1.ネズミじゃないよ
夏の夜風が水の匂いを運んでくる。オレはヒゲをふるわせながら、その匂いをかいだ。オレはずっとこの匂いを探し求めていたのだ。
鼻を動かし続け、うっそうと茂った草を前足でかきわけながら、その匂いのする方向へと進んでいく。しばらく進んでいくと、水の匂いがふいに強く香った。さらにちゃぷん、という水の音が聞こえてくる。オレは両耳をピンとはって、その水音を確かめながら、さらに歩みを強めた。
やがて、少し開けた場所へと出た。その中心に大きな湖が見える。
オレは湖のほとりまで走って行って、顔を水中にざぶりとつけた。
湖の水はひんやりとしていて、とても気持ちがよかった。大きく口をあけて、勢いよく湖の水を飲んだ。
腹がたぷたぷになるくらい水を飲むと、顔をあげてふぅっと息ついた。
そのとき湖の中心から、ちゃぷんという音が聞こえた。再び両耳を立てて、音のした方向に目を向けた。何かが、湖の中心で泳いでいる。月光が水面に強く反射しているせいで、輪郭がぼやけてよく見えない。
それは、水面をスーッとなめらかに移動していた。湖の端まで行くと、水面にさっともぐってUターンし、再び端まで泳いでいく。そして水を静かにかきわけながら、こちらへとやってきた。オレはすぐ後ろにあった倒木の陰にさっと身を隠した。
それは、ひどくゆっくりとした動作で陸へとあがると、体を左右にブルブルとふって、水滴を飛ばした。そして、水際にごろんと横になると、ぷっくりとふくらんだ大きな腹を上下させながら、気持ちよさそうに目を閉じた。茶色いタワシのようなゴワゴワした毛が、水にぬれて光っている。
月明かりをたよりに、倒木の陰からそいつを観察してみると、オレが今まで見たことのない生き物だった。中型の犬くらいの大きさで、ネズミを幾分のっぺりさせたような顔をしていた。馬ヅラをしたネズミといった感じだ。一瞬ネズミの親分かと思ったが、こいつは確実にネズミではない。オレの知ってるネズミはもっと小柄で、常に何かにおびえていて、ちょこまかとせわしなく動き回る生き物だ。こいつみたいにのほほんとした顔はしていない。どことなく鼻の下を伸ばしたおっさんを連想させる顔つきだった。
それに右耳が根元から、きれいになくなっていた。もともと、そういうデザインなのか、それとも喧嘩で失ったのかのどっちかだろう。
ひとしきりそいつを観察して好奇心を満たすと、湖を離れるためにゆっくりと後ずさった。さわらぬ神にたたりはなし、とばあさんもよく言っていたものだ。しかしオレの後ろ脚が、何か細長いものをベキッと踏みつけた。
その音に反応して、そいつは「ん?」というように、頭をもたげてこちらを見た。
「あっ」
その生き物は驚いた声をあげて、眠たそうな瞳でオレを見た。
「カピバラですよ」
そいつは大きな鼻をひくひくと動かしながら、そう言った。
「ネズミじゃないよ。カピバラですよ。だから食べないで」
そんなバカでかいネズミがいてたまるか、とオレは思ったが、「だからどうした」というような感じで威圧的ににらみつけてやった。こういうときは、相手になめられてはいけないのだ。
「食べないでね。きっとおいしくないよ」
カピバラと名乗った大きなネズミは、少しおびえた声を出した。ぬれて逆立った体毛が、風にゆられてかすかにふるえている。
「食べないでください」
そいつのつぶらな瞳が、オレをじっと見つめた。異常なくらいつぶらな瞳だ。オレはなぜか悪いことをしている気分になって、にらみつけるのをやめて口を開いた。
「食べねぇよ」
「ほんと?」
「お前のほうがでかいから、食べるとか無理」
自分よりも、ひとまわりもでかいやつを襲う元気なんて、今のオレにあるわけない。
「それにオレ、生もの食べれないし」
そもそも温室育ちのオレに、生のネズミなんて食べれるわけがないのだ。考えただけで、身の毛がよだつ。
「そうかぁ、よかった」
そいつは目をにゅっと細めると、前歯をむき出しにして笑った。びっくりするくらい、素朴な笑顔だった。
「ボク、カピバラのカピンチョ。この近くにある、サクラの木の中に住んでます」
「カピバラ?」
「うん、カピバラだよ。カピバラをしらないの?」
「しらんな」
オレがそう言うと、カピンチョと名乗ったその生き物は、しょんぼりとした様子で「キュー」と短く鳴いた。
「そうかぁーカピバラしらないのかー。えっとね、カピバラはね、えーっと、そうね、ボクみたいな動物です」
カピンチョはすっくと立ち上がると、得意げに胸をはった。
わかりやすいのか、わかりにくいのか、よくわからない説明を受けたオレは、ただ黙ってうなずいた。
「ねぇ、ところで君は?」
カピンチョは首をかしげて、オレをのぞきこむよう見た。
「オレはネコのモリオだ。ウルシハラ・モリオ。宿なしだ」
「モリオさんかぁ、変わった名前だね」
「余計なお世話だ」
オレは自分の名前が、かなり気に入っている。こんなわけのわからない生物に、変だなどと言われたくはない。ヒゲがひとりでに、ピクピクと神経質にふるえだす。
「ボクね、ネコさんって初めて見たよ。ネコさんって、みんなモリオさんみたいに、お肉がいっぱいついて、ぷくぷくしてるの?」
オレは両耳をぴくぴくふるわせながら、カピンチョをキッとにらんでやった。オレが最も気にしていることを、ずけずけと言うなんて、なんて無神経なやつだ。これだから田舎モンは困る。デリカシーってやつがない。ふっくらとしておいでですね、くらい言えないのか。
「ねぇ、ねぇ、モリオさんはおうちがないの?」
カピンチョは特に気にした様子もなく、短い手足をのこのこと動かしながら、オレの前までやってきて、大きな鼻の穴を動かし、オレの胸元をくんくんとかいだ。
よくわからない生き物に自分の匂いをかがれるのは、なんだが妙な気分だった。一瞬、ひっかいてやろうと爪を出しかけたが、カピンチョのぬぼーんとした顔を見ているうちに、なんだか急にバカらしくなってやめた。
「ああ、ねぇよ。ついこの間バカでかいブルドーザーにぶっつぶされた」
「なんで? なんでぶっつぶされたの?」
「オレの飼い主のばあさんが死んだからだよ」
「なんで? なんでおばあさんが死ぬと、おうちがぶっつぶされるの?」
「邪魔だったんだろ。ばあさんの親戚連中が、駐車場作るとか言ってたし」
「ねぇ、なんでおばあさんは死んだの?」
「うるせぇな。お前には関係ない話だ」
「そうかー、でもモリオさんはとっても疲れてるみたいだね。せっかくの白い毛並みが、まっくろだよ。ねぇ、ボクのおうちで少し休む?」
「え?」
オレは思わず目を見開いて、カピンチョを見た。
見ず知らずの変な生き物と一夜を共にするなんて、できるわけがない。何されるかわかったもんじゃない。しかし、危険に満ち溢れた森の中で、ビクビクしながら眠りに就くのはもうゴメンだった。
オレは「うーむ」とうなりながら、しばらくしっぽをぱたぱたと左右にふり続けた。
「ねぇ、おいでよ。せまいけど、いいとこだよ。きっと気に入るよ」
カピンチョがオレをじっと見ている。オレはそのくりくりした瞳を見ながら、もうくだらないプライドは捨てるべきなんだと思った。オレはどうにかして、この世界で生きていかなければならないのだ。
「じゃあ、一泊だけお願いする」
オレはうつむきながら、ぼそりとつぶやいた。
「一泊と言わずに何泊でも! じゃあ案内するからついてきて!」
カピンチョはうれしそうにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、森の中へ向かって進みだした。オレは重い体をひきずってその後を追う。
「あー今日はとってもいい日だなー」
カピンチョは行進するように、両足をぶんぶんとふりながら歩いていく。
「そうか、そいつはよかったな」
オレはクールに返事をする。
「ねぇ、なんでかわかる? なんでかわかる?」
「わからん」
「そっかーわかんないかー簡単なのになー」
「しらん」
カピンチョは上機嫌に鼻をフゴフゴと鳴らした。
「ねぇねぇ、モリオさんは、草と木の皮どっちが好き?」
「どっちもキライだ」
「えー? じゃあ木の枝と、木の実どっちが好き?」
「どっちもキライ」
「えー? じゃあ、何が好きなの?」
「まあ、寒ブリとか生ハムとかブルーチーズ、あとはカニ缶にチーズケーキ、マシュマロなんかが好きだ。あと、杏仁豆腐も大好物だ」
「よくわかんないや」
「まあ、そうだろうな」
そんな無意味な会話をかわしながら歩いて行くと、やがて森の中で、ひときわ背の高い大きな木がオレたちの前に現れた。
大地にどっしりと根を下ろしたそのヤマザクラの木は、四方に長い枝を広げていた。夜空をおおい隠すようにおいしげった葉のすきまからは、月の光りが細い線になって青白く降り注いでいる。
「ここだよ。このサクラの木の根元がボクのおうち」
そのサクラの幹に、アワビのような形の亀裂が見えた。どうやら中は、空洞になっているようだ。
「どうぞ、お入りになって」
カピンチョは、その亀裂に大きな尻をすべりこませた。オレはカピンチョに続いて、木の中に入った。
サクラの木の中は思ったよりも広く、地面はもこもことした苔のじゅうたんに覆われていた。足の裏から、苔のひんやりとした感触が伝わってくる。
「ただいま! 新しいお友達をつれてきたよ! さっき会ったばっかりだけど、お友達になったよ!」
カピンチョは天井に向かってそう叫ぶと、満面の笑みで鼻の穴をぐわっと広げた。
「うん、ここにきてはじめてのお友達だよ」
カピンチョは、なにやら楽しそうに独り言をつぶやきはじめた。
「モリオさんっていうんだって。いいネコさんだよ。ちょっと口は悪いけど」
オレはサクラの木の中をあらかたかぎ終わると、隅によっこらしょと腰を下ろした。
「なかなかいい住処だな。ところでさ、そろそろ誰と話してるのか、聞いてもいいか」
「サクラの木だよ。このサクラの木はおしゃべりできるんだよ。モリオさんには聞こえない?」
こいつは一体なにを言っているんだろう。やっぱり、こんな森の中で暮らしているとおかしくなるんだろうか。まあ、なるんだろうな。
「いや、聞こえんな」
しかし、今夜の宿を失いたくなかったオレは、無難に返事を返すことにした。
「きっと、心がきよらかな動物にしか、聞こえないんだろう」
「そっかー。でもボクも最初はおしゃべりできなかったし、大丈夫。そのうちモリオさんも話せるようになるよ」
「そうか」
オレは、くあっと大あくびをするとごろりと横になった。まぶたが急に重くなっていく。
「ところでさ、すごく眠いんだが、寝てもいいか?」
「あっ、うん、どうぞ、おかまいなく」
カピンチョの返事を待たずに、オレは苔の上にごろりと横になった。体全体に苔の冷たさがしみ渡ってきて、とても心地がいい。苔ってこんなにやわらかいものだったのか。
ばあさんの家にいたころは、まさか苔の上でよくわからない生き物と寝るなんて、想像もできなかったな。
カピンチョはオレの隣にどすんと横になると、オレの背中にアゴを乗せてきた。
なんてなれなれしいやつだ。
オレは心の中でそうつぶやきながら、目をつぶった。目をつぶって、脱力すると体がゆっくりと溶けていくような奇妙な感覚に襲われた。ひどくなまぬるいゼリーの中に、ずるずると沈み込んでいく感覚だ。
カピンチョが背中で何かつぶやいた。しかし、オレはそのまま眠りへと落ちていった。とても深い眠りだった。