11.リスタート
あたりがゆっくりと白みはじめた。
夜は去り、朝が来ようとしている。あんなにはっきりと輝いていた満月も、ミルク色をした朝の空に、その輪郭をぼんやりとにじませていた。
「カピンチョさん、モリオさん、本当にありがとう」
しもぶくれはオレの頭から飛び降りると、何度もお礼を言った。
早起きの鳥たちが、サクラの木の枝でチュンチュンと鳴いている。
「日々、食べることや、生きのびることに追われて、自分が本当に何をしたかったのか、忘れてたようです。サクラの木に、そのことを思い出させてもらいました。僕はこの世界を一周して回ろうと思います。そして、もっといろんな場所や動物と出会いたいのです。それが、僕があのゲージから一歩踏み出した理由であったはずです」
しもぶくれがそう言うと、カピンチョが口を開いた。
「ボクのほうこそ、あんなこと言ってごめんね。サクラの木はね、誰に何と言われようが、思われようが構わないって言ってくれたんだ。まわりにどう思われようが、自分は自分だからって。でもね、しもぶくれさんがサクラの木のことを、真剣に思ってくれて、うれしかった」
カピンチョはふにゃっと笑って、サクラの木を見上げた。
「いいえ、本当にすばらしい木だと思います。きっと、いつかは歩けるはずです。風のうわさでそのことを聞けるのを楽しみにしてます」
しもぶくれはそう言うと、十兵衛のほうを向いた。
「十兵衛、今までありがとう。ここで、僕と君はお別れしたほうがいいと思うんだ」
十兵衛は「えっ?」と声をあげて、その小さな目をめいいっぱい見開いた。
「十兵衛、僕と一緒にいる間、ずっと君は罪悪感で苦しんでた。でも、十兵衛は何も悪いことをしていないから、苦しむ必要なんてなかったんだ。ちゃんと動物だって食べるべきだ。それに、僕も君とずっと一緒にいると、いつまでも妻との思い出から離れられない。だからここで別れよう」
「そんなのは、嫌だ」
十兵衛はブンブンと顔をふると、うるんだ目でしもぶくれを見た。
「それに誰かの後ろに隠れたまま、ぬくぬくと生きるのは、卑怯だってことに気付いたんだ」
「嫌だ。嫌だ」
十兵衛は必死に顔をぶんぶんとふった。
「俺と、しもぶくれ、仲良く、やってきた、うまく、やってきた。これからも、きっと、うまくいく」
「ダメだよ、十兵衛。それが嫌なら、今ここで、僕を食べてくれ。本来なら僕はあのとき、君に食べられるはずだったんだ。だから、僕を今ここで食べて妻の元へと送ってほしい」
しもぶくれが強い口調でそう言うと、十兵衛は、さらにブンブンと激しく首をふった。
「嫌だ! 嫌だ!」
「十兵衛、お願いだから」
しもぶくれは、十兵衛を見た。十兵衛も、しもぶくれを見た。
十兵衛は苦しそうに体を丸め、鼻先で地面を何度も叩いた。
どれくらい時がたったのかわからない。秋の風が木の葉を舞い散らせ、オレ達の周りに静かに舞い降りてくる。
「……わかった」
十兵衛は短くそうつぶやくと、アゴを地面にのせ、鼻先をそっと伸ばした。
「ここで、俺としもぶくれ、さよならだ」
「ありがとう、十兵衛」
しもぶくれは、十兵衛に歩み寄ると、その大きな鼻先に自分の小さな鼻先をちょこんと合わせた。
秋のやわらかい日差しの中、二匹は別々の方角へと歩いて行く。
一匹は大きな体を小さく丸め、一匹は小さな体を大きくはって、枯れ葉をふみしめながら、遠ざかっていく。
「しもぶくれさん、無事に世界一周できるといいね」
カピンチョが朝日に目を細めながら、つぶやいた。
「そうだなあ、でも一周するのに、どれくらいかかるんだろうな。想像もつかないや」
「ねぇ、世界ってどれくらい広いの? この森の何倍?」
「さあな。でも、せいぜい十倍くらいじゃないかな、よくわからないけどさ」
「じゃあ来年くらいには会えるかなあ?」
「たぶんな」
オレは、ぐぐっと背を伸ばすと、サクラの木を見上げた。淡いオレンジ色に染まった葉が、ひらりと舞い降りてくる。
「あと、十兵衛も気になるよ。あいつ、すげえ落ち込んでたからな」
オレは、十兵衛が消えていった方角を見ながら言った。十兵衛は、大きな図体をよろよろさせながら、力なく消えて行ったのだ。
「大丈夫だよ、また遊びに来てね、って言っておいたもん」
カピンチョが、ひとりでうなずきながら答えた。
「そうかなぁ、ショックでしばらく何もだべれなくなるんじゃないか?」
「大丈夫、十兵衛さんならきっと立ち直れるよ」
「なんでそう言えるんだよ?」
「だって、しもぶくれさんは本当にやりたいことがあって別々に生きようって決めたんだもん。それを十兵衛さんはよくわかってるはずだから」
「ふーん、なるほどね。そうか、なら大丈夫かな。さて、と」
オレは大あくびをすると、ぎゅるぎゅる鳴りだしたお腹をぽんと叩いた。
「ちょっと、飯でもとってくる」
「あ、うん、ボクは、しもぶくれさんたちがくれた木の実を食べるね」
「ちぇっ、あいつらオレにも、なんかくれればよかったのに」
オレはブツブツ言いながら、落ち葉をふみしめ、湖へと向かった。
さて、今日は昨日よりも大きな獲物をしとめてやろう。