02 『日陰に咲く花(2)』
カナタが朝起きると初めにすることは決まっている。顔を洗い、うがいをすることだ。部屋に備えつけの水道へと向かい、彼はそのいつもの日課で一日をスタートさせる。しかし今日はその続きがいつもと違う。彼はトオルとサクラへあることを提案しようとしていた。その提案は幾つかあるのだが、一番大事なことはこの宿についてのことだ。
「ということで、僕たちはこの宿を盛り上げるために手伝うというのはどうだろう」
「つまり、旅の準備ができるまでの間に手伝えるだけ手伝おうということか」
「私は賛成かな。時間があるなら、だけど」
「時間は十分にある。こうやって誰かの生活を守るのも魔法使いの役割でもあるしな」
トオルは両手を腰に当てて胸を張っている。
「モンスターなんて出てくる場面ないけど?」
「守るってのは広い意味での守るだ。魔法使いはただ単にモンスターと戦ってさえいればいいわけじゃねえからな」
サクラの「たまにはかっこいいこと言うじゃん」という言葉に、「まあな」と満更でもなさげだ。
「じゃあお言葉に甘えて、トオルもサクラも問題なし、と」
カナタはよしと小さい声で自分に確認しながら気合を入れる。前置きを一つ入れてサクラを見る。
「えっと、サクは買い出しに、ヒトハさんと行ってもらう。食材の目利きみたいなのを教えてあげられればいいと思う」
トオルはぼそっと「料理は教えらんねえしな」と突っ込むと、サクラは「なんか言った?」と笑顔でトオルをいなす。その笑顔が逆に恐ろしくもある。
「話聞いて」
トオルは「わりい」と片手を掲げて謝る。カナタは一息つくと再び話し始める。
「トオルはこの旅館の掃除がいいと思う。背丈もあるからここの人たちでは届かない場所とかも届くだろうし、魔法でうまいことできることもあるかもしれない」
「なるほどな」
トオルは小刻みに頷いている。カナタの言葉を咀嚼しつつ、自分の出来ることを考えているのだろう。トオルは「カナタは?」と返す。
「そこで質問なんだ。僕は何をするのが一番いいだろう。無難なのはトオルの手伝いをすることなんだけど」
「それでいいんじゃない?」
「とりあえず掃除をして、それから先は終わってから考えればいいんじゃないか」
一呼吸おいてカナタは「それもそうだ」と納得する。
カナタはそれから幾つかの提案や気づいたことを話した。それに対してトオルは「一理あるな」と頷いていたり、サクラは「そうなのかもね」と悲しげにしていたりした。
朝食が終わる頃、カナタは配膳を片付けようとするヒトハに提案した。
「しばらくここに泊めてほしいんだ。旅を続ける上での支度を整えるために。迷惑かもしれないけど」
「本当に? 全然迷惑じゃないよ。お母さん呼んでくるね」
ヒトハがフタバを呼んでくると、カナタは事情を説明する。
「旅の準備に時間がかかりそうで、しばらくの間ここに泊めてほしいのですが……」
「ありがとうございます」
フタバは深々と頭を下げる。
「それと、旅の準備の合間と言っては何ですが、こちらの旅館のお手伝いをさせていただきたいんです。もちろん迷惑でしたら辞めますが」
フタバは隣にいるヒトハと目を合わせている。少し混乱しているのかもしれない。
「えっと、こちらこそ、そんなことを頼んでしまっては迷惑ではない?」
「いいんですフタバさん。私たち、好きでやってることなんで」
「いえ、でも……」
フタバさんはなかなか了承しない。急な申し出だからか、少し困惑気味だ。
「むしろ何か事情がおありで手伝ってほしくないのであれば――」
「いえ、そんなことはないのだけど……」
他人のただの好意を受け入れるのは難しい。その裏にある意図を考えたり、バランスを取ろうとしたりしてしまうからだ。その折衷案を見い出せるかどうかに、この申し出がうまくいくかどうかにかかっている。
「じゃあ、フタバさん。こういうのはどうですか」
トオルが何かを考えていたようだ。
「俺らは旅館のお手伝いをする。フタバさんたちは俺らをただで泊める。そうすればどちらも嬉しいんでは?」
サクラは「ちょっと、ただってのはさすがに」と申し訳なさそうにフタバとトオルの顔を交互に見ている。
「僕もただってのはさすがに失礼だと思うんで、とりあえず手伝わせてもらって、その先はそれから考えるってことでどうですか」
フタバさんは優しそうな笑顔を見せる。
「それじゃあお言葉に甘えさせてもらってもいいかしら。よろしくお願いしますね」
三人はお互いの顔を見合わせて小さく頷く。
「よし、善は急げだ」
トオルはそう言うと立ち上がる。
「ヒトハだっけ? ヒトハはサクラと料理に使う食材を買ってくるといいよ。サクラは食の目利きとか知識に関しては一流だからな」
「なんとなく『は』に悪意を感じたんだけど」
トオルは「気のせいだよ」と言って笑う。
「俺とカナタは旅館中の掃除をします。フタバさんは――ゆっくりしててください」
「あら、でもあなたたち旅の準備があるんじゃ……」
「俺たち、やりたいことからやるのがモットーなんで」
トオルが高らかに宣言すると、サクラは「そういうことにしとこっか」と言う。カナタは笑いながら頷く。
サクラはヒトハとすぐに出かけることになった。昼食前には帰ってきて昼食を作る算段だからだ。
カナタとトオルも二人が出かけると早速掃除を始めた。
まずは看板をきれいにする。蜘蛛の巣を棒で払いのけ、水と布で汚れを落としていく。看板を下ろして掃除するのは縁起が悪いとトオルが言うので、はしごを使って高い位置のまま布巾で拭いていく。徐々に「コノハ」の文字が鮮明になる。
ある程度きれいになると、サクラたちが楽しそうに会話しながら帰ってくるのが見える。カナタたちを見ると「お昼はタケサカウシだよー」とサクラが言う。トオルが「いいねえ」と笑みを浮かべる。カナタたちは一区切りして、店先を整えることにした。箒で掃いたり、入り口の戸を拭いたり、と。しばらくすると中から「お昼だよー」との声がする。トオルの腹の音に二人は笑った。
大広間には人数分の配膳台があり、そこにはすでに料理が並べられている。その一つにトオルは座ると「美味そうだ」と言った。
彼らの目の前にあるのは牛の肉が焼かれてソースがかけられているもの。それと、数種類の野菜を炒めたもの。あとは淡黄色のスープだ。
「おまたせ」
そこにパニーのようなものを持ったサクラとヒトハが現れる。
「それは?」
トオルが聞く。
「これは一応パニーなんだけど、水で練って焼いただけのものだからそんなに膨らまないの。味もそこそこ。でもこれから美味しいパニーだけを食べるわけじゃないから二人にも食べておいてほしくて」
「それって失敗したってわけじゃないよな?」
「本当にこういうものなの! まったくトッくんはいっつもバカにして」
サクラはぷいっと顔を背ける。ヒトハがいるからかいつもより物腰が柔らかい。
「フタバさんは?」
「四人でおしゃべりしながら食べたらって」
「そっか」
「はい、じゃあ注目」
サクラはパニーを置くと、右手をちょこんと挙げて視線を集める。
「今日のメインはタケサカウシです。タケサカウシは上質な脂とその色合いが特徴ね。焼いてもほんのり赤いというか、むしろほんのり赤いくらいにしか火を通さないのが一番美味しいとされてるの。赤身も脂も口の中ですぐにとろけるほどで、高級品と言われてるものも多いわね」
「なるほど。でもそんな高級品なんて買えるのか?」
「はい、その通り。私たちの持っているお金ではそんなに高いものを買う余裕はありません。ただしお肉にはランクというものがあって、高いランクのものには手が出せないけど低いランクのものならまだ手が出せるわけ。もちろんそれでも高いけどね」
「でも低いランクのものはそこまで美味しくないからランクが低いんでは?」
「美味しくないは言い過ぎかな。でも今回はその低ランクでもそれ以上に美味しいこともあるってことを証明しようと私たちは二種類のお肉を買ってきたの。一つは適当に選んだ本当に低ランクのお肉。もう一つは、私の眼に狂いがなければ本当は高ランクのはずなのに低ランクになっていたお肉」
「低ランクの中に高ランクが混ざっているってことか? そんなことあり得るのか?」
「うーん。完全な説明ではないけど、だいたいそういうことかな。あとは食べてみてからね。私も味を見てみたいから」
ヒトハはなるほどとでも言いたげにサクラの一言一言にちょこちょこ頷いていた。
「じゃあ食べてみようか」
四人は合掌して、各々の前に出されている肉を見る。
「そうそう、左半分が低ランクだと私が思うお肉ね」
全員がそれをフォークで刺すと、恐る恐る口へ運ぶ。
口に入れて噛むと柔らかいことが瞬時に理解できる。その肉の柔らかさにカナタは驚いた。その上、かけられていた茶色のソースの酸味と甘味が肉の濃厚さに絶妙にマッチしていて脂っぽさを全く感じさせない。
「これはうまい」
「でしょ? タケサカウシは低ランクですらこの美味しさなの。もちろん本来は高いものなんだけど、お店の人が安くしてくれたんだよね」
そう言ってヒトハに同意を求める。ヒトハは「ねー」と言って同意する。
「これパニーにも合うな」
トオルはすでにパニーに手を付けている。
「お肉だけで味わうのが一番いい食べ方とされているけど、パニーにも合うし、たいていのものなら合うんじゃないかな」
「こっちも食べるよ?」
カナタは右半分の一切れをフォークで刺す。そしてそれを口へと運んでいく。さっきの肉より美味しいということがどういうことなのかカナタにはまだ想像がつかない。
それを口の中に入れて数回噛むところでカナタは納得した。目線をサクラへと向けると、むしろサクラのほうが親指を立てて笑顔を見せている。
その肉は数回の咀嚼ですべてほどけたと言えるだろう。口の中で起こるありとあらゆる肉への衝撃が、その大小にかかわらずすべてその肉をほどいていった。その現象は融けたと表現しても過言ではないかもしれない。そしてその肉から流れ出る脂はまさに極上のスープといえる。先ほどの肉は脂っぽさを抑えるためのソースでしかなかったのに反して、このソースは肉の脂の美味さを最大限に引き立てている。
「全然別物だ。確かに、さっきの肉はさっきの肉で美味しかったけど、この肉は全くの別物と言ってもいい。それほどにまで違いがある」
「どっちも美味いことには変わりねえけどな」
トオルはそう言うとむしゃむしゃと食べている。トオルには食べられるか食べられないかしかないのだろう。
「本当に美味しい。さっきのとは全然違う」
ヒトハもその舌をもってしてサクラの力を実感しているようだ。
「ということで、私の目利きが証明された、と」
「でも、なんで低ランクのところに高ランクのお肉があったの? おかしいよね?」
「では解説しましょう」
サクラはノリノリだ。カナタもこの話には不思議と興味が湧いた。
「まず、お店の人は行商人からお肉を仕入れます。高い値段のものはより高く、安い値段のものも少し高く値段を付けて売値にします。この差額が利益ね」
商売の基本だ。仕入れ値と売値の差額が利益になる。そうでもしなければ物を仲介して売ることにメリットはない。
「このとき、このお店の人はその値段でさえ売れればいいの。お肉のことは見ていないことが多い。ではお肉のランクは誰が付けるのでしょうか」
「行商人の方かな?」
「うーん、半分当たりで半分はずれ。そういう場合もあるけど、たいていは生産した人と行商人が話し合って判断するの。ここで大事なのは明確な基準がないということね」
「基準?」
「例えば『ここがこうなら最上級』みたいな明確な基準はなくて、生産者と行商人の二人の眼がすべてなの。これはいいものだとか悪いものだとかは、すべてその人たちの判断で決められる。だからそこで見極め間違えると――」
「間違って高ランクのものが低ランクとして売り出される、と」
「そういうこと」
ふと疑問に思ったことをカナタは尋ねる。
「それって逆のこともありうる気がするな。低ランクのものが高ランクのように売られるみたいな」
「……残念ながらあるのよ。やっぱりどこにも性根の悪い人はいるみたいだし、人が決めていることだから間違いがないなんてことはないの。低ランクのものを高ランクのものだと言われてうっかり買っちゃう人もたくさんいるからね」
「想像するに、初めっから高ランクしか売ってなかったりとかすると先入観で勘違いしそうだね。僕らにはサクがいるから間違えることはないだろうけど」
サクラは「ま、まあね」なんて言いながら照れる。
「だから何がいいもので何が悪いものなのかを見極める眼みたいなのを鍛えられれば、多少腕が悪くとも安価でそれなりのものが仕上がるわけ。素材がいいから」
これについてはカナタがあえて突っ込むことはない。その代わり「誰のことだかなー」とトオルは言っていた。
「サクは子供のころからずっといい素材を見てきたから、だからこそ悪い素材が目に付くんだね。それでいいものがわかる、と」
「たぶんね」
「サクラちゃんのおうちはすごい料理のお店だったんだね」
「もちろん。王都では結構名が知られてるのよ」
サクラは鼻高々だ。自慢げにしている。それに事実なのだから誰も否定できない。
「わたしもいい料理人になれるかな?」
「練習すればきっと大丈夫だって」
同志ができたようでサクラもヒトハも嬉しそうにしている。
「それじゃ、料理も冷めちゃうし早く食べちゃおう」
「それもそうだね」
二人は仲の良い友達のようだ。いやもう仲の良い友達なのだろう。ずっと昔から仲が良かったようにすら見えるから不思議だ。
その後も他愛のない会話を続けた。この町のことだとか、王都のことだとか。あるいは、トオルが実は魔法使いだということとか。
一通り話し終えると、トオルは一足早く食べ終えていた。
「今日の料理は美味かったな。サクラはこの数日間でかなり上手くなったんじゃねえの?」
珍しいことにトオルがサクラを褒めていたが、「私今日作ってないんだけど」という言葉と右ストレートが返されていた。