19.サクラの木の決断
オレは、雨しずくを全身にまといながら、ぼんやりとその光景をながめていた。
なんだか目の前の光景が遠くの出来事のような、まるで夢を見ているような、そんな錯覚に襲われた。
ああ、サクラの木が歩くことは無理だ。不可能だ。
オレは幹にかけた前足の力をゆるめた。
「もう少しだよ! あと少しで歩けるから! がんばって!」
カピンチョの声に押されるように、サクラの木は枝や幹や根をゆらし続けた。
「しもぶくれとの、約束! サクラの木、歩くとこ、見る! だから歩け! 俺みたいに、歩けるようになれ!」
十兵衛は、荒い息を吐きながら、大きな体を勢いよく幹にぶつけた。
「お前の努力は決して無駄にはさせんぞ! その根をひきちぎるんじゃ!」
トンじいは何度も翼を大きくはためかせた。
「動いてください! 動かないと、引き倒されてしまう!」
マツカゼは、吹き荒れる風にバランスを失いながらも、枝にしっかりとくいこませた足を離さない。
「がんばって! 海まで僕らが案内するから! だから、がんばって!」
ヨシムネがそう叫んだとき、ブルドーザーのうなり声がはっきりと聞こえてきた。
さっと後ろをふり返ると、ブルドーザーが一列になって、こちらに向かっていた。
おそらくサクラの木もクスの木みたいに、ばあさんの家みたいに、粉々につぶされるだろう。
ごめんな、カピンチョ、ごめんな、サクラの木。
オレはお前らを最後まで信じてやることができなかった。
オレは、すぐとなりで必死にサクラの木を押しているカピンチョを見た。
思えば、カピンチョにも、サクラの木にも、随分とお世話になった。
こいつらがいなかったら、この森のどこかで野たれ死んでいたかもしれない。
オレがコイツらに対してできる恩返しは、なんだろうな。
カピンチョの前足が雨でずるりとすべって、体がよろけた。
十兵衛の手のひらがカピンチョをつかむ。
カピンチョは頭をぶんとふると、再び幹に頭をどんとぶつけた
オレがこいつらにできる精一杯の恩返し。それはたぶんこうやって、サクラの木を押すことだ。
オレは大きく息を吸って、吐いて、もう一度両足にぐっと力を入れた。
そして、全身の力をぶつけるようにして、サクラの木を押した。
オレはカピンチョのようにサクラの木を信じない。でもオレは押す。
たとえ歩けなくても、ブルドーザーに倒されるとしても、オレは押す。
最後の最後まであきらめずに押す。
サクラの木は体をゆすりつづけた。
サクラの木はもうひとりではなかった。
たくさんの仲間がこうして一緒にサクラの木と共に歩こうとしている。
少なくともここにいるやつらは本気で信じている。
サクラの木が山のてっぺんまで歩くことを。だからオレも、精一杯押してやる。
ふいにサクラの木が満足そうに大きく枝をゆらした
。もうほとんど散ってしまった若葉がそれにあわせて、ゆらゆらとゆれた。
そしてサクラの木は動きを止めた。
「サクラの木?」
カピンチョが、目を細めながらサクラの木を見上げた。
サクラの木はさわさわと風に枝をゆらしながら、たたずんでいた。
そして、もう動こうとはしなかった。
カピンチョはサクラの木を見上げると、一瞬悲しそうな表情を浮かべた。
「そっか」
そして、何か悟ったかのように、幹にそっと鼻先をつけると、小さく息を吐いた。
「今まで、本当によくがんばったね」
カピンチョは笑った。サクラの木も笑ったような気がした。
「これで、いいのか、カピンチョ」
十兵衛は、肩で息をしながら、幹にかけた手をおろした。
「うん、いいんだ。サクラの木が決めたことだから」
トンビたちもサクラの木から離れた。
「おつかれさま」
カピンチョが小さな声でつぶやいた。
幹にべっとりとついたカピンチョの血が、雨でゆっくりと流され、消えていった。