走馬灯 1
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不思議と、気持ちは穏やかだった。
自分の死期が近いことがあらかじめ分かっていて、そのための心の準備をする時間が余るほどある、死刑という死に方は、ある意味では幸せな死に方なのかもしれない。
なんてことを、冷静に考えることができるくらいには、落ち着いた気持ちで死刑台へと向かった。
その道中、今までの人生が走馬灯のように脳裏に浮かんできた。
私は伝統ある神社の一人息子として生まれた。
物心ついた頃から、私たち家族の生活の中心には神様が居た。
毎日神様に祈りを捧げる、お供え物をする、神様の居る場所は常に綺麗にしていないといけないので毎日丁寧に掃除する、そんな生活が、当時の私にとっての当たり前だった。
学校へ通うようになると、私の生活は、周りの友達のそれとは大きく異なっていることを知った。
また時には信仰をいじめのネタにされ、悩み苦しんだこともあったが、責任感が強かった私は、親の後を継ぐために信仰の道を進み続けることにした。
元来、好奇心も探求心も旺盛だった私は、学生時代はひたすら勉学に励み、ありとあらゆる知識を求めた。
そして大学は日本の最高学府である東京大学の文科3類から宗教学研究室へと進み、その後世界の最高学府ハーバード大学にて宗教学博士過程を修了した。
その過程で、神道以外の古今東西の宗教を研究した私は、それらの宗教の中に不思議な共通点があることを発見した。
そして、私はこんな宗教観を持つようになった。
全ての宗教の神は、実は同じなのではないか。
また、これだけ科学が発達しても、宇宙や生命が誕生した原理は証明できないことからも、この世界と人間を創造した神は、確かに存在すると考えられる。
しかし、そんな絶対的な神が、人間としてこの世に生まれ落ちてきたり、一個の人間だけに言葉を預けたりなんかするはずがない。
神とは、人類全体の動向こそ気にしてはいても、一個人の人生などにはさして興味のない傍観者であり、全人類が普遍的に持っている、普段は意識しない心の層である、心理学で言われるところの「普遍的無意識」にのみ干渉するような存在なのではないか。
そして、神は普遍的無意識に干渉しながら、人類たちをなんとなく導いているのであって、全ての宗教はそのなんとなくの産物であると考えた。
では、私たち人間の生とは無意味なのか。
ただ、神に虫かごに入れられて観察されるだけの為に生まれてきた存在なのか。
そんなことはないと私は思う。
人類に普遍的に与えられている、「善悪の価値観」。
それこそが、人間が神から与えられた唯一の道しるべであり、私たちの生きる目的を達成するための唯一の武器だ。
人間は誰しも、悪いことをすれば、大小の罪悪感が沸き起こり、自己嫌悪に陥る。
逆に、善いことをしていれば、自己を肯定することができ、前向きに生きることができる。
神はそうなるように人間を作ったのだ。
ならば、人間は善いことをして生きれば良い。
人を幸せにすることを考えて行動していれば、結果的に自分が幸せな気持ちで生きることができる。
そして、私はこんなドグマ(教義)を考えた。
「神は確かに存在する。しかし、神は私たちの力にはなってくれない。私たちの人生は、自分自身の手で切り拓いてゆかねばならない。人生を切り拓くには、善きことをすることだ。善きことをすれば、人を幸せにできる。そして自分自身も幸せな気持ちで過ごしていける。そんな精神が世界中に広がれば、この世界を平和にすることができる。それこそが、私たち人間の生まれてきた意味であり、存在する意義なのだ」
ハーバード大学を卒業してすぐ、私は日本で新宗教を創設した。
キリスト教に強く影響を受けていた私は、ラテン語で「真理」を意味する「Veritas」を、その宗教の名前にした。




