8.食欲の秋
夏が終わって、秋になった。
オレはカピンチョとサクラの木の根元で、暮らすようになった。一泊、もう一泊と重ねるうち、なんだかこのままここで住んでもいいような気がしてきたのだ。もうばあさんもいないし、他に行くあてもなかった。そして、なによりこの場所はとても居心地がいい。
そのことをカピンチョに告げると、カピンチョは目を大きく見開いて、鼻をフゴフゴ鳴らしてよろこんだ。
オレの日常が、ばあさんの家から、サクラの木へと移った。
朝、サクラの木がゆっくりと動きはじめると、オレはサクラの木からのそりと這い出て、大声をあげて応援するカピンチョをぼんやりとながめながら、背をググッと伸ばし、毛づくろいをする。
サクラの木は毎朝休むことなく、地中から根っこをひっぱりだして歩こうとしていた。海やそのはるかかなたを見るために、サクラの木はぐぐっと背を伸ばし、精一杯体をゆらして、もがいていた。
やがてサクラの木が動きをとめると、オレはカピンチョと共に、地面にできた亀裂を踏みかためる。それが終わると、ふたりで湖へと向かった。カピンチョと最初に出会った、あの三日月型の湖だ。
湖は朝日を受けて、静かにゆらいでいた。透き通った水面の底で、水草がゆれているのが見える。
「さてと、今日こそは」
オレは水面に映った自分の顔をひとなめすると、水面にちゃぷりと前足をつけて、そのまま湖の中へと入っていく。足がつかなくなると、水中に体を投げ出して、手足をゆっくりと動かしていく。
エメラルドグリーン一色の世界で、オレは体重を失い、上や下にどこまでも広がっている無限の世界に沈んでいった。
最初のころは、体を水につけるだけでも精一杯だった。それが、まだぎこちない動きではあるけど、いつのまにかこんなに自由に、水中を泳げるようにはなった。もうバランスを失って手足を無駄に動かしたり、息つぎに失敗して、水をたらふく飲むということもなくなった。
オレは体をくるっと回転させると、浮力に逆らいながら、さらにゆっくりと沈んでいく。水はかくものではなく、身にまとうものなのだ。
そっと目をあけると、ぼやけた視界にうっすらとした白い光が映る。その光を受けて、水中に沈んだ倒木の隅がキラリと光った。オレはその光めがけて、水草をかきわけながらゆっくりと進んでいく。右足の痛みはもうほとんどない。むしろ水中ではよく動く。オレが近づいていくと、その魚はスルスルと離れていった。
やれやれ、また失敗か。
オレは水上に顔を出すと、大きく息を吸った。
「ずいぶんとうまくなったね、モリオさん」
カピンチョはオレの横を悠然と、まるでヨットのように泳いでいく。陸の上ではあんなにどんくさそうに歩くカピンチョが、湖の上ではまるで別の生き物のように軽々と動き回っている。
「ああ、でも、まだまだだな」
オレはカピンチョを横目で見ると、めいいっぱい息を吸って、もう一度水中にもぐった。
再び湖の底がキラリと光る。体をくるくると回転させながら、それに向かって沈んでいく。
今度は逃がさないぞ。
注意深く手足を動かしながら、そろりそろりと距離を縮めていく。そいつが逃げる方向を見極めて、そのコースをふさがないギリギリの距離に、前足を伸ばした。次の瞬間、そいつは身をくねらせて、オレが予想した方向へと逃げた。オレはすばやく前足を動かし、そいつの体めがけて爪を突き立てた。
前足に確かな重みを感じた。そいつは体をくねらせて激しく抵抗する。オレは逃がさないように、しっかりと両方の爪を食い込ませ、慎重に陸の上まで運んだ。
「やった! やったぞ!」
オレはそいつを地面の上に落すと、体をブルルっとふるわせて、体についた水滴を飛ばした。オレのしっぽくらいのサイズの魚が、地面の上をべったんべったんと元気よく動きまわっている。
「おめでとう、モリオさん!」
カピンチョが水草の束を口にくわえながら、湖から這い出てきた。カピンチョも体をふって水滴を飛ばす。
「これでようやく食欲の秋を満喫できそうだ」
オレはその魚をくわえると、得意げにヒゲをふるわせた。
夕焼け色の葉をつけたサクラの木の枝に登ると、いつもの場所でごろんと横になった。下から三番目の枝の根本にちょういい具合のくぼみがあって、それがオレの体にぴったりと当てはまるのだ。まさにオレのために用意された、昼寝用の特等席だ。しかもカピンチョは木にのぼれないので、あいつのくだらない会話につきあうこともない。オレは飯を食うと、いつもここで昼寝をすることにしている。
秋の少しひんやりとした風がオレの体を通り抜けた。うまい飯が食えた日は、風が気持ちいい。木の下では、カピンチョも日なたに体を投げ出して、気持よさそうに目を閉じていた。リーリー、と森の虫たちの鳴き声が、静かに聞こえてくる。
こうして、桜の木の上でのんびりしていると、ばあさんの家にいた頃が、はるか大昔にあったことみたいに思えてくる。ばあさんと過ごした長い長い時間はゆっくりと引きのばされて、徐々に記憶があいまいに、不鮮明になっていく。
オレはごろりと寝がえりを打って、目を閉じた。オレの体は、ばあさんのぬくもりを忘れようとしているし、オレの頭や耳は、ばあさんの顔や姿や声も忘れようとしている。
事故でなくなったばあさんの息子の名前をさずけられ、本当の息子のように可愛がってくれたばあさん。ばあさんは、オレを愛していくれたし、オレもばあさんをとても大切に思っていた。
そんなばあさんが、オレの中から少しずついなくなっていくのに、不思議と悲しくはなかった。これは必要なことなのだと、これは必然なのだと、オレの頭はそう認識しているようだった。でも、その悲しくはないという事実に対して、オレは悲しさを覚える。
「なんだか、自分の気持ちがよくわからん」
オレは独りそうつぶやいて、ぐぐっと背を伸ばした。
「なあ、サクラの木、大切な人を忘れていくって悲しいよな」
サクラの木は、シャラシャラと葉をゆらした。
サクラの木が、何か言ってくれているのはわかるけれど、その内容まではわからない。
ここにきてもうすぐ三ヶ月経つけれど、相変わらずオレは、サクラの木と会話をすることができない。いつもはカピンチョが通訳してくれるのだけれど、こんなことカピンチョには知られたくなかった。
「あー、ばあさん、天国で元気にやってるかなぁ」
秋の空は、どこまでも穏やかで青かった。薄い雲がゆっくりと流れていく。
日が沈みはじめると、虫たちの鳴き声が活発になっていく。オレは結局、昼寝をしそこねたまま、サクラの木から地面へと降りた。
「おはよう、モリオさん。秋はやっぱり気持いいねぇ。サクラの木が大きなおイモになった夢をみちゃった」
カピンチョはそう言うと、「ふああ……」と大きな口をあけて、あくびをした。
「さあて、腹も減ったし、湖で夕飯とってくるかな」
オレがそう言うと、カピンチョはこくりとうなずいた。
「うん、じゃあボクは木の実を探してくるね」
オレはサクラの木の下でカピンチョと別れて、再び湖へと向かった。
さっきより少し冷たくなった水中で、オレは身をくねらせながら、一心不乱に魚を追いかけた。オレには水かきもエラも尾ビレもないから、どうしても魚たちより遅い。だから知恵を使って、捕まえなくてはならない。
魚の動きをじっくりと観察して、その行き先を見定めると、後ろ足を蹴って、深く潜っていく。
一時間ほど湖を泳ぎ回って、ようやく本日の夕飯を仕留めることができた。
オレは湖からあがると、魚を地面に投げ出し、体をブルブルっとふった。その細長い魚は、地面の上をビチビチとはねまわっている
あたりはもう、うす暗くなりはじめている。虫たちの声がさわがしい。
「さてと、帰るか」
細長い魚を口にくわえて、足を踏み出したときだった。
ふいに目の前の草むらから、ぬっと現れたそいつを見て、オレは魚をぽとりと落した。魚はジタバタと体をくねらせると、湖へ舞い戻っていく。しかし、そんなことにかまっている場合ではなかった。
そいつは大きな図体とは対照的な小さな瞳で、オレをじっと見ていた。鼻がしっとりとぬれて、黒光りしている。
オレは何度かこいつを見たことがある。もちろんテレビの中の話だが、実際に遭遇してみると、想像以上のでかさと迫力で、オレの心臓はバクバクと高鳴りはじめた。
そして、こいつに出会ったときの対処法も、テレビで見た。
オレはゆっくりと草むらに倒れこむと、そっと息を止めて、ぎゅっと目を閉じた。