2-5
「お、お前ね、さすがに冗談でもこれはやり過ぎだろう!」
「ぷはっ! 冗談じゃないですよ。わたしはいつだって本気です。もしも先輩が望むなら、わたしの心も体も、先輩に捧げる覚悟ですよ」
口から俺の手を外した夏鈴が、蠱惑的な目つきでとんでもないことを宣う。
もはや表面上の冷静さを取り繕う余裕もない。脳内でパニックを起こした俺は、口を動かすこともできないまま、吸い寄せられるように夏鈴の瞳を見つめる。
すると、夏鈴は自分の口を塞いでいた俺の右手を両手で握り……。
「何なら、今この場で証明してあげますよ」
俺の手を自分の胸の方へとゆっくり導いていった。
その光景を、まるで他人事のように見つめる俺。パニックの果てにフリーズした頭に、このまま身を任せてしまえばよいか、という考えが浮かんだ。ここで身を任せれば、俺はこの子を手に入れることができる。そんな欲にまみれた即物的な考えが頭を支配し、体を硬直させる。
夏鈴はハチャメチャなやつだが、どうやら俺のことを慕ってくれているらしいし。そんなこいつと一緒にいるのも悪くはないかもしれな――。
『なんで……そんなこと言うの……?』
けど、その時だ。顔の見えない誰かの声が頭の中に響き、胸が急に苦しくなった。いつも俺を苛む、誰のものとも知れないあの声だ。
いや、今はそれだけではない。
『私こそ……また宮野君と会えて良かった。不束者ですが、よろしく……お願いします!』
浜松まつりの最後、雪奈が見せてくれた笑顔と、掛けてくれた言葉。その二つが、フリーズしていた頭を強制的に再起動させた。視界がクリアになり、体が自由を取り戻していく。右手が夏鈴の胸に押し当てられる寸前、俺は渾身の力で彼女の手を振り払った。
俺の反撃に動揺した夏鈴の隙を突き、どうにかマウントポジションから脱出する。
危なかった。あとほんの少し遅かったら、完全にアウトだった。いくら夏鈴から仕掛けてきたこととはいえ、流れで後輩に手を出していいはずもない。
荒い息をつきながら座り直した俺は、尻餅をついた格好になった夏鈴に目を向けた。
「夏鈴、もっと自分のことを大事にしろ。軽い気持ちでそんなことするな」
「……別に軽い気持ちってわけではないんですけどね」
乱れたスカートを直しながら、夏鈴が淡々と告げる。
「でもまあ、確かに性急過ぎましたね。すみません、先輩。今のはノーカンでお願いします」
あんなことの後だというのに、いつもと変わらない笑顔を見せる夏鈴。本当に肝が据わっているというか、何と言うか……。
もっとも、「なかったことに」と言うならば、俺もそれに異論はない。むしろ、こっちからそう頼みたいくらいだ。よって、「……わかった」と短く返事をしながら頷いた。
と、そこにトタトタという小走りの足音が聞こえてきた。
「あ、あの……今、ドシンって大きな音がしたけど……」
襖を開けて顔を見せたのは、雪奈だ。おそらく夏鈴が尻餅をついた音を聞きつけて戻ってきたのだろう。
「何でもないよ、お姉ちゃん。いつもみたいに先輩にちょっかい出そうとしたら、うっかり転んじゃっただけ」
てへぺろポーズで夏鈴がおどけてみせる。
瞬間、雪奈の長い黒髪が錯覚でなくふわりと広がった。
「あなたは、私がいない隙にまたそんな……」
「まあまあ、落ち着いてよ、お姉ちゃん。今回のは未遂だからさ。み・す・い!」
激しい怒りを顕わにする雪奈を宥めるように、夏鈴が未遂であることを繰り返し告げる。
未遂であっても行動を起こしたことには変わりないのだから、少しは反省する様子を見せろや。本当にこいつは、悪い意味でぶれない。
あと、雪奈は相変わらず夏鈴に厳しいな。この姉妹の関係性は、相変わらずよくわからん。
「そう……。あなたの言い分はわかった」
雪奈はひとまず怒りを抑えたのか、一度大きく深呼吸する。もっとも、夏鈴の言葉だけでは信用できないらしく、雪奈は俺の方を見た。
ここは夏鈴に話を合わせて、「本当だ」と告げておく。つい先程、ノーカンにするって取り決めたばかりだからな。舌の根の乾かない内に反故にしたりはしない。
というか、「夏鈴に押し倒されました」なんて雪奈には口が裂けても言えない。もしそんなことを言ったら、たぶん雪奈は顔を真っ赤にして卒倒すると思う。それに、なんかうまく言葉にしにくいんだけど、俺としても雪奈にここであったことを知られたくなかった。
ただ、雪奈はいまいち納得できていない表情だ。これが、所謂『女の勘』というやつなのかな。普段はおっとりしていても、なかなか鋭い。
「安心しろ。本当に、何もなかった。いつも通り、夏鈴のいたずらに巻き込まれただけだ」
念押しするように、もう一回何もなかったことを強調しておく。
雪奈はまだ少し不安そうな様子だったが、俺のことを信じてくれたのか、「宮野君がそう言うなら……」と引き下がってくれた。
「それじゃあ私、まだ片付けの途中だから……」
「ああ。驚かせて悪かったな」
襖を閉める雪奈を、手を振りながら見送る。
かなり危なかったけど、ひとまず誤魔化せたみたいだな。
「先輩、必死に隠してましたね。それほどお姉ちゃんにさっきのを知られたくないですか?」
危機を乗り切ったことに安堵していると、夏鈴が妙なことを訊いてきた。
「そんなの当たり前だろうが。せっかくこうして話せるようになったのに、わざわざ嫌われるようなことしてどうするんだ」
「……そうですか。まあ、そのくらいの自覚なら、別にいいんですけどね」
夏鈴の訳が分からない返答に、思わず首を傾げる。話が噛み合っていないというか、結局こいつは何が言いたいんだ?
「深く考えなくていいですよ。それより、勉強の続きをしましょう。今度は真面目に」
「あ? ああ……」
正しく何事もなかった様子で、夏鈴がノートと教科書に向かう。
俺は狐につままれたような面持ちのまま、夏鈴に倣って勉強を再開した。