プロローグ3 『平穏の失墜』
帰り道。その途中までは平和だった。
しかし、町に近づくと、黒煙が上がるのが見える。轟轟と地響きがするのもわずかに聞こえる。遠く、町のほうにかすかに見える影は蟻のように動いている。
不穏な空気が漂うにつれ、カナタたちは足を速めた。肌に伝わる無言の緊迫感は、彼らの鼓動も加速させる。
近づくにつれて明らかになることがある。地響きのような音は歪に組み合わせられた人の靴音だということ。黒煙はどうやら東門ではなく、その奥の町の南東部から発生しているものだということ。そして、それは今までにない出来事だということ。
「煙がひどいな。緊急事態ってやつか?」
トオルはいつになく真面目な顔で言った。
東門に到着した彼らは衛兵に話を聞くことにした。彼は「危険だから城のほうに、あるいは、町の南東から遠ざかるように逃げてください」とだけ話してくれた。衛兵の焦り具合がただならぬ状況だと言うことを物語っている。
「とりあえず城のほうに一旦逃げようぜ」
トオルがそう言うと、カナタとサクラは頷いた。
大通りはいつもとは違う雰囲気ではあったが、それでもやはり人がごった返していた。悲鳴のようなものも聞こえ、我こそはと城の中に逃げるもの、恐怖で立ちすくんでしまって泣く子供、そしてそれをあやす大人もいる。阿鼻叫喚を絵にすればまさにこのことかもしれない。
辺りをうかがいながら城へと走るカナタの目に一人の子供が映った。身長の低さから年の低さがうかがえる。泣きながら座り込んでしまっているようだ。状況を見るに親とはぐれているのだろう。この騒ぎの中で親が子供を探すことも容易ではない。カナタは二人に「ちょっと待って」と言って、その子供へと走って行った。近づいてみるとその声色から女の子だとわかる。本来はきれいであったであろう薄い赤髪や着ている水色の服が泥でくすんでいる。カナタはゆっくりと近づき、肩を優しく叩くと声をかける。
「泣かないで。一人?」
女の子は泣くのをどうにか我慢しながら、カナタを見る。そうして口をすぼめながらカナタを見つめて小さく頷く。隣に来たサクラも声をかける。
「泣くのを我慢できるなんて偉いね。きっとママとパパはお城に行けば会えるから、お城までは泣かないで頑張れるかな?」
「お城?」
「そうだよ。今みんなお城にいるから、きっとそこにママとパパもいるよ」
「お城行く」
「じゃあお城までは泣かないで頑張ろうねー」
サクラの言葉に女の子は「うん」と首を縦に振った。
このまま子供を走らせるとすれば移動手段に少し難が残る。この人混みの中ではそれは危ないだろう。かといって子供ではあるものの、おんぶしたり抱えたりして走ることはカナタにとっては容易ではない。
「ということで、トオル、頼むよ」
「そんなとこだろうとは思ってたよ」
トオルは女の子に背を向けてしゃがむと、「ほれ。お兄さんに乗ると速いぞー」などと言った。サクラはニコニコしながら「大丈夫だよ。安心して」となだめている。女の子が恐る恐るトオルの背にしがみつくと、トオルは何事でもないようにひょいと立ち上がる。
「鍛冶屋よりも力のある魔法使い。わけわかんねえな」
「僕はまだ見習いだから」
「俺だってまだ見習いだよ」
そんなことを言いながらカナタたちは城へと向かった。
道中の混雑にも負けずにどうにか城にたどり着くと、女の子の親を探すことにした。すぐに見つかるかがカナタたちには不安だった。長引けば女の子がまた泣き出してしまう心配があった。
ただ、この不安はすぐに解消された。心配していた両親が城内の入り口付近で必死に子供を探していたからだ。
「ママ! パパ!」
女の子がそう言いながら指差した先に、彼女の両親はいた。「ありがとうございます。ありがとうございます」と何度もお礼を言う彼らに、「非常事態ですから」と言ってトオルは軽く頭を下げた。無事に女の子が両親と会えたことにカナタは安堵した。
「サクラも親を探して来いよ。きっと心配してるぜ」
トオルの言葉に「そうだね。また後でね」と返事をして、サクラはその場を離れた。
「トオルはどうする?」
「俺は現場に行く。たぶん俺の親父もおふくろもそこにいるんじゃねえかな」
トオルが興奮しているのがうかがえる。自分の力を誰かのために使える初めての機会に武者震いしているのだろう。
「カナタはどうするんだ? 南東ってお前の家のある方向じゃねえの?」
カナタは自分の身に降りかかった事態の深刻さをこのとき初めて理解した。カナタの住む家でもある鍛冶屋は南東の一角にある。南東のほうから煙が上がっているのであれば、今回の騒動に店が巻き込まれている可能性も十分にある。そして、そこには父親がいたはずだ。
「父さんのことだから、まだそこにいるかも……。僕も行くよ」
「急ごう」
城の入り口で、「クラティア家の長男トオルです。緊急時のため馬を借してもらいたい」とトオルが言うとすぐに馬を借りることができた。馬小屋の番をしている兵が「ク、クラティア家の方ですか」などと驚いているのを見て、トオルの家系はよほど高貴なものなのだろうとカナタは考えていた。
現場までは無言だった。その無言でカナタは緊急事態であることがさらに強く感じられた。
煙の元に近づくにつれて、状況が把握できるようになってくる。
かなり広範囲で火災が発生していて、それによって立ち上る煙に視界は狭められている。何人もの魔法使いや騎士たちが辺りを取り囲んで状況の確認をしているようだ。風魔法を使える一部の魔法使いは煙をうまく排除しようとしているが、今のところ大きな効果は上げられていないように見える。
「トオル!」
しばらくその光景を眺めていると、少し離れたところから声がした。トオルの父親だ。大声でこちらに向かって叫んでいる。
「ここは危険だ。あまり近寄るな。お前の適性では火災は相性が悪い。住民の避難を優先させてくれ」
トオルも大声で「わかった。親父も気をつけろよ」と答えた。
「火災が発生しているみたいだな。念のためにカナタの家のほうを先に見よう」
トオルの提案にカナタは「ありがとう」と言って頷いた。
カナタの家の近くはほとんどが全壊していた。なんとか半壊で済んでいるものもあるが、それらの崩れ方は火災のものとは思えないほどひどい。木造の建物などは当然のようにほぼ焼き尽くされている。石造りのものも炎で焼かれて黒焦げになり、崩れているものが多い。そして瓦礫の山となっているその一帯は異常な煙の量と相まって、現実とは思えない異質な空間に染まっている。人の手には負えない自然の脅威とも言えるような、そんな非日常的な空間にカナタは恐怖する。
ふと一人の影が目に入る。カナタの父親のようだ。一振りの剣を両手で握りしめ、煙の奥側に対峙しながらこちらに背を向けている。
「父さん!」
カナタの呼びかけに父親は振り向くと、「来るな! 逃げろ!」と叫ぶ。その方向をじっと見つめると、カナタの恐怖は限界を超えてしまう。こちらに振り向いた父親の背後に、得体の知れない怪物がその姿を現したのだ。
それは人の背丈の数倍はある。二本の太い足を交互に、大地を踏みしめるようにしてその図体を前進させる。三つ目の眼光は鋭く、周りの状況を一瞬たりとも逃さないようにギョロギョロと動いている。ニタニタと笑っているような口には数えられないほどの歯が不規則に並んでいて、その一本一本がのこぎりのようにギザギザとしている。両手両足は四本の指からなり、その爪の鋭利さからは容易に死が連想される。人のなりはしているものの、両の手をだらっと垂らし、人とは程遠い存在。そんな怪物とカナタは一瞬目が合う。カナタが感じたのはもはや恐怖という言葉で表せる感情ではなく、ただただ何か受け入れがたいものを受け入れなければならないような、そんな圧力を持った狂気のようなものだった。
次の瞬間。衝撃的な光景がカナタの目に映る。最も恐れていた、最も最悪の事態が。カナタはなぜそうならなければいけなかったのか、理解ができないし、その光景を受け入れることもできない。
怪物の指が貫いたのだ。カナタの父親の体を。
呆気なく。
まるでおもちゃでも扱うように。
鮮やかな赤が怪物の指を伝わり、そのしずくが爪から地面に落ちる。カナタの父親は動くことすらままならなかった。カナタの父親の顔から生気が失われていく。
「とう……さ……」
カナタは頭が真っ白になった。あまりの唐突さと呆気なさがこの非日常をより色濃くし、それに頭が追い付いていない。涙が流れることすら起こらない。目の前で起こっていることがまったく理解できていないに等しい。
父親の体は指に貫かれたまま高々と掲げられる。そして怪物の腕が振り下ろされると凄まじい勢いで地面に叩きつけられる。怪物は不気味な笑みを浮かべている。あたかもこの殺生が快楽であるかのように。
カナタは冷静な状態を保てなかった。トオルは想像を絶する悪の前に体の自由がきかなかった。
「うおおおおおおお」
次の瞬間にはカナタは馬を走らせていた。何ができるわけでもないが、勝ち目だとか敵う相手だとかそんなものはもはや何の意味も持たなかった。怪物の、何も意に介さないあの笑みに無性に腹が立って仕方がなかった。心の奥底から湧き出てくるその嫌悪感をどうにかするには、この怪物にすべてをぶつけるほかにないことだけは鮮明に理解していた。走らせた馬の勢いのまま、カナタは自分のありったけの力と思いで殴りかかろうとする。
――しかし、カナタに何かができるわけでもなかった。
造作もなく馬ごと鷲掴みにされたカナタは為す術を一瞬のうちに失った。もがこうにも圧倒的な握力の前に、それはないも同然だ。そこにあるのは歴然とした力の差だけ。そして、それが意味するものは一つ。
目の前にある逃れることのできない死の恐怖をカナタは感じ始めていた。
まず、馬が殺された。カナタから引きはがされるように馬だけが刺突され、父親と同じように投げ捨てられた。怪物はやはり狂った笑顔を見せている。その三つ目に見つめられたカナタはすでに怯えることしかできない。怪物はそれを嬉しそうに見つめている。
トオルはふと状況を理解し始めたのか馬を走らせた。
まだ習いたてとはいえ純血の魔法使いであるトオル。その全身全霊を使い、高速で近づいてはその腕に殴りかかろうとしている。彼も血筋のある人間だ。カナタを助けられるような、一矢報いることぐらいならできるという希望があるのかもしれない。
「カナタを、はなせえええええ」
そのスピードは申し分なかった。殴ろうとするその瞬間までトオルの頭の中にはこの怪物の目にものを見せる未来が想像できていたに違いない。
――だが、現実は異なった。右腕に殴ろうとするその瞬間、怪物の左の手で無情にも未来は砕かれた。咄嗟の判断によって肉体を貫かせることからは免れたものの、その爪の甲で弾かれた衝撃はトオルの想像を絶しただろう。結果的に叩きつけられることとなったトオルは、瓦礫を背に動くことができない。
もはや二人に勝つすべもなければ取る手段でさえもなかった。
現実というのは二人が思っているほど優しいものではなく、何か特別な訓練を一つも受けていないちっぽけな十五歳の子供にできることなど限られていたのだ。逃げ出すという選択肢すら失ってしまった二人を前に、怪物はニヤッと笑った。
カナタは死を覚悟した。
直後、突然風が起こる。それと同時にカナタは自分の体に受けていた握力がなくなっていくのを感じた。
怪物の右腕が切り落とされているのだ。怪物の手から解放されたカナタはそのまま落下する。しかし、地面に叩きつけられる前に誰かに受け止められるのを感じる。
王アレスだ。
「間に合ったか。もう大丈夫だ、安心しなさい」
そう言ってカナタを側に降ろすと、とてつもない速さで目の前の怪物を処理する。そのあまりの速さに、カナタたちは呆然とした。王が王たる所以というのを実感した。
「君たちに気を取られていた魔物に、最初の一撃を決めることができたのが勝因だ。ありがとう。あらかたの魔物は片付いてきたが、残党もいる。安全な場所に移動することをお勧めしておこう」
アレスはすぐにその場を去った。おそらく他にも魔物がいるのだろう。
その後、あまり時間をおかずに来た救急隊から彼らは手当てを受け、二人はその場を去ることになった。
戦闘はそのあともしばらく続いたようだったが、二人は何も話すことはなかった。