2-2
「せ~ん~ぱ~い!」
背後から聞き慣れた声が聞こえ、同時に背中に誰かが抱き付いてきた。
「遅かったですね! 待ちくたびれましたよ!」
「ちょっ! おま! 夏鈴!」
抱き付いたまま肩越しに顔をのぞかせた後輩に、驚き交じりの抗議の声を上げる。どうやら扉の陰に隠れて、俺が来るのを待ち伏せていたらしい。
ちなみに夏鈴も図書委員でイベント班の班員だ。よって、この子も今日の会議の出席者である。あるのだが……今はそんな考察をしている場合ではない!
夏鈴の体と密着した背中には、慎ましやかだけど確かに柔らかな胸の感触がある。所謂『当ててんのよ!』状態だ。これは精神衛生上、かなりよろしくない!
なお、いつもは妹の暴走をいち早く止めようとする樋上も、夏鈴が想定外の登場をしたことで呆気に取られている。目を真ん丸に見開いて、棒立ち状態だ。今回に限っては、彼女の助けは期待できそうにない。
「やめろ、夏鈴! 抱き付くな。さっさと離れろ!」
とりあえず抵抗するように身をよじらせてみる。
だが、これがいけなかった。体を動かしたことで、より一層夏鈴の体の柔らかさを感じてしまう。しかも俺が身をよじった瞬間、夏鈴が耳元で「んっ!」と悩ましげな声を上げ、体が硬直してしまった。俺の抵抗、これにてあえなく終了。
「あ、先輩、赤くなった。可愛いですね、もう」
「あの、夏鈴さん。そろそろ許してもらえませんか。俺、後輩にこんなことさせて喜ぶ特殊性癖はないんで……」
降参の意を示すようにホールドアップする。もう限界だ。このままだと、恥ずかしさで気がおかしくなってしまう。
ただ、夏鈴は俺の発言を別の意味で受け取ってしまったらしい。肩越しに俺の顔を見つめ、不満そうに頬を膨らませた。
「先輩、それはわたしの体では不満ということですか? やっぱり先輩も、お姉ちゃんみたいに大きな胸の女性の方が好きなんですね!」
「はあっ!?」
夏鈴のとんでも発言に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。そして思わぬ精神攻撃を食らった樋上も声にならない悲鳴を上げ、一瞬にして茹蛸状態になった。
しかし、夏鈴の俺たちの様子を楽しむように、いたずらっぽい口調で続ける。
「あれ、違うんですか? ちなみにお姉ちゃん、着やせするタイプなんでわかりづらいですが、実はDカップです。憎たらしいくらいにスタイル抜群なんですよ」
夏鈴が自慢げに姉を見つめながら、余計な情報を付け加える。
一方の俺はというと、男の悲しい性というかなんというか、思わず真っ赤になったまま立ち尽くす樋上の胸元に視線が吸い寄せられてしまった。
俺につられたのか、夏鈴も樋上の胸元をガン見する。耳元から「ね? よく見ると大きいでしょ?」といういらない一言が聞こえた。
そして、俺たち二人の視線を胸に集めた樋上は、羞恥に耐えきれなくなったのだろう。その場でへたり込んでさめざめと泣き出してしまった。
両手で顔を覆い、肩を震わせる樋上。瞬間、俺の中で光が爆ぜた。
樋上が、俺の目の前で泣いている。その事実が、俺の奥底から何かを引き上げようとしてくる。けれど、その引き上げはなぜか失敗に終わり、狂おしい焦燥感だけが俺を満たした。まるで引き上げようとした何かに蓋がされているような感覚だ。
気が付くと俺は夏鈴の手を振りほどき、泣き崩れた樋上に駆け寄っていた。
樋上の泣き顔を見たくない。一刻も早く樋上に泣き止んでほしい。強迫観念にも似たその焦りが俺を支配し、体を動かす。
「樋上、ごめん!」
後先を考えず、額を床に打ち付けて樋上に土下座する。想像よりも大きな音が、準備室に響き渡った。
俺の頭突き音に驚いたのか、頭上から樋上のすすり泣く声が消える。恐る恐る顔を上げてみると、樋上は充血して赤くなった目で、呆然と俺を見下ろしていた。
見上げる俺の視線と見下ろす樋上の視線が噛み合って、互いに逸らせなくなる。
「あ……。ええと、その……」
ひとまず泣き止んでくれたことには安堵したが、この先何を言うかに詰まって、普段の樋上のようにどもってしまう。
この場面で、俺は一体何を言えばいいんだ? 素直に『胸を凝視しちゃってごめん!』か? ……そんなこと言ったら、確実にまた泣かれるだけだろう!
なら、いっそのこと『樋上って、スタイル良かったんだな』とか? ……セクハラ以外の何物でもないな! 一生口きいてもらえなくなるわ!
アホみたいな自問自答を繰り返しながら、脂汗を流す。この状態で何を言うのが正解かなんて、彼女いない歴=人生の俺にわかるわけがない。
樋上の方もどうしたらいいのかわからない様子で、おろおろしていた。いっそのこと、ビンタの一発でもかましてくれれば楽かもしれないのだが……おとなしい樋上にそれを期待するのは酷過ぎるだろう。
やはり元凶の一人である俺がどうにかするしかないわけだが、果たしてどうアクションを起こしたものか――。
「……お前ら、何をしてるんだ?」
その時、俺でも樋上でも、ましてや夏鈴でもない声が、準備室内に木霊した。
第三者の登場に、俺と樋上がまた彫像のように固まる。夏鈴は知らない。
顔を見ずとも、声を聞いただけで誰かわかる。俺は土下座姿勢のまま、油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動きで背後を振り返った。
「宮野、樋上姉。よもやとは思うが、図書室内でいかがわしい行為に及ぼうとしているのなら、さすがに図書委員長として見逃せないぞ?」
「誤解です、黒部先輩!」
呆れ果てた声を上げる黒部先輩に向かって、弁明の声を上げる。もう、今度は俺の方が泣きそうだ。この人にだけは、こんな説明に困る場面を見られたくなかった。
ため息をつきながら準備室の扉を締めたこの人は、黒部健先輩。今年の図書委員長にして、イベント班の班長を務めている三年生だ。
三年連続で図書委員を務め、進学希望先は図書館情報学を学べる国立大学という、根っからの図書館マニア。そして去年一年間、同じイベント班の班員として色々と俺の世話を焼いてくれた恩人でもある。俺にとってこの学校で最も尊敬する先輩だ。
そして裏を返せば、俺にとってもっとも失望されたくない相手というわけだ。それも不純異性交遊などという不名誉極まりない冤罪でなんて、最悪以外の何物でもない。いやまあ、この場で起こったことをそのまま伝えたとしても、十分に失望されそうだけど……。
「み、宮野君……」
俺がどうしたものかと頭を抱えていると、上の方から樋上の震えた声が降ってきた。声につられて樋上に目を向けてみると、彼女は真っ青な顔で小刻みに震えながら俺を見つめている。
やばいな。樋上、俺以上にいっぱいいっぱいという感じだ。俺の方はある意味自業自得の面が大きいが、このままでは巻き添えで誤解を受けた樋上がかわいそう過ぎる。
これはひとまず、俺自身の弁明は横に置いておこう。まずは樋上を騒動の渦中から安全圏に退避させるのが先決だ。
俺は樋上を背にかばうような形で立ち上がり、説明を待つ黒部先輩と向かい合った。