八話 人狼(ライカンスロープ)
この感情の名前なんて知らない。名前をつければ後に引けなくなるから。
傷つけたくないから知らないままでいい。
自分は、相手とは相容れることがないのだから。
青年は、公園の木陰にあったベンチに座り、消耗した体力を回復しようと休んでいた。幸い、周囲に人影はあまりなく、たまに少し離れた所を人が通過するくらいだ。
そよそよと吹く風が程よく体を冷やし、揺らいでいた視界も幾分かマシになった。
木々の多い公園は、幅の広い道が石畳で整備されており、散歩コースとしても最適のようだ。ここに来てから何組か散歩やジョギングをする人を見かけた。
ぼんやりとその様子を眺めていた青年だったが、ふと、頬を刺す感覚に眉を顰めて辺りを窺う。
(……なんだ?)
目を留めたのは、黒いスーツに身を包んだ童顔の青年だ。
こちらを見たまま歩み寄ってくる様子から、彼の目的は自分だろう。しかも、風に乗って漂ってきた匂いは近い種族のものだ。
ただ、敵意は今のところ感じられず、無闇にこちらから仕掛けるわけにもいかない。
まずは出方を窺うか、とじっとスーツの青年を見ていると、やがて彼は目の前で足を止めた。かと思うと、突然にっこりと人当たりの良い笑みを浮かべる。
「初めまして。特務自警機関、特殊精鋭部隊の岸原と申します。お兄さんは依人ですか? それとも……『幻妖』ですか?」
岸原と笑顔で名乗った青年だったが、それを一瞬で消し去り、言葉には警戒を滲ませる。
幻妖、と答えれば相応の対処を取ると言わんばかりに。
特務自警機関については耳にしたことがある。もう一つの幻妖世界に関わる局と似た組織だが、特務についてはより幻妖に対しては厳しい姿勢を貫くと。
「俺が幻妖だと、随分と確信を持って言うんだな」
「そう聞こえたならすみません。ただ、オルトロスが『一般人ではない』と言っていたので」
まだ彼の中でも、青年が依人なのか幻妖なのか見分けがついていないようだ。
ただ、彼が口に出した「オルトロス」については、青年も目にしたことがある。何年も前の上、ここではない場所だが。
「オルトロス……ああ、あいつか。手懐けるとは、なかなかの腕だな」
「ありがとうございます。なので、お兄さんとも仲良くしたいんですが……」
「断る」
「ですよね」
岸原が困ったように笑みを浮かべた直後、どこに潜んでいたのか、青年の左右に黒いスーツを着た二人の青年達が現れた。さらに、背後で火花が弾けたような音がしたかと思えば、電流を纏う巨鳥が最後の逃げ道を塞いだ。
右手側にいたのは、三人の中では一番スーツを着崩した青年だった。
「ほらなー? だけん、無理やって言うたやん。人払いしといて正解やな」
「すみません、桜庭副長。どうにか穏便に済ませないかなぁって思ったんですが……」
特務の組織形態はよく知らないが、随分と上の役職の者が出てきたな、と青年は警戒を解かずに様子を窺う。まだ口を開かない左側にいる眼鏡の青年は、一歩動くことも許さないといった雰囲気だ。
「穏便に済ませたいのなら、先に用件を言ってくれ」
「兄さんが理性的で助かるわ。で、用件なんやけど、最近、この辺で家畜の被害が出てるんや。一番新しいのやと養鶏場でな」
「養鶏場? いや、知らないな」
口に出す気はないが、ここ最近はずっと追われていた身だ。わざわざ養鶏場を襲う暇もない。また、昨夜は幻妖世界を知る者に助けられたが、すぐに家を出たのであまり証拠にはならないだろう。
彼らが目の前に来たということは、逃げている最中に近くを通ったのかもしれない。
「残念だが、俺とは別の幻妖だろう。あと、さっきの質問の答えだが……」
ゆっくりとベンチから立ち上がれば、眼鏡の青年が眉間に皺を寄せて身構える。岸原も半歩足を引いて、すぐに動ける姿勢になった。
唯一、桜庭だけが顔色も姿勢も変えずに青年を見ていた。
「幻妖か依人か、俺はそのどちらでもない」
「え?」
予想だにしない答えに岸原が小さく声を上げたのとほぼ同時に、青年を中心に旋風が起こった。
地面に固定されたベンチさえも揺れた強い風に、三人は思わず、腕を顔の前に翳したり顔を背けてしまう。
風はすぐに止み、あとには無人となったベンチだけが残った。
「うわ、雷鳥もやられてしもた」
ベンチの後ろに待機させた雷鳥は、跡形もなく消えてしまっていた。旋風に煽られ、さらに何かしらの攻撃を受けて霊力が霧散したようだ。
「何やあの兄ちゃんは。意味分からん」
「どちらでもないと言うのは……」
「初めて聞いたな。副長もご存知ないくらいだ」
必ず、幻妖か依人かで分けられるものだ。幻妖は異世界で生まれた人ならざるモノであり、依人はそれらの力や血を持つ者と。
三人の中では斎が最も依人歴が長いが、そのどちらにも属さない者は初めて見た。
「んー……なんか痕跡残してくれたら良かったんやけどそれもないし、一旦戻るか」
匂いだけでなく顔も覚えた。あとは、それを辿って探すしかない。
その前に、青年の言う「幻妖でも依人でもないモノ」について調べようと、斎達は公園を後にした。
「幻妖でも依人でもない、ですか」
特務に戻ってすぐ、斎は誠司のもとに向かった。
局と比べて新しいこの組織は、やはり幻妖に関する知識が局程はない。また、所属する構成員も大半が特体者だ。依人もいるにはいるが、半数を超えるほどはいない。
そして、依人の中でも唯一の血統者である誠司に、公園で出会った青年について報告をした。
誠司は、血統組の中でも有力な家柄である十二生肖の“辰”、辰宮家の出だ。今でこそその家から離れ、別の家に籍を移しているが、得た知識は変わらない。
何かしらの情報を持っていないかと期待を抱いたものの、彼の反応はあまり芳しいものではなかった。
考え込む誠司を見て、斎は溜め息混じりに呟いた。
「誠ちゃんでも知らんってなったら、俺らが知る由もないか……」
「うーん。何なんでしょう?」
「……背に腹は変えられん。『あちら』に聞きに行くしか――」
七海は「苦渋の決断」と言わんばかりに、公園の時よりも深い皺を眉間に刻みつつ、眼鏡のブリッジを指で押し上げる。そして、あることを提案しようとしたとき、総長室の扉が開かれた。
「月神なら局だ。器と一緒にいた」
入ってきたのは局に行っていた梓だ。さらに、どこから聞いていたのか、七海の提案をすべて聞く前に却下した。
「お帰りー。黒妖犬はおった?」
「ああ。問題ない。随分と丸くなっていた。あちらの調律師師長が片手で押さえられるくらいには」
「それはまた随分と牙抜かれとるな」
「ああ、思い出しました」
誠司は、考えながらも梓と斎の会話を耳に入れていたが、ふとある存在を思い出した。
かつて、まだ自分の苗字が辰宮だった頃。元々、家柄や能力の関係もあって、家には数多くの書物があった。恐らく、十二生肖の各家の中では一番保有していただろう。
誠司が思い出したのは、目を通しても大半の者が「活用することはない」と口を揃えていた本の一ページだ。
「幻妖とは、基本的には幻妖界に存在するモノですが、唯一、この世界で生まれた幻妖がいます」
「えっ? どういうことや?」
人間界では自然発生することはないはず。
梓や慶太、七海も頭上に「?」を浮かべて顔を見合わせた。
「そんなんおるん?」
「数はどの種族よりも少ないですよ。たしか……人狼と言っていましたか」
「へぇ、あれも幻妖としておるんやな。てっきり、依人を見かけた大昔の一般人が、想像で作ったやつかと思ってたわ」
依人で体の一部が変化する者もいる。特務の中にも何人かいたはずだ。
今でこそ、目にされればすぐに記憶を改竄する行動を取れたが、まだ文明も発展途中の大昔はそうもいかなかっただろう。
「でも、こちらで生まれたというのは……?」
「それについては諸説ありますが、人が誤って“歪み”に落ちてしまい、瘴気の影響を受けて幻妖としての力を得てしまったというのが有力でしょうか」
通常、“歪み”に入って無事で済む人は早々いないがゼロではない。
奇跡にも近い可能性から生まれた幻妖だ。
斎は漸く、青年が言っていた意味が理解できた。
「依人なら種となる幻妖がはっきりしとるけど、人狼はあくまでも、瘴気とその者が有していた霊力が混じり合って突然変異を起こしたもの。確かに、依人と呼ぶには難しく、かといって、幻妖と言い切るには元々が人間だから難しいってことか」
「ええ。一応、依人ではないので、文献上では幻妖として扱われていました。ただ、元々の個体数が少ないため、我々の間でも都市伝説のような扱いだったのです」
もはや絶滅したとさえ言われていたほどだ。そのため、辰宮家の誰もがあまり重要視していなかった。
誠司も最初こそ興味を持ったものの、いつからか記憶の奥底に追いやっていた。
「どうやら、ひっそりと生きていたようですね」
「『犬』って関連づくようなものがあったとはいえ、ようそんな希少種思い出したな?」
興味深そうに呟いた誠司だが、斎としては彼があっさりと思い出したことに戸惑いを隠せない。誠司の記憶力は血統のこともあってかなり良いが、果たしてどれほどの知識が彼の中にはあるのか。付き合いは長いものの、未だに誠司という人について掴みきれない。
感心する斎だったが、誠司にとっては思い出すきっかけが他にもあったに過ぎなかった。
「『都市伝説のような扱いだった』と言ったでしょう?」
「……過去形?」
「あっ」
まるで、今はそうではないという意味にも取れる。
首を傾げた慶太だが、そこで漸く、斎も過去のことを思い出した。
「はい。短い期間でしたが、以前、この町にもいたんですよ。人狼が」
「えっ!? じゃあ、先程の『ひっそりと生きていたようだ』というのも……」
「突然、行方を眩ませたので、もうどこかで命を落としているかと思っていました」
消息不明の上、人狼が人間に手を出すこともなかったため、問題ないとして気にしなくなった。
また、特務が強く出られなかった理由もきちんとある。
「依月に、その人狼について知っている人がいるはずですよ」
人狼には、局が『要保護対象』としてついていたからだ。