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* * *
「――で、この公式を使えば……」
「あ、解けた」
手こずっていた数学の問題が解け、雪奈が小さく口元をほころばせる。
勉強会を始めて、三時間。過ぎてみれば、意外と早いものだった。自分の両側から質問攻めにあっていたから、余計に早く感じたのかもしれない。
最初は渋っていた夏鈴も、勉強に関する質問なら俺も素直に応じるとみるや、おとなしくテスト勉強に打ち込み始めた。
自分で頭が良いと豪語するだけあって、夏鈴の質問はかなり高度だ。というか、もはやテスト範囲なんかぶっちぎって、三学期にやるような箇所の質問を飛ばしてくる。おかげで俺もまったく気が抜けなかった。
「先輩、ここの英文の和訳についてなんですけど……」
雪奈の問題が片付いたところで、すかさず夏鈴が質問を挟んでくる。
できれば少し休みたいところなのだが、勉強しろと言った手前、「ちょっと待て」と言い出し辛い。仕方ないのでもうひと踏ん張りと気合を入れ直し、「どこだ?」と応じる。
「ここです。この、問二なんですけど……」
「ええと……って、これ俺の教科書じゃないか! なんでそんなとこやってんだよ」
「いや~、一年の範囲で質問できるところがなくなっちゃったので、せっかくだからその先まで進んでみようかな~と」
俺がツッコミを入れると、夏鈴はケラケラと笑った。
ちなみに夏鈴が見せてきたのは、俺たちが中間テスト後に行う単元だった。
「それとも、さすがの先輩もここはわからないですか?」
まるで挑発するような目つきで、夏鈴が俺を見つめる。
ハッ! 馬鹿にするなっての。俺だって、伊達に二年の上位に居座っていない。テスト範囲の先だって、余裕で予習済みだ。
「やってやろうじゃんか。何でも訊いてこい」
「ほほう、自信満々ですね。じゃあ、遠慮なく」
小憎たらしい笑みを浮かべた夏鈴が、えげつない質問をぶつけてくる。こいつ、本当に性格悪いな。
けど、これくらいなら何とか対応できる。俺は自分の持てる知識を総動員して夏鈴の質問に真っ向から立ち向かう。途中、夏鈴はさらに質問を重ねて俺を追い込んできたが、追撃もそこまでだ。俺は辛くも夏鈴の攻め手を躱し切り、答えを導き出した。
「ど……どうだ、夏鈴。これならば、文句あるまい」
「ええ。さすが先輩、御見それしました」
ゼィハァと荒い息をつく俺に、夏鈴が大仰な仕草で平伏する。
よし、勝った! 勉強は俺の最後の砦だからな。これだけは、絶対にお前に屈したりしないぞ、夏鈴!
と、俺がどうにかアイデンティティを守り通した、その時だ。
「あ……いけない!」
俺の視界の外で、不意に雪奈が慌てた様子で立ち上がった。
「どうかしたのか?」
首だけ振り返るような形で、立ち上がった雪奈を見上げる。
俺の視線を受けた雪奈は、ちょっと恥ずかしそうに小さく庭の方を指差した。
「洗濯物……取り込むの忘れてて……。ちょっと行ってきます」
「あ! お姉ちゃん、ついでにお茶のお代わりもお願い! 今度は温かいお茶がいいな」
客間から出ていこうとする雪奈へ、夏鈴が急須を手に余計な用事を追加する。
お前、それくらい自分でやれよ。
呆れ眼で、急須をお盆に載せる夏鈴を見つめる。相変わらず聡い夏鈴は、これだけで俺の言いたいことを察したのだろう。満面の笑顔を俺に向けてきた。
「先輩の言いたいことはわかりますが、よく考えてみてください。わたしに家事スキルなんて上等なものが備わっていると思いますか?」
「絶対にえばって言えることじゃないからな、それ! むしろ恥ずべきことだからな!」
堂々と何言ってんだ、この後輩。さすがに俺だって、簡単な料理をするくらいのスキルはあるぞ。
「別にいいよ。私……お茶淹れるの好きだから」
微笑んだ雪奈が、せっせとお盆を手に取る。そのまま彼女は「じゃあ、十分くらい席外すね」と言って部屋から出ていった。
「……さて、これで邪魔者はいなくなりました」
雪奈が部屋から出ていくと同時、夏鈴の不穏な声が部屋に木霊した。これまでの経験から身の危険を感じ、疑問の声を上げながら腰を上げようとする。
だが、今回は準備を整えていた夏鈴の方が早い。半端に立ち上がりかけていた俺は、夏鈴に体勢を崩されて押し倒された。仰向けに倒れた俺の上に、夏鈴が跨る。
「夏鈴、これはどういうつもりだ?」
心の中は今の状況に焦りまくりだが、表面上は努めて冷静に夏鈴に応じる。ここで取り乱したら、夏鈴の思うつぼだからな。
けれど、マウントポジションを取ってしたり顔の夏鈴は、アイドルのように輝く笑顔を俺に向けてきた。
「いえ、ここまでお姉ちゃんに水を開けられっぱなしだったので、ここらでわたしも一気にスパートかけてみようかなと思いまして」
「言っている意味がよくわからんが、聞くだけ無駄っぽいから、それはいい。で、具体的に、どうするつもりだ?」
「そうですね……。とりあえず、キスでもしてみましょうか」
言うが早いか、夏鈴は「えい!」と倒れ込むような勢いで、俺に向かって顔を近付けてきた。風に巻かれて柑橘系の甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
だが、タッチの差で俺の手が間に合い、夏鈴の口を塞いだ。
今のはヤバかった。一瞬でも判断が遅れていたら、ガチでキスされていた。