九話 特異な幻妖
「はあっ、はあっ……も、むり……」
都季は、肩で大きく息をしながら掠れた声でそう言うと、その場にばたりと倒れた。もう腕を動かす力さえ残っていない。
そんな都季の前に立つ才知は、息一つ切らしていない涼し気な顔だ。
「初心者にしては意外と持ったほうだな。基礎はやってるんだっけ?」
「はい。僕達やイノ姐、寅兄でやってます。術方面は蒼姫さんや辰兄ですね」
「改めて聞くと豪華メンバーだな」
才知の問いに答えたのは、都季より少し先に魁や琴音と一緒に道場で鍛錬をしていた悠だ。都季が指導を受けている間、三人はその様子を横で見ていた。
悠の口から出た局の中でも有力な者達の名前に、才知は「それなら初心者でもこんだけ動けるのは分かる」と納得した。
また、都季の顔見知りであるという点や立場を考えると、名前の上がった者達以外に適任がいないのも事実だ。
「大丈夫か?」
「一応……」
「やはり、お主はもうちと体力をつけねばならんな。『らんにんぐ』とやらをやるしかなかろう」
道場で才知に護身術の指導をしてもらった都季だが、実戦形式になった途端にまともに動けなくなった。護身術でこれほどまで疲れたのは正直初めてだ。
仰向けに寝転がったまま動かない都季を案じた魁が歩み寄り、都季の顔を覗き込む。
月神も都季の顔の横に立ち、頬をぺちぺちと軽く叩いてきた。最もな言葉だが、少し痛いので片手で軽く払う。
「魁先輩のときはもっとスムーズに動いていた気がするんですけど、もしかして忖度でもしました?」
「そんたく?」
「ああ、ごめんなさい。魁先輩には難しかったですね。二つの意味で」
「馬鹿にしてんのか」
きょとんとして首を傾げた魁は意味を理解しておらず、悠はにっこりと笑って返す。
手加減をあまり知らない魁が、都季を気遣って手を抜くのは難しいだろうと思ったものの、まさか忖度の意味も知らないとは思わなかった。
今にも噛みつかんばかりの魁を見て、才知は敢えて少し声を張って言う。
「怪我すると元も子もないし、少し休憩するか。ちょっと動かすぞー」
「うわ」
「ちょっ! もうちょい丁寧に運んでやれよ!」
寝転がったまま動けない都季を見かねて、才知が腕を引っ張り上げて自分の肩に回させる。
強引なやり方に魁が抗議の声を上げたが、「はいはい」と軽く流された。
道場の端に移動し、壁に背を預けて座る。悠が開けてくれた窓から風が流れ込み、火照った体を冷やした。
「これ、良かったら……」
「ありがとう」
琴音が遠慮がちに差し出してきたのは、ドリンクが入っているであろうボトルだ。
動いたせいで喉も乾いていたため、ありがたく受け取って口をつける。
その傍らで、まだ余裕そうな才知は、魁に「久しぶりに組手でもするか?」と声を掛けていた。
だが、あることを思い出した月神がそれを止める。
「そうだ。今思い出したが、お主に確認したいことがある」
「俺?」
「ああ。昨夜、我がおらぬ間に都季が手負いの依人を見つけ、家で手当てをしたのだ。だが、我が帰ったときには姿はなくなっておってな。やや変わった気配だけが残っておったのだ」
才知に話し始めたのは、今朝、都季と月神で話していたことだ。
局に到着した頃は梓が来訪したこともあり、すぐに確認ができなかった。ここへ来るまでに聞くこともできたが、その時は単に忘れてしまっていた。
才知はあまりピンとくるものがないのか、目を瞬かせて首を傾げる。
「変わった気配?」
「左様。人の皮を被った幻妖のような気配だった。それが少し気になってな。何か知らぬかと確認したかったのだ」
「人の皮を被った……?」
月神の言葉を繰り返して、才知は片手を顎に当てて考え込む。
才知も様々な依人や幻妖を目にしてきたが、幻妖達の長である月神がすぐに分からないとなると、シエラやアッシュのようなオリジン種のはず。
「というか、都季先輩また何かに首突っ込んだんですか?」
「いや、首を突っ込んだほどじゃ……」
やや面倒くさそうな顔をする悠に、あくまでも手当てだけだと付け足して言った。
朝になったらいなくなっていたため、首を突っ込んだり、巻き込まれたわけでもない。
「そもそも、月神が種の特定をできないのは珍しいですね。他にその人の特徴はないんですか?」
「体格は才知さんに少し近かったかも。特に何か現象が起きてたわけでもないし、体の一部が変わったりとかはしてなかったかな。ただ、気を失ったにしては傷は浅めだったかも」
悠に訊ねられ、都季は青年の様子を思い返す。背格好は才知と似ていたため、見た目だけだと近接戦闘は得意そうだ。また、手当ても傷が深いものがほとんどなかったおかげで、都季だけでもどうにかできた。
すると、悠は「元々、依人は傷の治りが早いものが多いですけど……」と呟いてから思案しはじめた。続いて、琴音と魁も今まで会った依人に該当するものがないかと記憶を探る。
一足先に記憶の整理がついたのは才知だ。
「んー……たしか、そんな感じの奴がいた気がするんすよねぇ」
「本当か」
「俺も目にしてないからハッキリしたことは言えないんですけど……」
「お疲れ様です」
「おっ。ちょうど良かった」
道場の扉が開いたかと思えば、任務を終えた蒼姫と蒼夜が入ってきた。ただ、アッシュとシエラの姿がないのは珍しい。
元々、都季と月神も最終的には現場を駆け回っている蒼姫に聞くつもりだった。また、才知も思い出そうとしている依人について、蒼姫なら知っていると確信していた。
「なあ、『人の皮を被ったような幻妖』って知ってるか?」
「そんな前置きもなく聞いていいもん?」
さすがにもう少し状況について伝えたほうがいいのでは、と魁が怪訝な顔で言った。
だが、蒼姫は蒼夜と顔を見合わせた後、小さく首を傾げながら簡単に返す。
「人狼ですか? 一部では、人狼とも言われていますが……」
「それだ!」
「そんなあっさり!?」
まさかこれほどまでに頭を悩ませたものが簡単に出てくるとは思わず、都季は反射的に声を上げてしまった。
ただ、人狼と聞いても月神はあまりすっきりした顔をしていない。
「なんだ? その人狼とやらは」
「月神も知らない幻妖なんですか? 僕らは、遊びとか創作物とかで耳にしたことはありますけど……」
「いや、人狼という単語そのものは、前に都季が見ておった動画とやらで聞いたことがある。だが、幻妖界にはおらんな」
「あー……『人狼ゲーム』ってやつね」
前に動画サイトを見ていた時、たまたま人狼ゲームを行っていたものがあった。月神がやたらと楽しんでいたのは記憶に残っている。
幻妖界にいないことについては、蒼姫がルーツも含めて理由を話してくれた。
「人狼というものは、人間界で生まれた幻妖とされています。一説では、“歪み”に迷い込み、奇跡的にこちらに戻ってきた人間が変異したものとも言われていますね」
「知ってのとおり、基本的に“歪み”に迷い込んだ人は発狂して死に至ることが殆どだ。耐性があったからなのかは分からないが、本人が持っていた霊力と“歪み”で影響した霊力が混じり合い、結果的に幻妖に成り果てることで生還できた」
人狼の能力としては、狼へ変身できることと、高い身体能力と治癒力を保有していること。
一見するとあまり特殊な幻妖でないように感じるが、“歪み”による影響で生まれた極めて珍しい幻妖だ。
「人から幻妖になる事例は聞いたことがないですね。僕の記憶にも」
「人狼は極めて数が少ないんです。また、その人狼の依人ですが、幻妖の血が濃いものは変身をしたときに狼そのものになるそうです。ただ、血が薄くなると、変身するのも体の一部だけになると聞いています」
「あれか。人狼って、半人半獣みたいな絵になってることあるけど、そんな感じか?」
「はい。変化する場所も、その依人によって異なります」
「でも、それだと血の濃い人狼の依人と、幻妖としての人狼との区別が難しそうですね?」
元々、人狼自体が人間から変異した存在だ。継承組としてもいいようなものだが、見極める方法はあるのだろうか。
不安げな都季の表情を浮かべる都季を見て、蒼姫はなるべく分かりやすいようにと言葉を選ぶ。
「んー……そうですね。本人に“歪み”に入ったか聞いたり、親について確認するのも一つの方法ではありますが、霊力の質が違うので、本人を見れば見分けはつくと思います」
「私でもできるかな……?」
「はい。例えば、十二生肖で例えると、神獣そのものが幻妖ですが、人と交わって生まれた子孫である琴音達は依人ですよね? それと同じです」
「……あ、そっか」
元が人間という点を考えると、継承組と混じってややこしくなる。だが、力を授ける幻妖がいる継承組と違い、幻妖の人狼はあくまでも“歪み”による影響だ。
依人はそんな人狼と人との間に産まれた者だと考えれば、さほど難しいものではない。
「ただ、先ほども『一説』とお伝えしたように、人狼の発祥については諸説あります。また、月神が人狼を認識していないのも、『幻妖界で生まれていない幻妖』だからこそなのです」
「ぐっ……。我の認識の甘さ故に把握できておらんかったのか……」
悔しそうに言う月神を見て、蒼姫はきょとんと目を瞬かせた。悠達も知らなかった様子だが、局としては実は既に把握している。才知が思い出しかけていたのもそのせいだった。
「一応、こちらで確認してから、月神への報告と局でも人狼の登録はしていたのですが……」
「何か言うたか?」
「いいえ、何も?」
触らぬ神に祟りなし、と蒼姫は微笑んで誤魔化す。
これ以上、下手に月神のミスを指摘しても後に響く可能性がある。
あとで改めて夜陰に報告しておこうと決め、人狼についての話を続けた。
「その人狼がどうかしたのですか?」
「都季が昨日、家の前に倒れてるのを見つけて手当てしたのが人狼っぽいんだ。朝になったらいなくなってたんだと」
蒼姫達にはまだ昨夜のことについて伝えていなかった。
才知が手短に説明すれば、「ああ、どうりで……」と何かに合点がいっていた。
ただ、それについて追究するよりも先に悠が別の疑問を口にする。
「なんでこの町に来たんでしょうね? 人狼に繋がるようなものってありましたっけ?」
「さあ? たまたま通りかかったのかもしれないし、何か用事があって来た可能性もある」
この町には特に依人や幻妖は多いが、他の地域に住んでいるものもそれなりにいる。出入りも制限しているわけではないため、やって来れないわけではない。
しかし、問題は町に現れたことよりも怪我をしていたということだ。
「けど、怪我してたってことは襲われたんだろうし、一時的にでも匿ったほうがいいだろうな。黒妖犬のときみたく、『アイツ』に狙われても困るし」
「そうですね。任務も片付いたので、今から捜索に当たります」
「俺も」
「警邏にも声を掛けておきます」
才知が言う「アイツ」とはルーインのことだ。
道場に来たばかりではあるが、黒妖犬のときのようにルーインが新たな戦力を狙って人狼を襲っているのなら早急な対応が必要になる。
見つけやすいように、と悠が都季に外見の特徴を聞く傍ら、才知は普段であれば蒼姫と一緒にいる二匹について訊ねた。
「そう言えば、アッシュとシエラはどこ行ったんだ?」
「ここに来る直前で、シエラが『何か怖いものがいるから嫌』と逃げ出して、それをアッシュが追いかけたんです。何のことかと思いましたが、都季さんに残っている人狼の気配を感じ取ったみたいですね」
「ああ、それでさっき納得してたのか」
才知や蒼姫はさして気にならないが、まだ幼いシエラにとっては微力な霊力ですら恐ろしいものだったようだ。
気配で逃げるようでは、人狼そのものに会った時が不安ではある。
蒼姫はアッシュ達が帰ってきたらどこか別の場所に控えさせるか、と考えつつ、蒼夜と共に道場を後にした。