09 『トラップ』
チラシ配りはそのまま続けられた。初日の忙しさを考慮して配る枚数を固定し、その代わりに時間を工夫してより効率良く配ることに改良した。そしておおよそ十組前後の客をコノハに呼び込むことに成功している。他の宿も客が増え、少なからずエステストには打撃を与えているはずだ。これだけ多くの客がコノハや他の宿に泊まっているのだから、その影響が出やすいのは最も客足を伸ばしていた宿だ。
そして遂に、一連の動きは目に見える形となって見えてくる。あるきっかけを境にして。
それはチラシを配り始めて四日目のことだ。カナタはその日も変わらずに南西の入り口に立っていた。左腕に抱えたチラシを目の前を通過する未来の客に渡していく。この数日間配り続けたことで、宿に泊まってくれそうな人を見分けられる気がカナタにはしていた。それくらいの人を見てきたのだ。その感覚はあくまで気持ちの問題でしかないのだが、彼はその日も彼なりに配る相手を見分けて配っていた。
そしてその最中に、最も見分けるべき男が現れたのだ。その男はこの暑さにもかかわらず平然とした様子でロープを着ていた。その服装をカナタはよく覚えている。その男のことを知りつつも、しかしあくまで通行人の一部であるかのように、相手をまったく意に介していないといった態度で、手に持つ紙切れをその男に渡す。「よろしくお願いしまーす」といたって普通の言葉を添えて。
笑顔の向け方は問題ない。体に変な力も入っていない。受け取りやすいように、歩く速度に合わせてチラシを移動させる。たくさんいる客のあくまで一部であるように。
最初こそ怪訝な目で何かをうかがっていたものの、男は馬を牽きながら結局それを受け取った。
カナタはこの瞬間を待っていた。配り始めてからこの日までずっと。南西の入り口で配ることに決めたのもこのことを想定してのことだった。この出来事はきっと何か別の出来事となって連動するはずだ。そうでなければカナタの仮説は見当はずれなのかもしれない。しかしもし何かが起これば、それはカナタの仮説の小さな裏付けになる。そんなことをカナタは期待していた。
その日はそれで終わりだった。渡したその日に何かが起こるほど時刻も早くない。
特別なことが起こったのは次の日。チラシを配り終えて宿へ帰ろうとしているその途中だ。この日もカナタは何かが起きることを願って帰り道を歩いていた。チラシがもうすぐなくなりそうなのが気がかりで、早く何かが起こって欲しかったのだ。
その帰り道で、傍らに捨てられていた一枚の紙切れをカナタは手に取った。少し砂が被っていたが、それを手で払うとそれが何なのかが判明する。エステストのチラシだ。相変わらず高級肉が宣伝されているその紙には、値段や夕食のアピールとともに、今までにはなかった文字がしっかりと書かれている。
郷土料理の文字が。
「よし。よし」
カナタは小さく声を挙げ、歓喜した。エステストに少なくとも何か影響を与えたということが形となって現れたのだ。
その日の夜も忙しかった。しかし、カナタたちも慣れたもので、時間に余裕がなくなるほど慌てることはなくなった。数日間ほとんど同じ業務をこなすことで、彼らなりに効率よく動けるようになったのだろう。
すべての宿泊客が夕食を終えると、その広々とした部屋はカナタたちのものとなる。遅めの夕食を食べながら、カナタは報告を始めた。
「ちょっといいかな」
「どうした?」
「これを見てほしい」
カナタは持っているチラシを二人に見せる。エステストの最新のチラシだ。
「ここを見て」
「郷土料理?」
「うん。これはエステストのチラシなんだ。そこに郷土料理という言葉が出てきた」
「これってまずいよな?」
トオルは尋ねる。カナタは不思議そうに答える。
「どうして?」
「だってそうだろ。せっかく向こうとは違うものを推し出してやってきたのに、これだとまた向こうの宿が売れちまうんじゃないか」
それは確かに一理ある話だ。この郷土料理を使った作戦が、もし単に目新しさだけでうまくいっているのであれば、そうなることも容易に考えつくし妥当かもしれない。
「そうとも考えられる。ただ、僕はまずサクの腕を信じた」
サクラは「え?」と言って驚いている。まさか自分が話に出てくるとは思わなかったのだろう。
「リパージュはいくつかアレンジを加えてみて、結果的にあまりうまくいかなかっただろう?」
「ま、まあ。もう少しでうまくいくところだったんだけどね」
不服そうにサクラは答える。
「それはつまり、長年の積み重ねによって今のリパージュが出来たということで、今のリパージュが今までで最も良い形なんだと思う。ただリパージュがどんな料理かを知っているだけでは向こうは完全に真似することはできないはず」
「向こうだって昔からある宿だって話だぞ。作れる料理人がいてもおかしくない」
「その点に関しては噂を信じるしかない。改築のときに料理人を一新したという噂があったからね」
「それはあくまで噂話だ。信じるには今一つだな」
「それだけじゃない。郷土料理を食べるために高い宿泊料を出すだろうかということもある。エステストの値段設定ではあくまで高級肉が主体。郷土料理はおまけでしかない。その点こっちの値段は宿泊料を含めたとしても手ごろ。もし郷土料理を食べようと考えるのならば選ぶ理由はある。そこにコノハが負け一辺倒にはならない根拠があると思った。だから向こうとは違うものを主体にしたかったんだ」
「郷土料理がそこまで魅力的とは思わなかったな」
「もちろん郷土料理が当たったのかどうかはわからないよ。でも少なくとも何かがお客さんの心を掴んで今のような状況が訪れていると考えていいはず。その中で郷土料理は答えの一つではあると思う」
「なるほど。それでエステストはこちらの郷土料理という舞台に足を踏み入れてきていると」
トオルは感心し、「で、何だっけ?」と話を戻す。
「今説明した通りだけど、僕の予想では、このチラシでエステストが完全に立場を取り戻すわけではないと思う。コノハに訪れる客はやはりコノハに訪れると思うから、お客さんが一部こちらに流れている状況はあまり変わらないんじゃないかな。となると、何か別の手立てを打ってくると予想できる」
「確かに向こうのチラシに郷土料理ってわざわざ書いてあるのはその兆しとも見れる。ここまではカナタの想定通りと言っていいだろう。それで、相手はどんな手を打ってくるんだ?」
「それはわからない」
「え?」
全員が沈黙した。
「僕が言えるのは、何か向こうに勝算のあることを仕掛けてくるだろうということだけ」
「そこまでなら誰だってわかる。何かその先が見えてるんじゃないのか? ここまで予想通りなわけだし」
「カーくん、もったいぶらないで教えてよ。それがわからないと安心できない」
選んだやり方がうまくいっているだけに、カナタにかかる信頼は強いものだった。しかし、当のカナタ本人もこの先どのようなことが起こるかはまったくわかっていない。
「いや、本当にわからないんだ。もったいぶってるわけでも、隠してるわけでもない。ここから先は完全に想像もつかない領域だよ」
「じゃあ仮に、もし完全に太刀打ちできないようなことを仕掛けられたらどうするんだ?」
「その場合はどうしようもないね」
「それじゃ何も解決しないだろう。元に戻ったらどうする?」
完全に元に戻ってしまうことはもうないだろうとカナタは考えていたが、それはトオルの求めている答えでないこともわかっていた。
「その場合はまた初めからのやり直しだね」
「おいおい」
「ただ、完全に太刀打ちできないことは起こらないと思うんだ。最初はまったく太刀打ちできなかった高級肉にも、今では一泡吹かせることができたわけだからね」
トオルは納得いかなそうな表情をして黙る。事実、この状況下では不安以外は何も残らない。エステストの出方次第ですべて左右されてしまう。
「ここまでは全部カーくんの考えたことなわけだし、私はとりあえずカーくんのやることを手伝うよ。もしうまくいかなかったらまた頑張ればいいよ」
しばらく黙っていたトオルも口を開く。
「わかったよ。成功できるように俺も手伝う。そもそもここまで来たら手伝う理由しかないからな」
その二日後。あれからこの日まで何も起こっていない。南西の玄関口で残り少ないチラシを片手に持ったカナタは、エステストが様子を見ているのだろうかと考え始めていた。
カナタの元に一人の男が現れたのはそんなときだった。その男はロープを着ていて、鋭い眼光でカナタを見定めて言う。
「やっぱりお前か」
「何のことですか」
カナタは丁寧に応える。一人のお客さんを相手にするように、懇切丁寧に。
「お前のおかげでうちの店は商売あがったりなんだ。いい加減その商売ごっこを止めてくれないかな」
ロープの男の言葉は丁寧にも聞こえる。しかし、その節々に怒りのようなものも感じられる。『お前』などの言葉はその最たる発露だとも受け取れる。
そして、その一つ一つの言葉をカナタは聞き逃さない。
「うちの店?」
なんの事だかわからないといった仕草を見せる。
少し驚いたようにロープの男は言う。
「なんだ。俺がエステストの人間だと知らないでこんなことをやっていたのか」
「それはどうでしょう」
カナタは答えをはぐらかす。ロープの男の威圧的な態度に屈することは、すなわち負けを意味する。その状態は避けたい。相手がわざわざ出向いてきたということは何かしらの行動を起こしたいと考えているはずだ。一つは今行っているエステストへの対抗策を止めさせることにあるだろうとカナタは考えている。そして、それがままならないときにはもう一つ別の考えがあるはずだ。それを引き出すまではカナタは引き下がることはできない。
「エステストに対抗するためにこんなことをしているんだろう?」
「身に覚えがありませんね」
ロープの男の感情を煽るように答える。
「お前は何のためにこんなことをしている」
「自分がするべきだと思ったことをしているだけですよ」
「金か? 金が欲しいならいくらか出してやろう。それで引き下がるんだ。子供には十分な量を用意してやってもいい」
「僕は別にお金のためにやってるんじゃないんで」
ロープの男は舌打ちをする。男の目が嘗め回すようにカナタを見る。
「俺はお前のような子供が大嫌いだ。自分のしていることが他人をどれだけイラつかせるかわかっていない。そんな子供がな」
ロープの男は間髪入れず続ける。
「話し合いはここまでにしよう。お前みたいなゴミは話し合うだけ無駄だ」
ロープの男の眼光が一際鋭くなる。カナタは身の危険を感じた。彼が魔法使いなのかどうかはわからないが、それを理解するのに十分な威圧が男にはあった。
「この場で問題を起こせば周りの人間に気づかれますよ。あなたがエステストの人間だとわかればそれこそ意味がないのでは?」
「何を言っている? 俺はお前に暴力をふるうなんて甘いことはしない。お前は一番辛いことが何か知っているか」
カナタは少しだけ考えて答える。
「もし、僕の仲間に危害を加えれば、協力してくれている宿屋の人がエステストに大きな不信感を抱きますよ。それでもいいんですか」
「危害? 何もわかってないな。俺はそんなことはしないと言っているだろう。そんなことをしても傷つくのはほんの一瞬だ。本当の傷というのは心に負うものだ。それがどんなに辛いものか味わわせてやると言っているんだよ」
ロープの男がチラシに手を伸ばす。それを一枚手に取りよく眺める。
「お前のいる店は確か、コノハだったか」
カナタは焦る。今までずっと付けられていたのか。それともこの町での行動はすべてこのロープの男には見透かされているのだろうか。不安と恐怖で焦りが生じる。
「今日の夜には招待状を運ばせる。お前の店と俺の店で料理対決といこうじゃないか」
ロープの男の目が一瞬だけ笑う。
「どちらの店の料理がうまいか。それを白日の下にさらす。どうだ?」
その勝算を見定めることはおろか、考えることすら今のカナタには難しい。
「悪くないだろう? お前も願っていることだ。そうだな。勝ったほうは負けたほうの言うことを聞く。これでどうだ。もし俺が負けたら今回のお前たちの反抗には目をつぶってやってもいい。ただし――」
その細い眼を大きく見開き、見下すように嘲笑しながらロープの男は言う。
「俺が勝ったらお前らの店をすべてつぶす。一つ残らず、だ」
反論を許さない威圧的な態度にカナタは言葉が出せない。その場で立つことがやっとだ。
「料理はリパージュ。食材は各自用意する。これでいいな?」
料理にリパージュを用意したのは、おそらく完膚なきまでにカナタたちを叩きのめすための選択であろう。あえてコノハの舞台に足を踏み入れてくるということは、ロープの男にはそれに相当する勝算があるはずだ。
「審査員はこの町の料理屋から選んだ。宿屋とは利害関係のまったくない連中だ。単純に美味いほうを選ぶだろうよ。もっとも、どちらを選ぶかは最初から決まっているかもしれないがな」
そう言ってロープの男は笑いながら去る。
この勝負、まともに受ければ勝ち目はない。頭の中をうまく整理はできていなくとも、そのことだけはカナタは感じていた。
宿に戻ったカナタはゆっくり考えようと、その日を終えようとしていた。頭の中で内容を整理しようとしても、うまく思い出せず整理できない。しかし、夜になって配られた招待状を見てカナタは驚く。
勝負の日は翌日であった。




