プロローグは未来から
「ねえねえ、先生…。…………ねえねえねえ、先生…」
それは遠い思い出。畳とホコリとかびた本のにおい。目を閉じるといつもそこにある光景。
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「おかあさん。おかあさん。また“くらきん”きてるよー」
「うっ…」
顔が引きつり、思わず情けのない声が漏れてしまった。こういった時の声というものが普段からさしてまともに上品に生きてない人間であったとしても思うものがある。
そんな自己嫌悪を知ったふうもなく、目の前の目にいれても痛くないかわいいわが娘が首を傾げ、見上げてくる。本当にかわいらしい。いっそ目の中に入れてしまおうか。それだと目の前のかわいさが見えなくなってしまうのでやめた。
「小路、あなた、まさか、いままさにここに私がいるなんて言ってないでしょうね」
「うん、まさにいまここにまさかなおかあさんがいるとは言ってないよ」
「まさかな母親とは、失礼ね。いつからそんなつまらない言葉遊びを覚えたのかしら?まあ、私がいないと言ってくれたならそれはいいわ」
わが娘は賢いのだ。母親の今の状況と、望んでいることをわかっているのだ。こんどチョコレートでも買い与えよう。そう、さきまでチョコレートが詰まった某棒菓子を。
「あいつは他には何か言っていた?」
「『あのやろう、ブッコロス』って」
「小路、そんな下品な言葉は今すぐここで忘れなさい」
なんという男だろうか。このようないたいけな少女の前でそのような言葉を発するとは。絶対に許しはしないわ。そう、たとえ高級な菓子折りをもってこようともよ。もう先っぽまでのチョコで喜ぶ年ではないのだ。…締め切りの延長であれば、少し考えはするけど。
「あとね、」
締め切りが延長され、悠々自適に暮らしている自分を思い浮かべていると小路の方から声がした。もう少しで、昼下がりの公園を満喫できたというのに。
「“げんこう”はいますか?って聞かれたから、いませんっていっておいたよ」
「それは」
思わず、大声を出してしまったが小路は全く動じない様子でこちらを見つめている。クリックリの目が私を見つめている。
「はぁ…」
思わずため息がこぼれた。
そう、わが娘は賢いのだ。わが家の今の状況と、やるべきことをしっかりわかっているのだ。デッドラインまでの日数も。先っぽまでつまった某菓子は中止にしよう。よくゲームで使われる方のチョコ菓子にしよう。途中までしかチョコがないやつだ。
そんな、目の前の子供よりも子供っぽい仕返しを考えながら机の上に乱雑に散らかされた原稿用紙と鉛筆に目を落とした。
真っ白。
そんな表現が似合うのは、レジ袋とこの原稿用紙以外にはないだろう。クリスマスに降る雪の方が、情欲だとか嫉妬だとかの色をしている。そう、真っ白だ、この紙屑たちから、希望も、この先の展開も、明るい家庭も、チョコ菓子だって見えてこない。本当に何気なく捨てられるポリエチレンくらい誰も見ない。
そんなくだらないことを考えながら一向に進まない原稿を眺めているとその二円くらいの価値の隣においてある携帯が鳴り始めた。
誰からかなど見なくてもわかる。
その忌々しい着信音を慌てて消そうとしたとき、伸ばした手は携帯ではなくその横に高く積まれた本に直撃し、それらを一気に床に落としていった。どすんというよりのガンとした大きな音が鳴り響いた。
玄関のドアの外から大きな声が聞こえた。
「やっぱり、いるんでしょう。くだらないことをしてないで、入れてください」
私は大きくため息をついた。そして、気の進まないままに立ち上がり玄関のドアに手をかける。開けたとたんに見えた顔に少し憂鬱になった。
「いい年をして、居留守だなんて大人げないですよ。橘さん」
「大人だから、居留守を使いたくなるのよ。……というか、そもそもまだそんな年じゃないし」
小声にはなるが、一応否定をしておく。
「あんな小さな子にまで、協力をさせるのは感心しませんね」
「私が、お願いしたわけじゃないわ。あの子が私がそうしてほしいのを察してやってくれたのよ。娘は賢いから」
「そうですね。そして締め切りが近いこともわかっていて、原稿が進んでないこともおしえてくれましたよ。目先のことしか見えない橘さんよりも賢いようですね。」
「そんなことは、あの子が生まれてくる前からしっているわ。そんな嫌味を言いに来たわけではないでしょう?はやくあなたのお仕事をしたら」
「期限を過ぎてる人に嫌味を言って、罪悪感と焦燥感を与えるのも大事なお仕事ですので」
家の中に入るように誘導をすると、そういいながら黒木は靴を脱ぎいつものように奥へ入っていった。
こういうところがにがてなのだ。黒木と話すといつも将棋の最後の一手で負けるような感覚を味わうことになる。こういう感情をおそらく「いけすかない」というのだろうと思った。
居間の方では、小路が入って黒木に対して座るように促しお茶を出す用意をしている。まだ小学生なのによくやるとわが娘ながらに感心してしまった。育て方がいいのだろう。きっとそうに違いない。
私もそれに続いて、黒木の前に座る。
「あの言葉は本当なんですね」
黒木は台所の小路を見ながらしみじみといった。
「なんのこと」
「あれですよ。親がちゃらんぽらんだと、子供がしっかりするというやつですよ」
「あなた本当にその口を閉じないと追い返すわよ。さっさと本題を話してかえってください」
「本題なんて、橘さんが一番分かっているでしょう。あ、小路ちゃんありがとうございます。『原稿は進みましたか。締め切りまであとすこしですよ。話の流れはちゃんと大丈夫ですか?』」
まるで、期待した応えが帰ってくるはずがないという機械的な声だ。
「そうね。できたといえばできたし、できていないといえばできていないわね」
「先生、そんな子供みたいな答えをさえても」
言われた瞬間に私は無言で黒木にことをにらみつけた。
「失礼しました。橘さん。前にお会いした時には、もう少しだとおっしゃっていたような気がしますが」
「あの時は、知人から面白い実話をきいたからいい題材になると思ったのよ」
「なんでしたっけ。余命宣告をされた女の子と、親に愛されなかった男の子の話でしたっけ」
「そうよ」
「そんな、いかにもな小説みたいな人達っていうのが現実いるものなのですね」
「いるみたいね。私も驚いたわ。現実は小説よりも奇なりってやつかしら」
「小説みたいであるという時点で、全然奇ではないと思いますけどね。それはそうとして、そんな小説を橘さんも書くのですか」
また私は無言で黒木のことをにらみつけた。黒木は咳払い一つをした。
「そんな物語を、橘さんが書くというのですか。正直、いままでの感じからしてらしくないと思いますけど」
「私自信も全然らしくないと思うわ。でもまあ、たまには違うことにも手を出してみないと思ってしまってね」
「それなら、書けばいいのではないですか。面白い面白くないはさておき、書くことはできるでしょう。『ただの思考実験』なんですから」
「昔にちょっと言ったことを、引きずるのはやめてほしいわ。性格を疑う」
黒木は見事な笑顔を浮かべた。ほんとに性格を疑う。
「そうなのだけど、なまじ知っている人だと状況推定以前にその人の顔がちらついてしまってやりずらいのよ」
「いいんじゃないですか。それはそれで個性が出て」
「でもそれじゃあ、きっと面白くはならないわ」
小路がさっきお茶と一緒に出してくれた茶菓子をほおばる。そのあまり上品とは言えない仕草を見て、顔をしかめながら彼は上品にそれを口へ運び、お茶をすすった。
「それは、橘さん次第でしょう。橘さんの物語はいつも面白いですが、一人一人が物語の歯車すぎる気がしますよ。たまには、じゃじゃ馬くらいを乗りこなすつもりでいかないと新たなことに手を出すとはいえないですよ」
「たぶん、きっと売れないわよ。そんなわかりにくいもの」
「こまごまとしたヒットもいいですが、たまにはホームランを狙うために大振りをしてもらいものですよ」
「あなた、相変わらず例えるのが壊滅的にセンスないわね」
恐らく、野球のヒットと小説のヒットをかけたつもりなのだろうが、いうほどうまくはない。
「物書きの人にそういわれてしまっては、仕方がありませんね。それでは、お願いいたしますね。私はこれから用事がまたあるので」
黒木は残りのお茶を飲み干し、席を立った。
「そう。私に嫌味を言いに来るくらいだから、暇なのかとおもっていたね。お早く帰ってくれるのはありがたいのだけれどね」
私も残りのお茶を飲み干し、立ち上がり玄関へと向かう。招かれざる客といえども、客人は客人だ。小路とともに見送りに行く。
「知っていますか、問題児というのはどこにもでもたくさんいるのですよ」
靴を履き、玄関のドアに手をかける前に黒木はそう言った。
「それはそれは、先生たちというのも大変でしょうね」
黒木はいつもの似合わない笑顔を向けた。
「締め切りは少ししか伸ばせませんので、頑張ってくださいね」
「頑張れって言葉は逆効果だって聞いたことはないかしら」
私の言葉を無視して続ける。
「小路ちゃんどうもお茶をありがとう。いつもながらおいしかったですよ」
「いえ、またおかーさんが怪しくなったら来てください」
その小路の言葉に黒木は苦笑いを浮かべた。また近いうちに来ることを思い浮かべているのだろう。いや、小路の方もそれを見越して言っているかもしれない。
「それでは」
そういった黒木は我が家から出ていった。開けたドアがガチャリと閉まる。
「あなたは将来苦労しそうね」
余りにも聡い愛娘みてそう言ってしまった。
小路はこんどばかりは本当に意味が分からないように、首を傾げていたがすぐに考えるのをやめて私たちが使っていた湯呑の片付けを始めた。
それを見ながら私もさっき携帯を取る際に崩して散らかした本や資料を片づける。夏目漱石や太宰といった古典から最近はやりの娯楽ものまでいろいろなものを雑多に積んでいく将来の大雑把さから綺麗に片づけるということはあまりできたことがない。綺麗に片づけてあるとするとそれは、小路が見かねて代わりに片付けをしてくれた時だ。実の親子であっても似ないところは似ないようだ。
そうやって雑多に積んでいると小路が台所から戻ってきた。
「また、そうやって適当に」
小路が少しうなだれる。
「あそこらへんの本みたいに綺麗に片づければいいのに」
小路が私の作業机の上の本棚に並べてある本を指さしながら言う。小路が指さした先にがガラス付きに本棚の中に綺麗に整頓されて本達が並んでいる。
「あそこらへんの本はめったに使わないから、ああなっているだけよ」
「めったに使わないならどうして、一番取りやすい位置においているの」
私は少したじろいだ。思わず、『勘の良い子はキライだよ』って言ってしまいたくなる。もちろんわが娘は大好きである。
「それは、まぁ。ちょっと特別だからよ」
本の少しはずかしくなってしまった。
「ふーん。じゃあ今度読んでみていい」
「まあ、いいけれど。ちゃんと、読んだら元の場所に戻すのよ。あと、手荒に扱ってはだめよ。それから、一度にたくさんとってもダメよ。ちゃんと一つずつ取って戻すのよ」
「わかったわ。おかーさん」
小路の口元は少し笑っていた。
「おかーさんって、変なこだわりが多いよね」
「なにそれ」
「だって、作家さんなのに先生って呼ばれるのを嫌がるし、お金だってあるはずなのにこんな家に住んでいたり」
小路が部屋を見渡しながら言う。
「小路は、大きなお家のほうがいい」
少し申し訳なくなってしまった。
「ううん。おかーさんが散らかす部屋が増えるのは大変だからそれはいいや」
笑顔でそういわれると少し悲しくなってしまう。
「先生って呼ばれるのはただ単に苦手なのよ。なんか偉い人みたいじゃない」
「作家さん何だから、えらいんじゃないの」
「うーん、好きで書いてるだけなのに、えらいと言われても困ってしまうのよ。私なんかよりももっと呼ばれる人が呼ばれるべきよ」
「よくわからないわ」
「そう?それにほらお家はなんか質素で和風で素敵でしょう。なんだか、文豪の家って感じよ」
「古くて汚い、の間違いじゃない?質素っていうならものを減らして整理をしないとだよ。これじゃゴミ屋敷の方がまだ近いよ。それにさっきえらく見られたくないって言ってた」
「母親の仕事場をゴミ屋敷とは失礼ね。偉そうに見られたくはないけど、文豪にはあこがれるものなのよ、作家は」
崩れた本を雑多に積み終わったので一つ伸びをする。
「よし、じゃあお母さんはお仕事をするわ。後でまたお茶を頂戴ね。早く原稿を書かないとあの陰湿メガネにまたグチグチ言われてしまうし」
そういって、鉛筆を握り、原稿用紙を埋めていく。
「ねえおかーさん」
「なにかしら?お母さんの部屋の汚い話ならもういいわよ」
「ううん。最後にひとつだけ」
「なに?」
「どうして、おかーさんは小説って呼ばないの?」
「…」
娘の言葉に無言になってしまった。そんな私を心配したのか浮かない顔で小路がこちらをのぞいてきた。顔をよこに振ってゆっくりと答える。
「ううん。少し懐かしくなってね…」
私は右の手を小路の頭の上にのせた。小路は少しくすぐったそうな、でも幸せそうな表情を浮かべる。そうだ。頭に手を載せてもらうのは幸せな気持ちになるものだ。わたしもよく知っている。そのままその小さな頭を優しく撫でながらいう。
「私は小説なんて“まだ”書いていないのよ。私が今書いているのは、ただのお話。これを私を小説とは呼ばないのよ。こんな小さな私でも何か伝えたいことができたときに、その時に私は最初で最後の“小説”をかけるのでしょうね」
いつも人の言葉には何かを返す小路が黙って考え込んでいる。それが少し可笑しくて、かわいくてついついにやけてしまう。私の手のひらの下にいる頭のいい愛娘でも私が何を言っているのか理解できなかったみたいだ。
それはそうだろう。私だってわからなかったのだから。こうやって、小路の頭をなでながらこんな話をしていると思い出してしまった。小路と全く同じことを聞いた時のことを。畳とほこりとかびた本の匂いと一緒に過ごした大切な時間を。そして私の初恋を。いつかこの子にもそんなときが来るのだろうか。