居場所を奪っていたと云うのに、何か巨大な夜の口がぽっかりと前方に開いて、私を呑み込もうとしていた。両腕や背筋はもう氷柱で出来ているのではないかと思える程に凍り付き、少し動かしてみるとまるで本当にバリバリと音を立てるのではないかとさえ思えた。私はひらすら自動的に動く一個の氷人形と化して、その口の中へ向かって驀進した。

 風景が悍ましくもぐにゃりと歪み出したのは、どちらを向いても辺り一面同じ様な家並みが、つまり二、三十年も前であれば「中流」で括られたであろう家庭の、あの胸の悪くなる要な継ぎ接ぎだらけの区画を過ぎ、如何にも即席で建てられましたと言わんばかりの安普請が建ち並ぶ、真新しい個性も無ければ味わいも無い、唯ひたすらに醜悪なばかりの、見渡す限り低く延々と続く住宅街に入ってからのことだった。始まりをこれと名指しで特定するのは難しいが、後から振り返って私の意識がそれまでとは何か違う気配を周囲の異常に感じ始めたのは、あの高熱を出した時に陥る様な奇妙な浮遊感からだったのではないかと思う。人通りが完全に絶え、それでも何処か遠くからは夜通し車道を埋め尽くしている車輌の立てる何物かに急き立てられている様なノイズが始終微かに鳴り響いてはいたが、私の意識はそれを単なる背景音として脳裏の片隅へ追い遣ってしまい、そこに沈黙が現出していると思い込もうとしていた。一定間隔を置いてぽつん、ぽつんと立ち並んでいる赤い夜間灯が、まるで息切れでも起こしたかの様な間合いで、しかし当然乍らそれでも一向にペースを乱すこと無く、無感覚に瞬いていた。鋭い痛みがやがて鈍痛に変わり、そしてその段階すらも直に通り過ぎようとしていた私の身体は、依然として行き先も知らぬ儘に前方へ、前方へと引き寄せられていたが、気が付くと私の足の裏は、コンクリートの固い舗道の上ではなく、その少し上、地面から5センチから15センチメートル程浮いた所を踏んでいるかの様な錯覚を覚える様になっていた。気が付いたとは言っても、しかし私の意識の中心は私が向かっている何か奇妙に近い(、、)感じのする前方へと吸い込まれて行っている儘で、飽く迄も精神の極く一部が(、、、)その事態に対し覚醒状態にあった、と云うのに過ぎなかったではあるが、それはまるで自分がスープの中の麩か何かになってしまった様な、ふわふわと柔らかく、掴み所の無い感覚だった。前へつんのめって行く様な感覚が強い所為で身体的感覚の重心が前方へ移動してしまい、その為にこうした錯覚が起きているのではないかと、最初はそう思った。後になって別の可能性も考えてはみたものの………正直、()う解釈すべきなのか、正確なところは今になっても解らない儘でいる。そもそも極度に緊張した集中状態とバラバラの分裂状態が並存してひとつの無気味な覚醒を作り出していたあの時の私の体験したことを、日常の物質的言語で言い表わそうとすると決まって何うにもならぬ分厚い壁に打ち当たるのだ。それが「単なる錯覚」であったのかどうかと問うこと自体、その時の私の状態に照らしてみれば愚かなことだったとも言える。私の現実には多大な虚構と夢想と幻覚が入り雑じってはいたが、それからの非現実性をも全て一緒に引っ括めて、その現実は私にとっては紛れも無い現実に他ならなかったのだ。それが冷静な第三者から見て何う判断が下されるかなど、医学的な関心を除けば、実に何うでも良いことの様にその時は思えた。日常的な尺度に於ける物理的な局面に於て、その時の私が何の様に解釈され得るとも、とにかく私は私に体験し得る限りに於て、宙を歩いて、前方へつんのめり乍ら前進していたのだ。

 その浮遊感は不規則に強まったり弱まったりし乍ら、実際に計測して何の位だったのかは判り様も無いが———何せその時私は時計を持って来てはいなかったし、周囲には無論時刻を知ることの出来るものなど何ひとつ無かったからだが———とにかく、暫く続いた。多分、私がぼんやりとした頭で注意力を集中させて身体に込める力を一時的に強めることが影響を及ぼしていた筈だと記憶してはいるのだが、それが具体的に何の様な影響を及ぼしていたのかまでは憶えていない。何しろその強弱は不整脈でも起こしているみたいに酷く不安定で、私が力を込めれば一律に強まったり弱まったりするなどと云う、はっきりした因果関係が掴める訳ではなかったのだし、それに仮にその時明白な比例乃至反比例の関係が成立していたとしても、その時の私がそれを察知出来たかどうかは怪しいものだと思っている。無論頭脳の一部にはその前後関係を覚知するだけの余力は残っていただろうが、私はその原因と結果との結び付きを改めて秩序立てて考えるだけの統率力をその時は欠いていた。私の頭の中は未整理の儘、大量の断片ばかりが溢れんばかりに犇めき合っていたのだ。

 浮遊感が強まったり弱まったりしたと書いたが、それは寧ろ体の軽さと言うべきだったかも知れない。何しろ少し体に重さが戻って来たと感じた時でも、足が宙に浮いていると云う感覚はずっと無くならずに、単に足に感じられる負担が大きくなるか小さくなるか、と云った違いが主な違いだったからだ。私はまるで目に見えない、地面の上に敷き詰められた透明な分厚い表皮の上を歩いているか、さもなければ、私の身体が、少なくとも腰から下は私の与り知らぬ何か全く別の物体、自動的に動く氷の義足か何かにでも掏り替わってしまったかの様だった。それは熱に浮かされた時の様な高揚感の軽みと時に吐き気を伴う不快感とが綯い交ぜになった感覚と似てはいたが、何かが微妙に違っていた。この厳寒の中、碌に装備も整えずに長時間歩き回っていた為に感覚が何処かおかしくなってしまっていたのかも知れないが、そこには何か肉体的であり乍ら同時に非肉体的な、身体の内奥の魂の芯を浮遊させる様な感覚が付き纏っていた。上手く説明はし難いのだが、喩えるならば、私の肉体は確かにそこに在るのに、丁度それと折り重なる様にして全く別の夜の風景がそこに広がっており、私の一部は目の前にある可視的領域から離れて、その不可視の夜の中に足を踏み入れていて、そのもうひとつの私も何か見えない力によってそこへ引っ張られている、そんな感じだった。

 先にも述べた様に、浮遊感の強弱に規則性は無かったのだが、それでも何度も何度も繰り返している内に、強く浮き上がる時の強さが、次第に大きくなっていることに気が付いた。丁度眠気を堪えて足を踏ん張っている時に、急にフッと気が遠くなってグラッと前へ倒れそうになり、そこでハッと気が付いて慌てて体勢を整えるのに似て、浮遊感は油断していると急にグッと強くなって来て、まるで本当に私を持ち上げて何処かへ連れ去ろうとするかの様に、歩いている私の身体の平衡を、心騒がせられる仕方で不意に崩して来るのだった。体が持ち上がりそうだ、と思った瞬間には、目に見えている光景の中に点在している様々な人工の光が、それに合わせて急にその輝きを強め、大きくなった。安っぽく禍々しい夜間灯の赤い光が、その恩恵を受けるべき人間が全く通らない街路を徒らに照らし出している無数の街灯の白い光を伴って、ウワッと私の顔を目掛けて突っ込んで来るのだ。

 全風景が、ゆっくりとではあるが着実に、禍々しい気配を増大させていた。先程から微かに前頭部に感じている鈍い圧迫感は、この凍て付く様な寒さだけから来ているものとは思われなかった。何か抗い難い強大な力が、薄汚れた夜の中から、私を取り囲み、持ち上げ、鷲掴みにして、何処か不吉な恐るべき領域へと連れ去ろうとしているのだ。私には半ば強迫めいた確信が生まれて来ていたが、この夜は私に(、、、、、、)敵対している、(、、、、、、)と云う想いが、明白な物質的肉体的変調と共に強まっていった。

 主導権をこちらに(、、、、、、、、)取り戻さなくては(、、、、、、、、)いけない。(、、、、、)私は気をしっかり保とうとして意識を集中させ、頭を冴えた状態に保とうと努力した。だが不安定な外界の調子に引き摺られているのか集中力の強度は散漫で、こちらでは全く気を抜いてはいない積もりでも、不意にフッと無自覚的な風景の一部と化してしまい、その場に充満している未知の力に身を委ねてしまいそうになることが何度もあった。私は睡魔と戦う様な感じで、懸命に自分の注意力を何か一点に集中させるのが良いだろうと判断し、その対象を探し求めた。今ではよく思い出せない混乱の中に幾つもの像や言葉、印象の固まりや未彫琢の記憶の火花が、入り乱れては弾け、また別のものを誘い出しては、短期記憶にさえその足跡を残さずに一瞬でまた闇の中へと沈んで行った。生理的な欲求を提起する様な強力な刺激が何かあれば良かったのだが、運悪くそうしたものは私の自覚を助ける為に遣って来てはくれなかった。時折、他のに増して私を覚醒させる瞬間を齎してくれる何かがあったが、それらは確か、何等かの形で包括的な性格を持つ概念と結び付いていた様に思う。それらの諸概念ははっきりと言葉にするのが奇妙にも難しいものではあったが、その属性や関係性、それらが想定し要求するコンテクストはこの上も無く明白だった。そしてそれらの諸概念が結び付いている何かは酷く具体的な、限定された形をしたものなのだった。

 幾つものメロディーが交錯する所から、私の記憶は多少水の帳の様なぼやけを払うことが出来る様になる。それは跳びとびで断片的な、酷くバラバラの時間的構成を持ったものだったが、少なくともそれが鳴り響いている間は私の頭はそのことだけに集中していられた。曲目はバレエ音楽や映画音楽だったと思う。聴き慣れた調べが幾つも意識の水面に浮上して来ては一瞬の閃きを見せ、そしてまた何事も無かったかの様に消えて行った。その内に曲は唯一曲に収斂する様になっていった。極く最近作られた交響曲だ。重く荒々しい厚みのある響きを重ねたもので、畏怖と戦慄を聴く者の心に喚び起こす類いのものだった。不規則なリズム編成を持つ曲だったのだが、後から思えばそれが却って良い効果を齎したのではないかと思う。こうした不安定な状況下では、一定のリズムを保持しようとしても仲々出来ることではない、ついつい周囲の乱れに掻き乱されて、やがてはこちらのペースを失ってしまうのが落ちだ。だが、乱される前にこちらでその乱れを先取りしてしまえば、一定のパターンを作り出すことは難しくなるものの、少なくとも場の主導権はこちらで握ることが出来る様になる。私は寧ろ先へ先へと曲を急がせて、それらから出来上がる一定の塊に、自分の意識の固定点を撃ち込み、そこを足掛かりにして視界を集約させ、風景を系統立てて纏め上げて行った。

 厳しく、容赦無く、前方へと突き込む連結した動きがあり、それらの一つひとつにと云うよりも、幾つかの小節のひと固まり毎に、歪んだ視界の焦点がはっきりと寄せ直され、組み替えられた。目の前に広がる夜の中途半端な闇に、はっきりしたひとつの重心が出来、そこが全ての中心ではないにしても、少なくとも何物もそこを通過せずには済まない、強い引き付ける力を持った、留めピンの様なものとなった。私を前方へと引き寄せようとする力は、私の方から遂に前方から吸い込ませようとすることによって、その不安を喚び起こさずにはいれらない無気味な威力を殆ど相殺される様になった。

 力を取り戻し、再びその場に於ける優越を、場に対する支配権を手にしたと思った私は、その儘少しずつ(たかぶ)った神経を鎮めようと、音楽にメリハリを付け、成可く動きが四角四面になる様に、意図的にリズムを堅苦しく調整を始めた。極く単純な座標系の中にこの空間を閉じ込めること、それが差し当たっての目標だった。私は一拍毎に空間を刈り揃え、きちんと整理するイメージを一心に思い浮かべた。

 心の中で唱えている音楽が安定したリズムを刻み始めると、心無しか、私の前方に広がるあの不可解な空間も、整然としたパターンを見せる様になった様に思われ始めた。………いや、正確を期すのであれば、正直に言ってこの二つの表象の前後関係が余り明白なものではなかったと云うことをやはり言っておかねばならないだろう。私が音楽を用いて躍動する空間の調伏に成功したのか、それとも空間がはっきりそれと分かる規則性を現し始めたからこそ、私の音楽は安定することが出来たのか、その不明瞭さの陰に潜んでいる忌々しい可能性についても、私は想像せざるを得なかった。不愉快な経験だった。

 と、私がほんの数瞬思考の狭間で立ち止まって躊躇っている内に、その風景の中にあったあらゆる異常が、急速に収まっていった。丁度フィルムを逆回しにする様に、何の兆候も痕跡も残さず、空間の捻れも、奇妙な浮遊感も、全身を覆っていた悍ましい寒気も、まるで嘘の様に全てが、見る見る内に退いて行ってしまったのだ。怪異の数々から急に取り残され、狐につままれた様な気持ちで暫し硬直したが、全てが元の平凡な夜に戻った訳ではなかった。遙か遠くで谺する様な、それでいて直ぐ耳元で囁き掛けて来る様な、無気味な呻きが、微かな残響の如くに居残っていた。それは身の毛もよだつ様な忌わしい声の塊だった。無数の卑しい響きを持った声ならぬ声が幾つも折り重なり合い、押し合い圧し合い、互いを呑み込み、喰らい合い、恥も外聞も無く喚き立て、悲響を長く伸ばし、口を開いたり閉じたり意地汚い猫の様な卑しさで、盲目的におらび合い、訳の分からぬ儘にぞめきまくり、大小様々なうねりを間断無くうねらせ、地の底をぎっしりと這いつくばって埋め尽くし乍ら、冥界の凄まじいばかりの絶望と狂気を謳い上げていた。それは本当に微かな音で、少し風でも吹けば忽ち掻き消されてしまいそうな何とも弱々しい響きであり乍ら、一度聞き付けてしまうともう決して間違え様が無い強烈な印象を私に植え付けた。それは恐らく、実際の大気の振動ではなかったのだろう、私の心の中だけにしか響いてはいない、しかし決して私の野放しの空想の産物などではない、少なくとも私の意識の下で利用可能な、と云う意味では私が生み出したものではない、何か酷く忌わしい外的な存在の気配が、夜を圧して、私の心の聴覚とでも言うべきものにまで届き、その奇怪な訴えを訴え掛けて来ていたのだ。酷く厭らしい小さなものの大群、それも可成りしぶとくしつこいものの大群が、その辺に犇めいている様な、ゾッとさせられる印象があった。叫びは幾つかの突出した大きな波によって先程私を前方に引き付けて来た力とはまた別の微妙に異なるリズムで形を成していた。息を呑んでいる私が、凝っと用心深く耳を一心に澄ませている内に、それは力尽きて動くのを止めてしまったかの様に大人しくなり、やがてその儘か細くなっていって消えてしまった。笙の音の様な余韻が真っ直ぐに数瞬間続いたが、それも直ぐにフッと掻き消えてしまった。

 残ったのは静寂ばかりだった。全てが死滅してしまったかの様な、凍り付く様な静寂。不思議なことに、私の耳には夜の街が発する遠い耳障りな雑音がしっかり届いていたにも関わらず、それとは別に、まるで夜の風景を二重映しにした様な感じで、絶対の静けさが、辺りに感じられた。しかもそれはそれと判る敵対的な雰囲気を漲らせていた。何か夜行性の肉食獣が、獲物を狙って凝っと息を潜めて暗闇の中からこちらの様子を窺っている様な、不穏な押し殺した気配が充満していた。鼓膜には大気のサーッと云う背景音が絶えず届いているのは分かっているのに、何故か闃とした静寂が地を這う様に、或いは頭上から降り掛かって来る様に、じわじわとまるで物理的実体を持った塊ででもあるかの様に、私の精神に脅威がまだ去ってはいないことを告げ知らせていた。

 そしてそれから、何処からともなく一条の冷たい光が差し込んで来る様に、円月刀の刃を思わせる鋭く弧を描いた単音が、その静けさの中から不意に生まれ、ゆっくりと大きくなって、そしてまた出て来た時と同じ様に滑らかに消えて行った。その後は今度こそ本当に死の様な静寂。

 途方も無い戦慄を抱え込んだ儘でそこから逃げ出そうとして初めて、自分の体がまるで金縛りに遭ったかの様に固い呪縛で閉ざされていたことを知った。まるで等親大の操り人形のものとなってしまったかの様な手足をもう一度動かすのは酷く骨が折れた。自分の身体の中から骨や筋肉がすっかり抜け落ちでもしてしまったかの様に、力を込めるタイミングを見計らうのが何故か途轍も無く難しいものに感じられたのだ。一旦弾みを付けて動き出した後も、それは何処か奇妙に自分からは遠ざかった、作り物の身体に精神だけが乗っかって動いているかの様な感じがした。周囲はまだ一度も来たことの無かった、何れも似た様な光景が延々と広がる住宅街だったが、私は朧に見当を付けた方向を頼りに、幾つもの白い街灯と赤い夜間灯の光の下を潜り抜けて行った。空は相変わらずどんよりと不吉に淀んでいたので全く当てにはならなかったが、ごぼごぼと広がる低い家並みの彼方に見える高層ビルの明かりは、大通りがある方向を示してくれていた。私は足早に見知った場所を求めて彷徨った。何処を何う歩いたかは全く憶えてはいないのだが、気が付いてみると自分が今、以前にも通ったことのある道を以前とは逆方向に歩いているのだと云うことが判った。私は進路以外は何も考えない様にして見慣れた道を目指した。とにかく一刻も早く、あの幻夢から逃れねばならない。

 何かを食べなければならないと思った。何かソリッドで実体のある愚鈍な物体を。肉だ、肉を口にしなければならない………。私は朝から固形物を何も口にしてはいなかったので、体は切実に栄養を必要としていたとは思うのだが、何故か全く食欲は湧いて来なかった。寧ろ、何か重いものを食べることを想像しただけで、胃の腑が凭れる気さえした。だが私は、一番近くにある二十四時間営業の安食堂の場所を何とか思い出すと、固く強張った足で足早にそこへ向かった。 

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