森を出よう3
気を取り直したセレスティナ達が歩みを再開してしばらく。慣れない悪路に四苦八苦しながらもめげることなく歩を進めていたセレスティナが不意に立ち止まり、ある方向をじっと見つめた。健気な様子の主に内心和みながらも何くれとなく世話を焼いていた下僕二人も同じく足を止め、そろって視線の先を追いかける。
「セラ、どうかしましたか?」
立木の間隔は広くとも深い樹海の中、鬱蒼と生い茂る葉は日光を遮り昼なお暗く、お世辞にも視界がいいとは言えない。それでも見通す先にこれといった異常を認められなかったアレイアは、なにかしら異変を感じ取った様子の主に問いかけた。
「……今、『魂消る声』を感じました」
「人がいたというのですか? このような魔境の奥深くに?」
セレスティナの返事に心底意外そうな声を出すアレイアだが、主の言葉を疑う様子はなかった。セレスティナの言う『魂消る声』とは、死の直後に『まだ死にたくない』と強く思った魂が放つ一種の波動で、つまるところ死者となった魂魄の産声だ。当然のことながら生きた人間が死なない限り発生するものではない。
アレイアにはこの地が現在どのように呼ばれているかは知るよしもないが、それでも彼女達が生きていた時分より『魔境』と恐れられていたこと自体は知っていた。そして今もなおその呼称にふさわしい強力な魔物が跋扈していることも体感している。
一行が集落を離れて五日は過ぎているが、それでも未だに終わりを思わせないような深い場所に他の人間が入り込んでいたということは普通なら信じられないだろう。しかし、こと魂霊術と死者の魂に関することならセレスティナの言うことが絶対に正しいと知っているため、直前まで生きた人間がいたことを純粋に驚いたのだ。
「何も不思議ではあるまいて。このくらいの場所なら己の腕試しにもってこいであろうに」
「自分を基準に推し量らないでください、翁。普通ならこんな場所に踏み込むのは自殺行為なのですよ?」
「そのように言って、おぬしという実例がいるではないか、近衛殿。それにいつの世も命知らずに武を磨く者はいるもの。このような魔境程度を危険と避けては真なる強者とは言えぬぞ?」
「……」
飄々としたグウェンの物言いに返す言葉を無くして沈黙するアレイア。彼女はかつて使命を帯び、この樹海の深くで命を散らしたのである。それでなくとも当時も魔境がなにぞと言わんばかりの命知らずは一定数存在していたため、グウェンの言い分をまったく否定できなかったのだ。
「――喚んでみます」
そんな下僕達のやりとりを気にした様子もなく、セレスティナは短く宣言するとスッと目を閉じて集中し始めた。ごく自然に精神統一に入った主を見て、アレイアとグウェンも慣れた様子で見守る体制に入る。
そんな中でセレスティナがスッとそろえた両手の平を差し出す。その上にふわりと浮かび上がったのは、円と正三角形を重ねただけの単純な光の図形。魔導陣と呼ばれる、魔術の術式を安定・増幅させるために用いられる技法の中でも最も簡単な形のものだ。
「《未練を抱きて彷徨う者よ。命尽きし時の切なる願い、我はその叫び聞き届けし者なり。この声届かば来たりて、その想い我に伝え給え》――《魂魄招来》」
次いで唄うように紡がれた魔導言語に応じるように魔導陣の輝きが増し、発動句が唱えられた途端、手の平の上がゆらりと揺らめいてぼんやりと光る実体のない存在が現れた。この今にも消えてしまいそうなほど儚く不確かな光の塊こそ、魂霊術で呼び出され仮初めの姿を与えられた死者の魂そのものだ。
しかしこのままではふとした拍子に散りかねず、意思の疎通すらおぼつかない。だからこそ魂霊術師はまずこれを確かなものとする。
「《その想い強く、なれど声は儚き者よ。我が力一時の糧とし、抱きし思いの丈を語り給え》――《魂霊具現》」
続く呪文によりセレスティナの魔力が喚び出された魂に注がれ、不確かだった揺らめきが徐々にはっきりとした輝きを帯びていく。やがて本来なら現世に留まることのない存在は、術式に含まれる魂を補強し安定させる効果と相まってある種の精神生命体として確かな実体を得た。これが魂霊術の根幹にして魂霊術師が従えることのできる『魂霊』である。この魂霊を術者が指定した憑依体――仮初めの身体に結びつけることで下僕が完成するのだ。
本来ならばこのまま隷属させるための術を用いて終わりなのだが、心優しき異端の魂霊術師たるセレスティナは違った。
〈わたしの声が聞こえますでしょうか?〉
自身の手の平の上でゆらゆらと揺れ動く光に向かって『魂語り』でもって思考を届ける。これは一種の精神感応術で、自身が放つ魔力の波に思考を乗せて対象に伝える、極めて特殊な交信手段だ。本来なら伝達手段を持たない魂霊に対して術者の意志や命令を伝えるために編み出された魂霊術の秘技であり、この世界の精神生命体が他の個体と意思疎通するための手段に近い。これなくして魔法の成り立たない魂霊術師は、総じていわゆる霊感と呼ばれるものが著しく突出しているのだ。
〈――これ、は……?〉
〈あなたは少し前に、命を失われたようです〉
ぎこちない思念が返ってきたのを確かめたセレスティナは、まず端的に事実を提示した。すると魂霊は何かをこらえるかのように震えた後、ふっと力を抜くようにおとなしくなる。
〈――そう……か、おれ……は死――んだ、の、か……〉
〈何が原因であったのかはわたしにはわかりません。ですがお悔やみ申し上げます。そしてわたしはあなたの強い無念を感じとり、何か力になれることがあればとこうしてお喚びしました〉
〈無、念……そ、うだ――おれ、は、あいつ――ら、を……逃、がす――〉
セレスティナに呼びかけられた魂霊は、死に際に強く想ったことを思い出して不安定に揺らめいた。
魂霊術で呼び出される死者の魂は、必ず何かしら未練を持っている。それが本来なら自然の摂理に沿って冥界へ旅立つはずの魂をこの世界に縛り付けるのだ。
〈人を逃がす――誰かお知り合いの方がいらっしゃったのですか?〉
〈ああ……災害、級――急に……無、理だ……お、れが、囮――〉
「ふむ、察するに手に負えぬ魔物と運悪く遭遇し、彼は同輩を逃がすためにあえて囮となった、といったところでしょうな」
生前の魂霊に起こったことを懸命に把握しようと努めるセレスティナに、グウェンが横から助言した。下僕であるグウェンもアレイアも元は魂霊、当然魂語りの心得はあるためやりとりは把握できている。
〈同輩を……その人達は?〉
〈わから、ない――だが、あまり、時間は……稼げ、てない――〉
「セラ、どうやら彼の同輩は未だ命の危機に瀕しているようです」
「え……そ、それは大変なことではないでしょうか!?」
アレイアの言葉に大いに慌てるセレスティナ。彼女も魔境の奥地で生き抜いた者達の末裔。魂霊術で戦力を創り出すことができるとはいえ、巡り合わせ悪く一門の者が魔物に襲われて重傷を負うことはしばしばあった。その時に同輩を失うかもしれないと感じた恐怖を思い出して顔を青くし、けれど決意をその目に灯して魂霊に向き直る。
〈あなたの同輩は、あなたに代わりましてわたし達がお助けします。どうかわたしと縁を結び、見届けてくれませんでしょうか?〉
〈助け……わかっ、た〉
承諾の意志を聞いたセレスティナはその小さな口で呪文を紡ぎ上げる。
「《我が魂は幽玄の者と在り。此岸の身は彷徨う者のため、彼岸の魂は共に歩むため。やがて朽ち逝くその日まで、共に》――《魂霊従属》」
発動句が唱えられると同時、セレスティナから魂霊にさらなる魔力が流れこみ、すぐにそれは両者を結びつける。目には見えずとも確かな繋がりを感じさせる絆が構築されたのだ。
――これこそが他の魂霊術師と違い、彼女が異端である理由。性根の優しい彼女は魂霊に対して一方的な隷属を強いるのではなく、魂霊を作り出すと必ずその魂が持っている未練を聞き、自分にできる限りのことをすると誓う。そしてその対価に自分との絆を持ってくれるようにお願いするのだ。
そして同意した相手に対して隷属させるための術を使うのだが、それも彼女がより自分の好みに使えるように改変しまくったため、かろうじて原形はとどめているものの本来の術式とは似ても似つかないようなものになってしまっていた。そしてそれは実のところ、《魂霊従属》だけでなく《魂魄招来》や《魂霊具現》の術式にも言える。
そのため様々な影響を受け、彼女と契約した魂霊は全員が常とは違う特性を与えられているのである。
「――アレイア、お願いできますか?」
「それが私の役目ですから」
名前を呼ばれたアレイアは全て心得ているといった様子で新たな下僕となった魂霊に仮面で覆われた顔を近づけた。そして魂霊が仮面に触れた途端、まるで吸い込まれるように揺れる光が仮面に沈んで姿を消す。
「……どうやら、彼が死んだのはあちらのようですね」
「わかりました。グウェン」
「では、先に行かせていただきますかな。近衛殿、こちらを頼むぞ」
つかの間黙り込んだアレイアが指し示す先を見て、グウェンが担いでいた背嚢を降ろすと悠々と駆け出した。ごく自然な動きでありながら驚異的な速度で遠ざかるグウェンを見送るセレスティナを、こちらは残された背嚢を自らの荷物に加えたアレイアが膝裏と背中に手を回してヒョイと抱え上げる。いわゆる『姫抱き』の体勢だ。
「ではセラ、少し急ぎますのでしっかり掴まっていてください」
「はい、よろしくお願いします」
その言葉に素直に頷いたセレスティナは慣れた様子で身体を縮めてしっかりと身を寄せた。そしてそれを確かめたアレイアは大荷物をものともせず、先行したグウェンに及ばずとも非常識な速度で森を走った。
* * * * * * *
そして現在、あわやという所で危地を救いはしたものの、それまでに青年達が受けた傷はどう見てもその命を脅かすほど深刻なものだった。
「《魔の波動よ。かの身が受けし傷跡、余すことなくつまびらかに》――《損傷精査》」
呪文の発動句が唱えられると、セレスティナのかざした手の平から波動のように広がった魔力が青年の身体に染み渡り、術者であるセレスティナに傷の状態を詳細に伝えてくる。
『――アレイア、使うことのできるお肉をください!』
『グウェン、そこにちょうどいいのがありますね』
『少々お待ちを――これでよろしいかな、姫様』
セレスティナの要請に女の止血作業をしながらアレイアが倒れ伏す影皇豹を示し、意図を酌み取ったグウェンが死骸の一部を切り取ると、その肉片をうやうやしく差し出した。
『ありがとうございます』「《骸となりし者よ。その身はあまねく糧となりて、今に在りし者の支えとならん》――《屍肉還元》」
未だ暖かい血の滴る生々しい肉片をなんの躊躇いもなく受け取ったセレスティナは、その手に簡易の魔導陣を浮かび上がらせると呪文を紡いだ。すると肉片はまるで解けるように崩れていき、赤黒い不気味な液状となってその手の上に浮かんで球体を作り出す。
「《糧となりし者よ。我が魔の導きに従いて、新たな息吹と共に歩むことを喜び給え》――《損傷修復》」
片手の上で保持したその球体にもう一方の手をかざしたセレスティナが呪文を唱えれば、その一部が触手のように伸び上がり、彼女の手の動きに合わせて導かれるように青年の傷へと伸びる。
ここまで呆然と成り行きを見守るしかなかった青年だが、さすがに不気味な球体から伸びる触手のようなものが自分に向けられると焦りを浮かべる。だが致命傷を負った彼の身体は思うように動かすことなどできず、為す術なく触れた赤黒い触手が傷口を埋めるかのように広がった。
次の瞬間、赤黒い液が熱を持ち、傷みとは違う奇妙な違和感が患部を駆けめぐった。
「――っ!? ぁぐっ!」
青年は声にならない苦鳴を上げるが、セレスティナはそれを意に介した様子もなく魔法の行使を続ける。
『――これで大丈夫です』
少ししてセレスティナはかざしていた手を離した。合わせるように違和感がひいた青年はおそるおそると言った様子で受けた傷を見下ろす。
そこにあったのは傷一つない肌。つい先ほどまで身体を苛んでいた激痛も気づけば消えており、まるで致命傷など最初から存在しなかったかのようだ。しかし、現に装備は服ごと切り裂かれ、流れ出た血の後も残っている。それによく見れば重傷だった部分の肌色がほんの少し他と違うことがわかるが、違和感はそれくらいだ。
自分の目が信じられないように傷のあった場所に触れる青年。それに構わず立ち上がったセレスティナは、少し嵩の減った赤黒い球体を保持しながらアレイアが処置を施している女に駆け寄る。
『……腕がありませんね』
『おそらくその魔物の仕業でしょう。少し血を流しすぎていますので、急いだ方がいいでしょう。翁、その辺りに斬り飛ばされた腕はありませんか?』
『それならばおそらくこれでしょうな。どうぞよしなに』
アレイアの言葉を受け、グウェンが影皇豹に斬り飛ばされた女の腕をヒョイと拾い上げると丁重に差し出す。
「《糧となりし者よ。我が魔の導きに従いて、新たな息吹と共に歩むことを喜び給え》――《損傷修復》」
それをアレイアが受け取り、元の位置にあてがうのを確かめたセレスティナが顔色一つ変えずに呪文を唱えると、再び赤黒い球体から一部を伸ばして継ぎ目を埋めていった。そしてほどなく、彼女がその場をのいた後には女の腕は元通りに繋がっていた。