3.飼い猫はしょせん飼い猫
「ところで、お前はいつからここに住み着いてるんだ?」
オレがそう聞くと、カピンチョは首をかしげながら答えた。
「えーっと、もうずっと昔からだよ。ボクが小さいころから」
「カピバラってネズミと同類なんだろ? ネズミって群れで暮らすけど、カピバラはそうじゃないのか?」
「小さいころはボクにも家族がいたんだけどね、でもすぐにひとりになっちゃった」
「なんでだ?」
「なんだかよくわからないんだけど、お父さんがね、「おまえは俺の子にふさわしくない」って言って急にボクにかみついたり、ひっかいたりするようになって。それで「このままだと親父に殺されちゃうから、別の場所で生きていけ」ってお兄さんに言われて、逃げ出してきたの」
カピンチョはオレを見ながら、左の耳をぱたぱたとふるわせた。
「なんでボクはお父さんの子に、ふさわしくなかったのかなぁ?」
カピンチョは本当にわからない、という風に首をひねった。
そういえば、最初に会ったときから、カピンチョの右耳は根元からきれいにちぎれていた。ひょっとしたら、その父親にかみちぎられたのかもしない。オレはなんとも言えない気分になって、カピンチョのちぎれた耳から目をそらす。また首のあたりがむずかゆくなった。
「でも、おかげでサクラの木とも会えたし、モリオさんとも」
カピンチョは、デヘヘッと笑いながらうつむいた。
のんきそうに見えて、こいつはこいつで苦労してるんだな。オレはなんだかやりきれない気分になって、「そうか」とクールに返しながら、自分の前足をぺろぺろとなめた。
「あ、そうそう、モリオさん、お腹は空いてない?」
「空いてる。すごく空いている」
そうだ、今の今まで忘れていたが、オレは猛烈にお腹が空いていたのだ。なんせこの数日間、ロクな飯にありつけていない。そのことを思い出したとたん、オレの腹は、ぎゅるるる、とうなり声をあげて、猛烈に食べ物を求めだした。
「おい、なんかうまいもの食いに行こう」
「うん。この近くの茂みにおいしい草があるから、そこに行こう!」
カピンチョはそう言うなり、さっとまわれ右をして、歩きだそうとした。
「おいまて、ネコは草など食わん」
オレはカピンチョの肩に、ぐいっと前足をかけてとめた。
「じゃあ、何がいい? 木の実? 海藻?」
「えーっと、まあ牛のしぐれ煮とか食べたい気分だけど、そんなものあるわけないよな」
「なにそれ?」
「じゃあ、新鮮な魚がいいな。できれば、さっと湯どうしをしたタイとか、あとはシイラなんかも、今の時期が最高だ。軽くあぶると、身がホクホクしてまたうまいんだ」
オレの口の中に、唾がじゅわっと湧いてきた。ああ、早く腹いっぱいうまい飯をほおばりたい。
「うーん、そういえばネコさんて、お魚とか好きなんだよね? でも、お魚ってどこにあるのかわからないなぁ」
「まあこの際、養殖だってかまわないぞ。ぜいたくは言わん」
「うーん、困ったなぁ」
カピンチョが首を傾けながら、「うーん、うーん」とうなり始めた。その間にも、オレの腹は刻一刻と減りはじめている。
そのとき、はるか上空からピーヒョロロ……という甲高い鳴き声が聞こえてきた。
「あっ、トンじいだ!」
カピンチョが鳴き声の方向を見上げた。
「トンじい?」
「うん、この森じゃ有名なトンビのおじいさんだよ。すっごく物知りなんだ。トンじいに、モリオさんのご飯のことを聞けば、なにか教えてくれるかも」
「おお、そいつはいい。ぜひ聞いてくれ」
オレがそう言うと、カピンチョは「おーい! トンじい!」と頭上に向かって声を上げた。次の瞬間、ものすごい速さで、一羽の鳥が垂直に下降してきた。その鳥は地面すれすれまで降りてくると、大きなつばさをしなやかに広げて、サクラの木の根元をくるくると低空飛行した。褐色と白のまだら模様のつばさが、ゆるやかに円を描くように回っている。そしてすーっと上昇しながら、オレたちの真上の枝にとまった。
「おはよう、カピンチョ。元気でやっとるかね」
トンじいと呼ばれたその鳥は、鋭くとがったシャープなくちばしをふるわせた。
「おはよう! トンじい! 元気だよ!」
「そりゃあ、なによりじゃ。ところで、今日のサクラの木は、いつもにましてすごい迫力じゃったな。この調子だと、山のてっぺんまで行けるのも、そう遠くないかもしれんの」
「うん! 絶対もうすぐ歩けるよ! そうなったらボク、サクラの木に乗せてもらって一緒に海を見にいくんだ」
「それは見ものじゃな」
トンじいは、するどいくちばしを大きく開いて「カカカカッ」と笑った。
「あ、トンじい! このネコさんはモリオさん。昨日お友達になったんだよ」
カピンチョはうれしそうにそう言って、オレをトンじいに紹介した。オレは「どうも、ネコのモリオです」と一応軽く頭をさげた。
「なんじゃ、ネコのくせにやたら人間くさいやつじゃの。さてはそのかっぷくの良さからして、おぬし家出ネコじゃな」
トンじいの小さな黄色い瞳が、オレを上から下まで見た。ちゃんとあいさつをしたのに、なんて無礼なやつだ。こういうマナー知らずのやつは虫が好かん。
「なんで、わかるんだよ?」
オレはぶっきらぼうに返事をする。
「野生のネコは、もっとギラギラした瞳をしておる。自分のなわばりをおびやかす敵がいないか、絶えずヒゲや耳や鼻や目を動かしておる。おまえさんの、そのにぶい瞳が、なによりの証拠じゃよ」
「ふん」
バカにしてやがる。オレは何も言わずに、後ろ足であごのあたりをバリバリとかきむしった。
「あ、ねぇねぇ、トンじい、ちゃいとか、しーらとかいう魚って、どこに咲いてるの?」
カピンチョが、トンじいを見上げると口を開いた。
「ん? タイとシイラか? それならまあ、海にいけば、わんさかおるな」
「海にいっぱい咲いてるんだ?」
「ハッハッハッ、魚は咲くものではないんじゃよ、かわいいカピンチョよ」
「えー? じゃあ、なってるの? でも、海にあるんなら、ちょっと遠いけど、もいでくるよ」
「おいおい、そりゃあ、無理な話じゃ。そもそもお前さん、海までいったことなかろう?」
「大丈夫! サクラの木といつも海の話してるし、どこにあるかくらいわかるよ」
カピンチョはそう言うと、さっと立ちあがった。
「いやあ、悪いね、カピンチョくん。楽しみにしているよ。でも、なるべく早くとってきてね」
オレはカピンチョの背中をぺろぺろとなめた。しかし、予想以上にゴワゴワした毛が舌につきささったので、オレはあわてて舌をひっこめた。
「うん、まかせて!」
カピンチョはくすぐったそうに目を細めると、トタトタと小走りにかけていった。
「おいおい、海にいると言っても、海の中にしか、おらんのじゃがのう……それにあやしい風がふいておるから、やめたほうがええ……って、もう行ってしもうたか」
トンじいは、やれやれという風に首をふると、オレのほうに顔を向けた。
「モリオとか言ったの?」
トンじいはオレのほうをむき直ると、オレをじっと見た。
「うむ、いかにも、わたしがモリオだ」
オレは、せいいっぱい声を張り上げ、胸をぐっとはってうなずいた。
「お前さんは、このサクラの木が歩けると思うか?」
「いや、まあ無理だろうな」
「なぜ、そう思う?」
「もしこの木が歩けるんなら、オレは空を飛べる。でも、それは構造上、無理だ。木には足がないし、オレには翼がない。つまり、木は歩けるようにできてないし、オレは飛べるようにはできていないってことだ」
「ふむ。違いない」
「あんたはどうなんだ? サクラの木は歩けると思うか?」
トンじいはその質問には答えずに、くちばしをこすり合わせて、カカカッと鳴らした。
「こいつにとって何よりも大事なことは、歩くことなのじゃ。歩いてあの山の頂上まで行って、海をながめる事なんじゃ」
トンじいは、サクラの木のてっぺんを見上げて口を開いた。
「ワシが生まれたときから、このサクラの木は、毎朝、ああやって体をせいいっぱい伸ばして、動かしておった。ワシは、よくこのサクラの木の上をぐるぐる回りながら、その様子を見学したものじゃ。ワシの親父もお爺さんも、そのまた爺さんも、このサクラの木を見続けてきた。この森に生きるすべての生き物で、サクラの木のことを知らんものはおらん」
風がぴゅうっとサクラの木の間を吹き抜け、サクラの木の枝がやさしくゆれた。
「でもな、だーれも、このサクラの木のことを、心の底から信じてはおらんかった。だーれも、サクラの木が歩けるなんて、思ってはおらん。みんな、おもしろ半分にはやしたてるだけじゃ。中にはいじわるなことを言うものもおる。いや、大半のものは、このサクラの木をバカにしとるのう」
トンじいは、少しさみしそうに翼をふるわせると、サクラの木の枝を足の裏でトントンと踏みしめた。
「しかしじゃ、カピンチョだけは違った。あいつは心の底から、このサクラの木のことを信じておる。いつか、必ず歩けると思うておる。疑うことを知らんのじゃ。あいつだけじゃ、このサクラの木と本当にわかりあえるのは」
「あいつ、純情そうだもんな」
オレがそう言うと、トンじいは空を見上げて、体をすっと起こした。
「さてと、おしゃべりはこれくらいにして、ちとカピンチョの様子を見てこようかの」
「あ、ちょっと待ってくれよ。あいつが戻ってくるまで、腹がもたないからさ。この辺に、うまいメシをくれる親切な人間がいるところを教えてくれよ。できれば、気の効く若い女の子がいいな。男は大抵ガサツだから、イヤなんだよな」
オレがそう言うと、トンじいは「やれやれ」と大きなため息をついた。
「お前さんは、街に戻ったほうがいいと思うがの」
「なんでだ?」
「お前さんに、森の暮らしは無理じゃよ。到底、無理じゃ」
「なんでだよ? 暮らしてみなきゃ、わかんないだろ」
「見たところ、相当、裕福な家で、大切に飼われていたようじゃの。そんな輩に、このきびしい世界は合わないじゃろう」
「なに言ってやがる」
確かに、ばあさんはかなりのお金持ちで、オレを月に一回ペット美容院に連れて行ってくれたり、イヤというほど、うまい飯をくれたりしたが、それとこれとは、関係ない。
「今のうちに、去るんじゃ。カピンチョには、ワシからうまいこと言っておくから、心配せんでいい」
「ふん」
オレは鼻をならして、トンじいをにらみつけやった。どこの世界にも、こうやって新人をいびるやつはいるもんだ。昔ばあさんの家で、オレより先に飼われていたセキセイインコのことを思い出した。あいつは自分が檻の中にいるのをいいことに、さんざんオレに悪態をついて、追い出そうとしたものだった。
「余計なお世話だ、じじい」
「お前さん、毎回カピンチョに、ご飯をとってきてもらうつもりかの?」
「は? 別にいいだろ。あいつが自分からとってくるつってんだから。別に無理やり行かせたわけじゃねぇし」
オレはヒゲをぴくぴくとふるわせながら「このおいぼれが」という感じで、トンじいをにらみつけてやった。
「お前さんは誰かに甘えるくせが、しみついてもうとる。ここでは自立せんと生きてはいけんのじゃ。カピンチョがいなくなったら、どうするんじゃ? あんなお人よしはめったにおらんし、こんなへんぴな森に、人間なんてめったに寄りつきゃせんよ」
オレはうまい返し言葉が思いつかなくて、一瞬、言葉につまった。
トンじいはばさっと羽を広げると、その場ではばたかせた。
「飼い猫は、しょせん飼い猫じゃ。カピンチョが帰ってくる前に、ここから去ることじゃな」
そう言い残すと、トンじいは枝を足でトンと蹴りあげて、つばさを軽くしならせながら、空へと飛び立っていった。
オレはやれやれと首をふりながら、サクラの木の中へと戻って、どかっと寝ころんだ。どこにでも、口うるさい年寄りがいるもんだ。オレは早くカピンチョが戻ってくるように願いながら、やかましく鳴りだした腹をおさえつけた。