覆水盆に返らず
「こんにちは」
十六夜は、もうすっかり慣れてしまった開店前のバーの扉を開ける。からんからんと上品なドアベルの音がなって、中にいた人物がこちらを振り返った。
「あ、十六夜さん。いらっしゃいませ」
手にワイングラスを持って、笑顔で来客を迎えたのは金髪の青年一人だけだった。
「…あら?野蛟さんはいますか?」
「すみません、今出掛けてまして。でもそろそろ帰ってくる頃合いなので、よければ席に掛けていて」
「ありがとうございます」
青年のいつもの笑顔で示されたカウンターの定位置。十六夜は何となく違和感を感じたものの、嫌な感じはしなかったため腰掛けて荷物を置く。
ス、と音もなく目の前に置かれた円柱形のロンググラスには、既にロックアイスが入れられている。そこに螺旋状のカットレモンが縁にかけられ、グラス内に階段を下ろしていく。それから左手側からキン、とガラスの当たる涼やかな音とともに緑色のビンが取り出され、ポンっと王冠が片手で外される。同時に炭酸の抜ける軽い音が立った。
「器用ですね」
「今は、ですよ。最初の内は野蛟さんに雷を落とされてねぇ…。むしろビンを持つどころか、普段の生活をするのだって苦労したもんです」
苦笑とともにグラスへ琥珀色の炭酸飲料が注がれ、しゅわしゅわと軽快に弾けていく。赤いシロップがメジャーカップから注がれ、バースプーンで軽くステアされると、透明度の高いレッドブラウンが控えめな照明に照らされてきらきらと輝いて見えた。黒いストローが添えられ、十六夜の前に提供される。
「『シャーリーテンプル』。ノンアルコールカクテルなので、十六夜さんでも口にできるものですよ」
「え…いいんですか?」
「女のコを待たせるんだから、男としてこれくらいはしなきゃダメでしょ。それに、客を待たせる方が悪い。」
青年がにやり、といたずらっ子のような笑みを浮かべる。あとでマスターである野蛟に怒られなければいいが。
「…ありがとう、いただきます」
「いいえ。どうぞ、召し上がれ」
彼のキュマイラ・シンドロームの『羅刹』の力は、ヒトの力を軽く凌駕する。この店に拾われてから最初の半年は周りを壊してばかりいたことを、十六夜は野蛟から聞いて知っていた。彼はグラスやビンを持つことをはじめ、王冠を素手、しかも片手で外すなどという器用な真似が出来る程度に、自分の力を制御出来ているということだ。
「……美味しい」
「口に合ったようでよかった」
ふわりと笑みを浮かべる彼を見て、十六夜は目の前の金髪がぶれて黒髪に見えた、ような気がした。入ってきた時からどうにも雰囲気がいつもとは違うような気がしていたが、そういえば"この前の事件"から、店に来るのは初めてであることに気がつく。なるほど、なんとなく違和感が見えたような気がして、十六夜は視線を彼へ投げ付けた。
「ところで、貴方は何を迷っている……いえ、困っているのかしら?」
彼女が、ストローを回してからりと氷の音を立てながら問いかけると、彼は猫のように瞳孔をきゅっと細くさせて彼女から視線を外すと片手を後頭部へ持っていき、ガシガシと掻く。目の前の彼の癖であり、いらいらしている時や困った時にすることが多い。今の場合は恐らく後者に当たるだろうと十六夜は目測を立てていた。
「…………なんで分かったの…?」
「何となく、ですけれど」
「うーん、そっかー。まいったなぁ…」
彼は常日頃、喜怒哀楽を面によく出す派手な見た目とは裏腹に、口から出るのは敬語や丁寧語の類が多い。先程からの違和感はそれだった。常よりも所々……いやかなり、話し方が砕けているのだ。
「困ってるっていうか、何ていうか……その、うん。」
意を決したように、外れていた視線がこちらへと向けられる。
「………久し振り、で、いいのかなぁ。"葉月ちゃん"」
十六夜はその一言でやっぱり、と納得した。彼が気にしていたのはいつ『昔、隣に住んでたお兄さん』に戻るのか、だったらしい。
「そうですね、お久しぶりです。…"柊哉さん"とお話しするのは…」
「ヴッ……そうだね…。この前はそれどころじゃなかったし…ようやくいろいろと落ち着いたから…」
「………」
「あ、昔みたいに呼ぶの、嫌だった?」
「いえ、なんというか、違和感が…。今まで“カケルさん”として接していたという齟齬なのか、懐古なのか………まだ飲み込めていないのですけれど」
「…難しい言葉を知ってるなぁ」
「もう高校生なので」
「そうだねぇ…。あーあ、葉月ちゃんが成長するところ、ちゃんと"柊哉"として近くで見てたかったんだけど、なぁ……」
とはいえ、それが実現したかどうかは、お互い複雑な"事情"…では一括りにできないほどの出来事があり、それが無くしていまの自分達がないことはわかっているのだけれども。
「っと、そうだ!ちょっと待っててね!」
そう言い残すと、彼はぱたぱたとバックヤードへ駆けていく。何だろうと疑問に思っていると、彼はすぐに戻ってきた。その手に握られたものを差し出されて十六夜は首を傾げた。渡されたのは、特に何も記入されていない、薄水色の洋式封筒。
「ほら、"僕"に、話してくれたでしょう?押し花の話。」
『その花を、押し花にしてくれてー…』
たしかに、十六夜はその話をした。何となく話をするその前から、もしかしたら…と思っていたし、横顔が思い出と重なって、確信を得てもいた。しかし話をしたときに、彼は笑顔で話を聞いていても、思い出す様子はなかった。だから、記憶を呼び起こす強い刺激にはならなかったのだろうと思っていた、のだが。
「覚えていて、くれたんですか?」
「何かね、葉月ちゃんに話を聞いた時からずっと引っかかっててさ。多分"俺(柊哉)"も印象深かったみたい。
…あの時の花と同じのが、丁度近くの神社の裏にたくさん咲いていたから、すこし貰って、押し花にしてみたんだ」
封筒にノリ留めはされておらず、十六夜がそっと封筒を開いてみると、封筒よりも少し濃い青の小さな花が、パウチされた可愛らしいしおりが入っていた。
「上手くできたから、葉月ちゃんにあげようと思って」
「え、」
いらなかったら返してくれればいいから、と言われ、彼女は手元に視線を落とす。と、同時に、ドアベルがからんからんと来訪を告げた。
「カケルー、そろそろ開店準備すんぞー」
「あ、野蛟さんおかえりなさい。十六夜さんがいらっしゃってますから、対応をお願いします。飲み物は出しておきましたから」
「あぁ?って、まぁた勝手にドリンク提供しやがって……」
ちっ!!と盛大に舌打ちをした野蛟に、十六夜がおずおずと申し出る。
「すみません…代金は出しますから」
「いや、いい。お前から今日のドリンク代を取るつもりはねぇ。アイツの給料から差っ引いてやる」
「えぇ〜?二回りも下の女のコ待たせておいて料金取るんですかぁ?お待たせしないように十六夜さんをおもてなししていたこの僕から?」
「だぁぁ!!いいからお前は裏に行ってろ!!カラスの相手でもしてやれ!!!」
「はぁい。それじゃ、葉月ちゃん。また後でね」
十六夜は、ひらひらと手を振って再びバックヤードへ姿を消してしまった彼を視線で追いかけたあと、手元のしおりをどうするか返事をし損ねてしまったな、と、しおりを封筒へ戻し、ふたを閉じたのだった。
to be continued...?
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2020.06.21
シャーリーテンプル/用心深く
花=ローズマリー/追憶、思い出、記憶
書きたいところと書きたいところが繋がらなくて大変な難産でした。時系列は知らない。前のセッションのあとのきっと適当な時間軸。
あとカケルは僕の意思と関係なく勝手にアサヒ構文で煽るんじゃねぇ。書いてる僕がびっくりしたわ。