16.サクラふぶき
森に春がやってきた。
風は徐々にやわらかく、心地よくなっていく。
春の太陽が森中をじんわりと温めていくと、長い冬眠から目覚めた動物たちが、鼻をならして、森の芽吹きの匂いを胸いっぱいに吸い込むのだ。
サクラの木は、その枝いっぱいに淡い花びら付けていた。
サクラの木の幹から空を見上げると、視界のすべてサクラ色に染まった。
一年の中で、サクラの木が最も美しく着飾る季節がやってきたのだ。
さすがにこの時期は、自慢の花びらを落としてしまうのが惜しいのか、サクラの木はその体を動かすことはなく、風がふくたびにサクラの葉を雪のようにひらひらと舞い落した。
サクラの花が満開になると、オレは毎日、サクラの木の下や、少し離れた場所からその色鮮やかな晴れ姿を飽きもせずながめた。
ただでさえ森で一番大きなサクラの木が、その枝に鮮やかなサクラの花を咲かせるのだ。
とても美しく雄大な光景だった。
ときどき山ザルの親子がやってきて、サクラの花をほおばった。子ザルが小さな手でサクラの木の花をつみ、パクパク口に運ぶと、サクラの木はくすぐったそうに体をゆらした。
枝の先がゆれて、葉がいっせいにシャラシャラと鳴ると、サクラの花びらがまたぱらぱらと散った。
「ボク、春が一番好きなんだ。だってサクラの木が、うれしそうなんだもん」
カピンチョは、オレのとなりでサクラの花びらを鼻の上にのせながら、ニコニコと笑った。
さっと風が吹いて、サクラの花びらが宙に舞った。
「サクラの木以上に、お前の方がうれしそうだよ」
オレは頭にのったサクラの花びらをふり落とす。
「雪もきれい。でも、サクラの花も、きれい」
ふいに、十兵衛の声がした。
オレとカピンチョがふり向くと、冬眠からまだ覚めきってない十兵衛が、とろんとした目でサクラの木をながめていた。
「おはよう、十兵衛さん」
カピンチョがうれしそうに声をあげた。
「まだ寝たりない、って顔してるぜ」
オレは、十兵衛の太い腕に鼻先をこすりつけた。
「うん、ねむい。でも、寝坊しては、いけない。これ、おかあさんとの、約束」
十兵衛は大きな口をあけて、「ぐあああ……」と大あくびをした。
「今年のサクラは、今までで一番きれいじゃ。見事なサクラ吹雪じゃわい」
サクラの木の上空では、トンじいが甲高い声で叫びながら、まわりをくるくると回っていた。
オレはサクラの木の根元に背をもたれかけると、サクラ色の空を見上げた。ぎっしりと開花したサクラの花のすき間から、鮮やかな青い空が見えた。
その青い空をぼんやりとながめていると、ふいにばあさんの顔がぽっかりと浮かんできた。
「そういえば、ばあさんはサクラが大好きだったな」
オレは目を閉じて、うっすらと消えかけた記憶をたぐりよせた。
「モリオや、サクラの花はねぇ」
その記憶のかたすみで、オレはばあさんの膝の上にいた。
ぽかぽかとした縁側で、ばあさんの手がオレの背中をやさしくなでていた。
「サクラの花はねぇ、すぐに散っちゃうけど、それが終わりじゃないんだよ」
家の塀から、にょきっと顔を出したサクラの木を、ばあさんはまぶしいものでも見るかのように、目を細めてながめていた。
「散った瞬間から、次の春に向けての準備がはじまるのさ」
オレはすりすりとばあさんの膝に鼻先をすりつける。ばあさんの匂いが胸いっぱいに広がって、のどがゴロゴロと鳴った。
ばあさんの言う通り、サクラの花はあっという間に散ってしまった。
サクラの花びらが、地面をうっすらとしたサクラ色に染めると、枝には再び若葉がしげり、そのかげに小さな赤い実が見えた。
赤い実は風にゆられながら、太陽の光を全身にあびて、よりいっそう鮮やかに輝いている。