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第56話 温泉

<ぽちゃん>

 わたしは、温泉に入る。

 夜の海まで見られる最高の絶景である。

 王宮のお風呂も大きかったが、ここのはさらに大きい。

 もう最高の時間だった。

 

 そう、あの封筒がなかったら……。

 <カラン、カラン>

 王様も準備ができたらしい。

 さすがに、恥ずかしいから、わたしが先に入ると強固に主張して、王様には後から風呂に入ってもらうことになった。

 王様が入ってくる前に、体を洗い、タオルを体に巻く。

 タオルをつけたまま、入浴するのは、マナー違反。

 しかし、それは日本の話だ。

 ここは日本じゃない。

 アグリ国だ。

 だから、大丈夫。

 我ながら苦しい言い訳だったが、もうそれで押し通すことにした。

 この世界に来てから、少したくましくなった気がする。


「カツラギさん、失礼しますね」

 王様も露天風呂に入ってくる。大事な所は見えないように、お互いにタオルを巻いている。

 湯煙のせいで、お互いがよく見えない。

 なくても、恥ずかしくて直視できないが……。


「……」

「……」

 気まずい。今日何回目の気まずさだろうか……。

 わたしの黒歴史は量産体制に入った。

 もう、恥ずか死ぬかもしれない。


 顔が熱くなるのを感じる。

 たぶん、彼も一緒だろう。

 お風呂の熱さか恥ずかしさか。

 たぶん、どっちもだ。


「気持ちいい」

「本当ですね」

 なんだか、気持ち良すぎて溶けてしまいそうになる。

<ざざーん、ざざーん>

 海から波の音が聞こえてくる。

 この世界に、ふたりだけになってしまったかのような気分になる。

「最高のお風呂ですね」

「はい、わたしも大好きです」

 このまま、溶けてしまいたい。

 そうすれば、契約結婚とか異世界とかめんどくさいすべての制約から解放される。

 もうすべてを忘れて、素直になりたかった。

 でも、それは王様の過去を否定することになってしまう。

 それは駄目だ。

 本当の幸せなんて、それでは手にはいらないと思う。

 向こうの世界で、手にはいらなかったものをここでは手にいれたい。

 これは贅沢だ。

 そんなことはわかっている。

 でも、その贅沢が、わたしがここで生きている理由になってしまっているのだからしかたない。


 だから………………

 だから…………

 だから……


「月がきれいですね」

 わたしは彼に本心を伝える。

 今回はわたしからだ。

 彼には絶対にわからないように……

「ハイ、本当に」

 夜の海と月。露天風呂から見える絶景とわたしの本心。

 これがすべてだった。

 素直なわたしの気持ちだ。


「本当に月がきれいです」

 わたしは彼にもう一度本音をぶつけた。

 彼には絶対にわからない形で。

 “あなたが大好きです”という本音を。

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