11 『リパージュ(1)』
目覚めは他の日と比べてすっきりしていた。今日という日はおそらく自分にとって忘れられない日になる。そんな予感がカナタを興奮させている。
朝食を呼びに来たサクラは「こっちは順調だよ」とカナタに知らせた。今日の勝負は完全にヒトハの腕にかかっていると言っていい。そのことには申し訳なさを感じつつも、カナタはもう悩むことはなかった。呼びに来たサクラには「期待してる」とだけ答えた。
勝負の時間まで、カナタたちは気が気でなかったが、少しずつその時間は迫ってくる。
昼食が終わればエステストに向かう頃合いだ。コノハの近くには北西の出入り口があるため、南西や東と同じように時計がある。その時計で時間を確認しつつ、出発の準備を始めた。
「それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。ヒーちゃん、頑張ってきてね」
サクラはコノハで待つことになった。フタバだけでは宿の仕事をこなせない。客が来たときや料理と、誰かが手伝わなければならないことがいくつもある。それにはサクラが名乗り出た。サクラが言うには、カナタとトオルはボディーガードだそうだ。
「頑張ってくるね」
ヒトハが応える。とはいえ、為すべきことはほとんど終えている。あとは料理を食べてもらって結果を待つ。それだけだ。
リパージュの入った鍋は底が深いもので、重さを考えてトオルが持つことになった。
「あとは結果を待つだけか」
カナタは緊張を押し殺すようにして言う。
何もすることがないとはいえ緊張はするものだ。この勝負で一区切りがつくのだから。良い結果であれ悪い結果であれ、自分がこれまでにしてきたことに一つの終止符が打たれる。そう思うとカナタは余計に緊張した。
「まだ何かできるかもしれないぜ? 最後まできちんとやり遂げなくちゃな」
「もう僕たちにできることはないよ」
カナタが笑って答えたそのときのことだった。
通行人の肩とトオルの肩がぶつかった。着ているマントが翻り、トオルが大きく体勢を崩す。手に持っていたはずの鍋はその支えを失い、重力に任せるままに落下する。ヒトハが「あっ」と小さく声を上げる。カナタはその光景に言葉を失う。
当然ながらこの料理を失えばカナタたちに戦うすべはなくなる。今、その唯一の武器でもあり、唯一の希望でもある料理が、無に帰そうとしている。
カナタが手を伸ばしても鍋までには届かない。現実は想像するよりも呆気なく終止符が打たれてしまうものだ。そう考えようとしていた。
地面から氷のツタが生えてくる。まるで早送りしているように成長するそのツタは、鍋を巻き上げると同時に落下するのを防ぐ。程なくして鍋は完全に空中で静止する。
ほんの数秒のことではあったが、とても長く感じた一瞬。トオルは息を吐き出して言う。
「まだやれることはあるだろ?」
確かに、まだ料理の勝負は始まっていない。無事に始まって無事に結論が出されるまで、まだ気を抜いていい瞬間などないのだ。
「だ、大丈夫?」
ヒトハが心配そうにしていて、しかも驚いている。あまり事態をよく把握できていないようだ。
「なんとか」
「危ないところだったな」
一安心すると同時に、カナタは周りを見渡す。しかし、ぶつかった男は見当たらない。他人にぶつかっておいて謝りもしないとはどういう了見かと思っていたところ、トオルが言う。
「わざとぶつかってきたような気もするな」
「わざと?」
「これが向こうのやり方かもしれない。俺たちを完全に負かしに来ているんだろうな」
それが事実かどうかはわからない。ただ、まだ何も始まってないし終わってないことをカナタは実感した。
まだもう少しばかり距離はあったが、慎重に運んだおかげか、その後は特に危険なこともなくエステストにたどり着けた。
エステストに入ると部屋に案内される。入り口を入って左手のほうには食堂のようなスペースがあり、一時的にそこが調理室のようなものになっている。机や椅子はすべて片付けられていて、広い空間に調理スペースが少しだけ。おそらくエステストの調理室で同時に作ることを避けるために用意したのだろう。部屋の中はまさに必要最低限のものしかない。調理台と簡易かまどのようなものがあるだけだ。
「ひどい調理室だこと」
そこで何かを調理するなんてことはままならないだろう。
「もし昨日の夜からここで作ろうなんてことになってたら、何もままならなかっただろうな」
「そんな選択肢はなかったけどね」
机の上に鍋を置くと、ヒトハは味見をする。
「ちょっと冷えちゃったね」
「さっきの氷で少し冷えたかもしれないな」
「温めなくちゃかな。えっと、火は……」
かまどはある。しかし、火を付けるものがない。薪もなければ火種もない。見渡す限りでは何も見当たらない。
「かまどがあるだけのように見えるけど」
「ひどい調理室だな。ただ、かまどがあれば十分だ」
トオルはかまどを左手で叩いて言った。
トオルが右手に小さな火球を作り出す。そしてそれをかまどに近づける。
「鍋、置いて」
カナタは机の上の鍋を持ち上げて、それをかまどの上に乗せる。
火が大きくなる。あたかも薪があるかのようなほどに。
「ヒトハは料理の具合を確認して、カナタは時間の確認とかを頼む」
カナタは食堂にある時計を確認しながら思う。あと少しだと。
おおよそ対決の時間になると二度のノックと共に一人の男が姿を現す。男は「時間です」と告げると部屋を出て行った。
会場はエステストの店前のようだ。トオルが鍋を持ち、三人は店の前に移動する。
そこにはすでに人が集まっている。時間帯としても大勢の人が賑わうこのリパの町で、一際人が多くなっている。見ている人たちはたまたま通りかかった人もいるだろうが、おそらくこの町の人もいるだろう。会場を円形に囲みながらざわざわと話をしている。
エステストを出ると左側に案内される。台が置いてあるので、カナタはそれを軽く押す。そうやって安全性が確認できると、トオルに鍋を置くように促す。すでに反対側には相手の料理人たちが出ていて、準備は万端だ。会場も徐々に熱気が高まっているような印象がある。
不意に声がかけられる。
「無事にたどり着いたようだな。おめでとう」
このする先にはロープの男がいる。
「無事に?」
「ここに安全に運べて良かったなということだ」
ロープの男は何かあざ笑うかのようにそう言った。
ここに来るまでの間にぶつかったときのこと。あれはやはりこの男の指図なのだろうか。カナタはそう考えずにはいられなかった。
「卑怯なことをしてしか勝てないのか」
「何のことを言っているのかわからないな。この勝負、普通に行っても我々が負けることはない」
「そんなのはやってみなければわからない」
「やらなくてもわかる。そもそもお前たちが作ったものはどうだ。どうせ安っぽい食材を使って、そこそこの人間が作った料理だろう? 我々は一流の食材を一流の料理人に手掛けさせた。お前たちが到底手に入れることができないであろう食材で、お前たち到底手に入れることができないであろう技術を持った料理人を使って」
おそらくこの男の言っていることは正論だ。確かに食材にはお金を掛けられない。そして、ヒトハもそこまで技術を持っているかと言えばそうではないだろう。彼女もカナタたちと同じ年頃の女の子に過ぎないのだから。
たとえそうであったとしてもカナタは言う。
「それでもやってみなければわからない」
ロープの男はつまらなそうにカナタを見る。そして鼻で笑いながら言う。
「まあいい。やればわかることだ」
一際大きな音がなる。耳の中で何回も振動するような音。何か金属の楽器のようなものが叩かれたのだろう。会場は静まり返った。離れたところで町を歩く人々の靴音が聞こえるくらいだ。男は大声で言う。
「これより、エステストとコノハの料理対決を行います」
会場の人に対しての説明がなされる。
要点だけをいえば、料理対決を行って審査をし、その後に投票を行う。審査員の票が多く集まったほうが勝ちということだ。
「さて、それでは料理を準備してもらいましょう」
「ちょっと待った!」
一人の女の人が出てくる。料理屋の女の人だ。
「私はこの町で料理屋をやってるものでね、この試合の審査員をやらせてもらいたいんだ」
「急に出てきて、あなたは誰ですか」
進行をしている男の人が叫ぶ。会場は少しざわめく。
「私はこの町の南西にある料理屋のもので、リンダってんだ」
「急に出てこられても困ります。下がってください」
「なんでも、審査員はエステストが勝手に決めたと聞いてね。そんな不公平な試合をやって勝敗を決めるのはちょっとどうかと思ってね」
「そんな言いがかりはやめてください。試合は両者合意のもとで進めています」
「そっちの子どもたち、それは本当かい?」
リンダがカナタたちのほうを見る。
ここで勝手に決めたことにすればこの場はやり過ごせるのかもしれない。確かにそれはいい案でもある。時間をかければおそらく相手との差は縮まる。延期するのは悪い案でもない。しかし――
「確かに見てる人たちは納得いかない場合も出てくるかもしれません。代わりにこういうのはどうでしょうか。料理を出す際にどちらの料理かわからないように審査員の方に食べてもらうというのは」
ロープの男は表情を崩さずにこちらを見ている。
「そうすれば先入観はなく、完全に味で判断できると思います」
「なるほど。お前たちはそれでいいんだね?」
リンダはカナタたちに確認する。カナタは「はい」と頷く。
「さて、そっちのお兄さんたちはどうなんだい? 私の聞く限りでは今のは公平なやり方に思えるね」
「いいだろう。我々も味で勝負してこそだと思ってるからな」
ロープの男は不敵な笑みを浮かべた。
この意見には同意せざるを得ないはずだ。より公平な印象を受ける提案だからだ。しかしながら、それはエステストにとっても望んでいた舞台かもしれない。食材にしても料理人にしても、客観的に見ればまず間違いなくエステストに分がある。味の対決となれば一件有利なのはエステストだ。ただ、これで紛れる可能性があることも事実だ。どちらの料理かわかった上での判定ならばまず間違いなくエステストの勝ちになるだろう。しかし、この状況ならばもしかすれば――そうカナタは思った。
かくして、料理対決はどちらの料理を食べたかわからない形で進むこととなった。
まず皿の裏面に赤と青の色を付け、それを各陣営に割り振る。その皿にリパージュを盛り付け、順番に運ぶ。運ばれた料理から美味しいと思ったほうを最終的に机の前に差し出すという形のようだ。
リンダは料理を盛り付け、運ぶところを担うことになった。急なルール変更で、エステスト側も素早く対応できず、それが一番手っ取り早いと判断された。ロープの男もこれに対して反対はしてこなかった。そのことはカナタを不安にさせる面でもあった。よほど料理に自信があるのかもしれない。
一度鍋がエステストの室内に運ばれる。エステスト側は料理人が鍋を運び、コノハ側はトオルが運んでヒトハが付き添った。しばらくすると、二皿のリパージュを手にしたリンダが出てくる。皿は小さめですぐに食べきることのできそうな大きさだ。そして順にその二種類の料理が審査員の正面に並んでいく。見た目上で多少の違いはありそうにも見えるが、明確な違いもわからない。そもそも違いがわかったところでどちらの料理がどちらの陣営のものかまったくわからないのだから、その判断は意味がないだろう。純粋な味勝負だ。
すべての審査員の前に料理が並べられると、進行の男が声を出す。
「それではご試食ください」
その声と共に会場もざわめき始める。どちらがどちらの料理かという憶測もあれば、見た目ではどちらのほうがおいしそうだという感想もある。審査員の一口一口に視線が集まっている。
ほどなくして審査員の一人が一つの皿を前に出す。残りの審査員も何口か食べるとどちらかに決めたようで、皿を前に出す。あとはこの皿の裏に付けられた色が何色なのかですべてが決まる。
この頃にはトオルとヒトハも戻ってきていた。あとは完全に結果を待つだけだ。
進行の男が話を始める。
「さて、本来であれば食事をしながらその良し悪しについて語っていただく予定でしたが、特別な事態がありましたので、試食中は行いませんでした。しかし、料理対決でしたので、結果が出る前に総評をいただきたいと思います」
中央に座っている審査員が立つと語り始める。
「この勝負は判定の難しい部分もありましたが、比較的差のある対決だったと言えるでしょう。やや力量が違うというか、味そのものに違いがありましたので、選ぶのは比較的容易でした。他の審査員の方もそうだったのではないかと思います」
各審査員が小刻みに頷いている。
「それでは結果発表に入ります。ではまず、両者に割り当てた色を発表します。エステストには赤を、コノハには青を割り当てました」
緊張の瞬間が訪れる。料理を食べ干した審査員が、自分の選んださらに手を付ける。合図とともにそれが掲げられるということだろう。そこに塗られている色の多いほうが勝ちということだ。長かった戦いに終止符が打たれようとしている。
「それでは、どうぞ!」
男の掛け声とともに皿が掲げられる。
祈るようにして目を閉じるカナタ。その表情は険しい。この勝負の勝ち目は極端に低い。これまでやってきたことに対しての判決が渡されるわけではあるものの、良い結果が得られる保証どころか、悪い結果が出されることのほうが圧倒的にあり得る。その現実を受け入れるのはかなり辛いことだ。それでもこの先も進んでいくためには受け入れないといけない。
カナタは目を開けた。




