1. 血を、痛みを力と変える
3月下旬、昼下がりの緩やかな空気に包まれた街を1人の少年が歩いている。街路樹は柔らかに揺れ、花壇には鮮やかな花々が覗く。黒い髪に青い瞳の少年は、右手に握ったおつかいのメモを不機嫌そうに見つめていた。
「こんな内容なら近くのスーパーで良かったはずなのに……なんで離れたショッピングセンターを指定したんだか。全く、イテナの考えていることはよくわかんないな」
誰に言うでもない不満を小さく呟きながら、ショッピングセンターに足を踏み入れた。1階のアパレルショップにはパステルカラーの洋服が並んでおり、人間の営みも春の訪れを告げている。平日だというのに店内を様々な年代の人々が楽しげに、笑いながら歩いていた。
「そうか、春休みか」
少年はアパレルショップの並びを抜けた先のスーパーまでまっすぐと歩き続ける。子供向けのイベントが開催されているらしく、子供たちはみんな同じ風船を持っていた。時々ぶつかりそうになるそれを軽くよけながら、少年は風船に書かれた文字に目をやった。「魔法使い☆ラッキーキャッツ」とポップなロゴが書かれている。
「最近はこういうのが流行りなのか……魔法使い、ね」
10年前、この世界では戦争があった。魔術師同士の戦争。初めは小さな衝突だったが、やがて人間の居住区でまで争い始め、人間たちはこの戦争に「魔術師戦争」という名前を付けた。それまで魔術師は人間から隠れて暮らしていたが、世間の注目が集まり、どうにもごまかしきれなくなったため、魔術師は人間社会のなかに魔術師のルールを敷いた。
とはいえ、基本的に魔術師と人間がかかわることはなく、日本では戦争後も今までと同じ生活が繰り返されている。ここ、魔術接続都市千代を除いて。
「戦争で一番被害にあって、魔術師嫌いも多いここですら流行っているとは相当……」
少年が興味深そうにイベントのキャラクターを見つめていると、スーパーの方から女性の悲鳴がした。悲鳴が響くと、賑やかだった店内には瞬く間に緊張感が満ち、次第にざわめき始める。人々はスーパーマーケットへと視線を向け、その動向を確認していた。
悲鳴のしたスーパーマーケットから大勢の人間が出口へ向かって駆け出した。買い物客らは自らの買った商品を落としても振り向くことなく走り続けている。異様な光景に次第に周辺の店舗の買い物客も走り出していた。少年はゆっくりと近づきながら進行方向を注視する。すると人と人の隙間から僅かに赤い光を見た。
「まさか、魔術……?」
少年が逃げることなく、その場でスーパーの方を見つめていると、正義感の強そうな中年男性が、幼い娘を抱えて走りながら注意喚起をしていることに気が付いた。
「逃げろ‼ 未登録魔術師だ‼ 早く逃げるんだ‼」
声を聞いた人々─店員や、会計中の客、食事中の親子たち─が次々と逃げ出す。しかし、通路はエスカレーターが邪魔をして、それほどの人数が一斉に走れるほどの道幅がない。少年のところまで人々が引いた頃には出入り口に人々が集中して出られなくなっていた。
その頃には少年の場所から未登録魔術師の姿を見えるようになっていた。中肉中背の男性で、手には魔術で模られた赤いナイフが握られている。魔術師の足元には3人の人間が血を流して倒れていた。魔術師、もとい犯罪者と少年の間隔は約50メートル。間にはスーパーマーケットの買い物客が集中した出入り口がある。
「早く進んでよ‼」
「パパの手を離すなよ」
「警備員は⁉ 警備員は居ないの⁉」
「人間じゃ魔術師には……!」
死ぬかもしれないという恐怖から、人々は各々の切実な願いを口にしている。助かりたいという願い。助けてほしいという願い。逃げたい。生きたい。死にたくない。
だが、その願いを犯罪者が聞くことなどない。男は逃げ遅れて必死に走っている少女に狙いを定め、一直線に駆ける。背後から近づく気配に驚いた少女は転び、ただその姿に恐れおののき涙している。
「いやぁ……」
男がナイフを振り下ろした瞬間、少女は目をつむる。しかし、少女の身体をナイフが貫くことはなかった。少女が目を開けるとそこには少年の背中があった。少年から零れた血が、少女の淡い黄色の服に赤いシミを作っている。
少年が痛みに顔を歪めながらも犯人の顔を確認した瞬間、周囲のざわめきが静寂に変わる。
「正義感か? それとも使命感か? まあどちらでも良いか」
静寂を切り裂くように、女性の声にしてはやや低い声が響く。何者にも邪魔されることなく、どこか冷たい女性の声が少年の耳に届いた。少年はその見覚えのある姿に驚きながら、自分にナイフが刺さっていることなど忘れたかのように目を丸くした。
「イテナ!?」
「奇遇だな、ルヴィリア」
女性にしては背が高めで、黒い薄手のコートを身に着けた白い髪の女性。緩やかに垂らした前髪で左目を隠し、後ろで1つに束ねている。金色の瞳にルヴィリアを捉えながらイテナはコツコツと足音を響かせてルヴィリアに近づいた。
先程までの人々の悲鳴も、足音も聞こえず、少女の涙は頬で止まり、ナイフの男はびくともしない。そして少年の身体には痛みがなく、少女の服に落ちる途中の血も空中で止まっている。普通に生きていれば絶対にあり得ない状況にルヴィリアは、イテナに向けてゆっくりと口を開く。
「イテナ、まさか」
「貴様も知っているだろう、私は魔術師だ」
「知ってはいたが、時を操るとは」
ルヴィリアは壁に設置されたアナログ時計の秒針を確かめる。何秒経とうが動くことはない。イテナは刺されたルヴィリアを見下ろしながら、やや微笑む。
「言ってなかったな。まぁ、今知ったのだからいいだろう」
「ここまでどうやって、それも魔術で─」
「あぁ、魔術だとも。もっとも、手段は徒歩だが」
イテナは「非常事態を知り、わざわざ時を止めて急いで来たんだ」と、肩のあたりでゆっくりと右手首を回しながら、左手を腰に当てている。
「時を……操れるんだよな……?」
「あぁ、過去現在未来、自由自在だ」
「なら、遡ってこいつを─」
ルヴィリアが男を指さしながらイテナに訴える。しかし、イテナはため息でそれに答えただけだった。
「悪いがそれは出来ない。それでは世の中のあらゆる悪事を私が解決せねばならん。私は、貴様の為にこうしているだけだ」
「っ……!」
「貴様が血を流すことが無いよう、何度も何度もこうしている。時を戻して、血を流さぬようにと行動を変えさせて……な。こうして時が止まった状態で話すのは初めてだが」
「なら何故今話しているんだ」
ルヴィリアが問うと、イテナはルヴィリアに近づき、ナイフを撫でながらこう言った。
「そろそろいい頃かと思ってな」
「それはどういう─」
「ルヴィリア、魔術師になりたいか?」
ルヴィリアはイテナの言葉に驚き、言葉を詰まらせながらも答える。
「! ……今更─」
「『今更何を言っているんだ。何度も何度も俺は言ったはずだ、魔術師になりたいと。だがお前は何も教えてくれなかった』」
ルヴィリアは言いかけた言葉がイテナの口から出てきたことに驚いて、口元に手を当てた。イテナは何事もなかったように続ける。
「それは悪かったと思っているが、物事にはタイミングというものがある。貴様もそろそろ16歳。魔術師であれば、魔術学校に入学する頃だ」
「まさか」
「ルヴィリア、魔術師になりたいか?」
「……あぁ」
ルヴィリアの答えに、イテナはフッと笑って続けた。
「ならばこのナイフを自らの手で抜け。その血を、痛みを力と変えるのだ」
そう言ってイテナがルヴィリアの顔の前で指を鳴らすと、ルヴィリアの前からイテナは消え、人々の悲鳴が戻ってきた。
ルヴィリアは、魔術師の男が自分の身体からナイフを抜こうとしたことに気が付き、咄嗟に男を突き飛ばす。
「俺が……!」
勢いよくルヴィリアがナイフを抜くと、流した血が胴の周りを廻り、刺し傷が塞がり、少女の服に付いた血はいつの間にか消えていた。奇妙な現象に魔術師の男も目を丸くして言葉を発する。
「お前、まさか魔術師!」
「えぇ、たった今生まれたばかりの赤ん坊ですけどね。よろしければ魔術を教えてくださると助かります、先輩?」
「生まれた……? そもそもそんな魔術見たことも聞いたこともない! 何者だ! このままじゃ目的が」
男は混乱しつつも、態勢を整える。ルヴィリアは隙に少女へ手を貸して立たせてあげる。
「ほら、早く逃げて」
少女はルヴィリアの声に頷き、よろめきながら逃げ出した。少女が逃げた先の出入り口からは「魔術師だ! 助けてくれる!」という安堵の声と同時に「あいつも未登録じゃないか……?」という不審がる声が聞こえる。
「で、どうすりゃいいんだ? イテナめ、教えてから立ち去れよ」
ルヴィリアは、左手で頭の後ろを掻いていると、右手に先程まで自分を刺していたナイフを握っていることに気が付き、「あっ」と声を漏らす。しかしそれも束の間、右手のナイフはさらさらと赤い砂になって消えた。
「あれ?」
ルヴィリアは不思議そうに手のひらを傾けて、地面に砂を落とす。不思議な赤い光を発しながら落ちていく砂は、逃げ惑う人々の間に見た光によく似ている。ルヴィリアの困惑した姿に男はハッと笑って、服のポケットから赤い砂の詰まった小瓶を取り出してみせる。そして逃げる人の間に見えたのと同じ赤い光を発しながらナイフを作り出した。
「本当になんも知らねぇみたいだな。……心配して損したかも知んねぇな」
男がナイフを構えてルヴィリアに襲い掛かる。ルヴィリアは避けようとしたが、どうやら男は魔術で動きを強化しているらしく、避けきれずに左の二の腕に刺さる。刺されたところから形容しがたい痛みが全身を巡る。
(っ──‼‼)
ルヴィリアが刺された痛みに顔を歪めた直後、男はナイフを抜こうとする。少年は、ナイフを抑え、痛みに耐えながら男を蹴り飛ばして、自らの手で抜く。またも、血は左腕を廻り、傷口は塞がる。抜き取ったナイフは瞬く間に砂に代わった。
「戦闘力がない代わりに即時回復ってわけか……? ハッ、まさかこっちの手持ちがなくなるまで痛みに耐え続けるつもりか?」
「まぁ、そうするしかないですよね」
ルヴィリアはナイフで刺された個所を見つめて小さく「嫌だけど」と呟いた。
「お前も大概狂ってやがるな!! いっそオレの仲間にならねぇか? そんな力じゃ魔術師協会の奴らに戦場でいいように使われるだけだぞ、死なない戦士としてな!」
「でも、貴方はそもそも何者なんですか?自分、流石に得体の知れない人に付いていくほど狂ってないんですが」
「魔術同盟……魔術師協会には反魔術師協会派なんて呼ばれてたか。魔術師協会のやり方に意義を唱えて離反した奴の集まりさ」
「なるほど……でも自分、特に不満ないんですよね。だって魔術師協会のこともよく知りませんし。ということでこの場は交渉決裂ですね。続けましょうか」
そういってルヴィリアが笑って男を見つめる。その頃には出入り口の混雑も解消されたようで、大方逃げ終えていた。
(あの男がいくつ持ってるか知らないけど、痛いの嫌だから早く協会の魔術師が来てくれねえかな……)
男はまたもやポケットから瓶を取り出す。しかし今度は1つではない。
「同じ痛みの繰り返しじゃお前も飽きるだろ!!」
男はありったけの瓶をルヴィリアと自分の間に投げつけて、砂をまき散らした。そして男は砂に触れて一言。
「抜けないように刺してやる」
直後、ルヴィリアの身体目掛けて地面から鋭い棒が生え、腕や足、胴を貫いていく。体のあちこちから発せられる痛みに、ルヴィリアは声にならない叫びを出す。
「痛いだろう? どうやら抜かないと発動しないみてぇだしな。……ったく、本当はもっと殺さなきゃいけなかったのに、とんだ邪魔が入ったぜ」
男が不満げに流れる血を見つめた後、立ち去ろうと出入り口の方へ歩き出す。
「なぁ」
ルヴィリアが痛みに耐えながら必死に出した声に、男は立ち止まり、ルヴィリアを見つめる。
「なんで殺すんだ? 魔術師協会に歯向かうのに、人間の死が必要なのか? 戦うべき相手は魔術師協会じゃないのか?」
男はルヴィリアのその問いかけに、ハハハハハハッと笑い、こう答えた。
「今はまだ勝てねぇからだ。それに、オレにとって人間の死は不要だが、それを欲しがる奴もうちにはいるんでね」
「不要なのに殺したのか」
「時々こうして協会の庭で暴れておかないと、オレなんて忘れられちまうからな」
その身勝手な理由にルヴィリアは耐えがたい怒りを覚えた。
(助けてと叫んだ命が、泣きながら怯えた命が、そんな言葉を理由に終わっていいわけがない)
ルヴィリアは体に刺さった棒を確認する。右腕、右足、左足、腹。流れ続ける血と、激しい痛み。棒は地面から生えていて抜くことは出来ない。
「質問はしまいか? ならオレはこれで─」
「待て‼」
「まだ何かあるっていうのか?」
(せめてこの棒が、どうにか、どうにか消せれば! だが、どうしたら消えるんだ? そもそも消せるのか? これは何でできているんだ?)
自由になっている左腕で腹部を貫く棒に触れる。冷たく、そして固い。
(これはまるで金属、いや鉄か?)
「なんだ?何もないのか?」
「なぁ、最期だと思って教えてくれよ。これって何で出来てるんだ?」
「最期、ねぇ……鉄だ。そういや魔術を教えてくれって言ってたな?オレの魔術は専用に調合した砂鉄を別な形に変える魔術なんだ。わかったか?小僧」
「えぇ。ありがとうございます、先輩」
ルヴィリアが痛みに耐えつつ、必死に笑顔を作るとその瞬間貫いていた棒が消えた。棒が消えた傷口はいつものように血が廻って塞がる。男は予測しえなかった事態に、声を荒らげてルヴィリアを見つめる。
「お前! 何を‼」
「さぁ、自分にもさっぱり。ものは試しですね」
と言いながら、ルヴィリアは自分の身体を見まわし、「帰ったらイテナを問いたださないとな」と呟いた。ルヴィリアも自分に起こった事態を把握しきれてはいないのだ。
男はポケットに手を突っ込み、ルヴィリアを見つめる。
「おや、出さないんですか?先輩。お得意の魔術、見せてくださいよ」
男はぎりぎりと歯を食いしばりながら、ルヴィリアを苦しそうに見つめた後、外に向かって走り出した。魔術で強化されたその動きは、到底ルヴィリアの追いつける速度ではなく、ルヴィリアは諦めて、ただその後姿を見つめていた。
「大変だったな、ルヴィリア」
聞き覚えのある女性の声。先程ルヴィリアが問いたださなければと決意した相手の声が、ルヴィリアの背後から発せられた。
「イテナ! お前‼」
「まあ待て、聞きたいことはいろいろあるだろうが帰ってからにしよう。買い物も済ませなければな、おつかいは失敗のようだし」
「帰るって……このままか?」
ルヴィリアは、あの未登録魔術師の男に殺されたと思われる人々を見つめながら問う。
「心配するな。もう外には魔術師協会の奴らが来ている。あの男ももうじき捕まるだろう」
「じゃあ、協会の人に事情説明を─」
「それは大変都合が悪い」
「それはどのくらい?」
「私たちも捕まるくらいにな」
「は!?」
イテナの発言に耳を疑い、ルヴィリアは反射的に大声を出した。
「声が大きい。早く逃げるぞ、私からの事情説明は家についてからだ」
こうしてルヴィリアの少し厄介な魔術師人生が始まった。