3. 行ってきます
4月2日午前6時半。ルヴィリアとイテナが住む家のダイニングには心地の良い朝食の香りが漂っていた。焼きたての食パンの香ばしくも甘い食欲をそそる香り、黄身が突いたら溢れそうな目玉焼き、ソーセージはイテナのこだわりでいつも高いものを使われている。朝食のプレートの脇にはいつも通り紅茶が添えられていた。
「ルヴィリア、早くしないと遅刻するぞ?」
「わかってる」
「今日から寮生活ということは、こうして食事をとることもなくなるんだな」
イテナはいつもの不敵な笑みで、急いで朝食を食べるルヴィリアを見つめる。ルヴィリアは急いでいるため、そんな笑みには気が付いていない。
「というか、もっと早く起きるつもりだったんだけど」
食パンを頬張りながら、イテナを不満げな目で見つめる。
「貴様はイレギュラーだからな、昨晩は確認事項が多くて大変だった。飲み込みは早かったが」
「そういう事項はもっと早く教えてくれ……」
「朝は優しさで起こしてやったがうなされている様だったからな、なかなか起きなかった。どれほど悪い夢だったんだか」
「……」
◇
「おかあさん、どこにいくの?」
これは俺の5歳の記憶、忙しくてなかなか家にいられないという母が、いつもよりも深刻な顔をして身支度をしていたことを覚えている。その表情に、幼いながらに一抹の不安を感じた俺は、どうしても声を掛けずにはいられなかった。
「ルヴィリアはいい子ね。大丈夫、すぐ帰ってくるわ」
登録魔術師の証ともいえるマントを慣れた手つきで装着していく。だけれどその手はわずかに震えていて、少しだけ、金具がずれた音がした。
「おかあさん」
「大丈夫、大丈夫よ。ルヴィリアはイテナさんと離れないでね、貴方のことは彼女が守ってくれるわ」
優しく俺を包んだその腕は暖かく、母の優しい匂いが記憶に残っている。爽やかな石鹸の匂いに優しく控えめな花のような香りが混じった心地の良い香り。そして、小さくごめんねと聞こえたような気がした。
母は立ち上がると、扉を開けて少しだけ振り返り、「行ってきます」と優しい笑顔で俺に挨拶をした。扉が閉まった後、俺は「行かないで」と、本人に言うわけにいかなかった言葉を零した。
◇
「ルヴィリア、急げ」
ルヴィリアはイテナの声ではっと我に返った。
「悪い、ぼーっとしてたか?」
「不安なのはわかるがその調子ではな……やはり、再度確認を─」
「いいから! いいです! 大丈夫!」
「そうか」
ルヴィリアは残った朝食を急いで食べながら、「また時間がなくなっちまう……」と呟いた。
「無闇に人を頼らないあたりは感心できるな」
「なんか言ったか?」
「いや? そろそろ出ないと電車に間に合わないぞ。そうだ、寮の部屋にとっておきのプレゼントを用意した。楽しみにしておけ」
「はいはい」
ルヴィリアは、どうせ大したものじゃないんだろ……と呟きつつ、紅茶を飲み終え、食器を片し始めた。すると、イテナがさっと、ルヴィリアの手から食器を奪い「さっさと部屋から荷物を取ってこい」と促した。
イテナが食器を流しに置いて、自分用の紅茶をカップに注いだところでルヴィリアが自室から戻ってきた。生活に必要な荷物は既に学校に届けているため、お金等の貴重品をしまった制服のウエストポーチを着用してきただけである。魔法学校は伝統的な制服であるとして、どうにも日本の学生服からは浮いた、まるで映画に出てくるちょっと立派な海賊のような服装である。これにマントを着けて歩くと、街中ではたちまち注目の的になる。
「マントを着けてやる」
イテナがそう言うと、ダイニングの椅子にあらかじめ掛けておいたマントを取り、ふわりとルヴィリアに羽織わせた。黒色の一般魔術学生用の腰までのマントを左肩の部分に金具で固定させ、くいっと位置を調整した。
「それらしくなったな」
「学校で本物になるだろ」
「あぁ、楽しみにしてるさ」
二人で玄関に向かう。ルヴィリアは靴─ふくらはぎの辺りまであるブーツ─を履き、扉を開けて少しだけ振り返り
「行ってきます」
と言って家を出た。イテナは扉が閉まりきるまで見つめた後、扉が閉まった音を合図にするように「私も仕事の時間だな」と呟いた。
◇
ルヴィリアが駅に着くと、所謂通勤通学ラッシュの時間だったようで、改札はせわしなく人が行き来していた。人々は急いでいながらも、ルヴィリアのその服装に驚いたような表情をしたり、嫌悪感を示したり、はたまた学生くらい年齢の人には憧れのような目線を向けられたりした。
戦争の頃、この辺りは昼夜を問わず、魔術師同士の争いが続いていた。故に魔術師嫌いや、嫌いではないが関わりたくないという人間が多い。若い世代にとっては、なれるものならなってみたいという憧れの対象で、昨今魔術師を題材とした小説や漫画がブームになっている。このことにワイドショーでは教育に悪い、子供を魔術師に関わらせたくないなどという意見も飛び交っていた。
ルヴィリアは、「第一魔術統合教育機関 千代門前」─第一魔術統合教育機関というのが魔術学校の正式名称─までの切符を買い、改札を通る。これまで、電車に乗るほどの外出をしたことが無かったため、少々手間取りつつも、イテナの懇切丁寧な説明─電車の歴史など、乗るだけなら不要な情報入り─を思い出して無事にホームにたどり着いた。
魔術学校行きについてはほぼ始発駅らしく、何事もなく着席することが出来た。学校までは5駅分。ルヴィリアは初めての電車ということで、物珍しさから周囲を見回した。しかし、物珍しいというのは他の乗客から見たルヴィリアも同じで、扉がしまってから少しすると、全員隣の車両に移ってしまった。
「魔術師嫌いも相当だな……一部は周囲に合わせたんだろうが……」
1人になった車両で向かいの窓から見える景色を眺めていた。電車から見える景色というのは、普段の街並みとは違って見える。千代は比較的発展した土地で、中心部は賑わっているが、ルヴィリアが住んでいたあたりほぼ住宅地で、いつも賑わっているのはルヴィリアが魔術師になったショッピングセンターくらいである。
1駅、2駅と通過したあたりで、ルヴィリアは隣に同じ制服の少女がいることに気がついた。ルヴィリアは駅を通過した後に突然現れたその気配に驚きつつも、同じ学校の学生に失礼を働くわけにもと考え、何事もなかったかのように座っていた。
ミルクティーベージュの肩につかないくらいのボブヘアーで、癖毛なのか両サイドの一束ずつが少し長めで内巻きになっている。小柄な少女はそっとルヴィリアの方を向く。
「同じ魔術学校の学生に会えて安心しました。今日学校に向かっているということは同じ1年生でしょうか?」
「はい、そうです。こちらこそ、1人で不安だったので安心しました」
「ふふ、それなら敬語じゃなくていいですよ」
「そうだな」
優しくゆったりとした話し方でありながら、どこか強気な部分を伺わせる声の少女は、その緑色の瞳にルヴィリアを映していた。
「あ、お名前は何というのですか? よければお友達になりませんか?」
「俺はルヴィリア・シーグレンだ」
「ルヴィリア・シーグレン……シーグレンですか、聞いたことのない家の名前ですね」
その指摘にルヴィリアは内心焦ったが、そういったときの対応も教えられていたため、平静を装ったまま答えた。
「父親の家系が魔術師だったらしく、先祖返り的に魔術師になったんだ。だからあまり魔術は使えなくて─」
「そうなのですね! 実は私も同じく先祖返り的に魔術師になっていて……、あ、えーと、名前はマリ・グロウフォールといいます。名誉なことに私の先祖、グロウフォールの奇跡マリ・グロウフォールと同じ名前なのです」
「そ、そうなんだ」
先程までと同一人物とは思えない勢いのある喋りに、ルヴィリアは気圧されて、あっさりとした反応を返すにとどまった。マリはどうやらそれが不満らしく、少しだけ頬を膨らませた後、はっと我に返り、恥ずかしそうに口を手で覆った。
「ごめんなさい、つい……」
「大丈夫、気にしないで。マリもこの辺り出身?」
「いえ、父の仕事の都合で戦争の後にこっちに越して来たのです。ルヴィリアさんは?」
「言いにくいだろうからルヴィでいいよ。俺は戦争の前から。まぁ、戦争のことも幼かったからよく覚えてないけど」
互いの身の上話に花を咲かせているうちに『次は第一魔術統合教育機関 千代門前、第一魔術統合教育機関 千代門前でございます』というアナウンスが入った。駅に到着し、扉が開く。誰もいない車両を見渡した後、2人は電車を降りた。この駅は魔術学校とその周辺に整備された魔術実験地区─生活と魔術の融合の為に日々様々な技術の試験をしている地区。ちょっとした商店街もある上、一般人が魔術を体験出来る場所でもあるため、観光客も多いが、10時を過ぎないと開店しない─用のため朝は人がほぼ人が降りず、現に2人以外は降りていない。2人は人のいないホームから、改札へ向かった。