『繋がり君』からの電話
私は、ある家電メーカーの【お客様相談窓口】に勤めている。
商品についての質問や故障の問い合わせ、こんな新製品を開発してほしいといったご要望を受ける毎日だ。
……と説明すると体裁は良いが、蓋を開ければ単なる【苦情係】、日々【お客様】という名前のモンスターから口撃を受けてボロボロだ。
「お電話ありがとうございます。○○お客様相談窓口、担当カサイでございます」
『…………』
「お客様? お待たせしました。お電話繋がっております」
『……やっと繋がりましたね』
「お待たせして申し訳ありません」
開口一番、用件に触れない客は、面倒だ。
オペレーターの経験が警鐘を鳴らす。
案の定、電話口の向こうの男性は、この相談窓口の対応が悪いと罵り、私の口調にさえ理不尽な難癖をつけてきた。
マニュアル通りの謝罪をひとしきり繰り返すこと20分。
この電話は上席対応となった。
* * *
「カサイさん、『繋がり君』に捕まったって?」
食欲減退の昼休み。
弁当箱の中の厚焼き玉子を粉砕していると、3年先輩のヤナイさん(♀)の声が肩越しに降ってきた。
「アイツ、誰が相手でも散々に言うんだから、気にするなって」
上席、つまりチームリーダーの1人であるクサカベさん(♂)は、自販機のカップコーヒーを私に差し出した。
およそ、企業の【相談窓口】などと名前のつく部署では【苦慮客】と呼ばれる問題ある客のリストを持っている。
『繋がり君』と呼ばれている件の男性客は、今年の春から、そのリストに名を連ねていた。
「ありがとうございます」
受け取ったコーヒーに口をつけ、
「でも私、今月のノルマ、落としそうです」
ちょっと弱気に訴えてみる。
「まだ半月あるじゃない。常に受電率5位以内のカサイさんらしくないね」
インテリを気取ったとしか思えない銀縁メガネをちょっと上げ、彼は微笑んだ。
そう、相談窓口にはノルマがある。
かかってきた電話に対して、実際に対応できた割合。
それが【受電率】という【顧客満足度】を示す指標の1つであり、オペレーターに取って悪魔の数字でもある。
苦情だろうが金言だろうが、かけた電話が繋がらなければ、お客様は不満を募らせる。
かかってきた電話を取りこぼさないように、1件の電話に費やしうる時間には、秒単位の効率が求められているのだ。
秒刻みのノルマに追われながら、より多くの会話をこなせる人材を評価する。
それがこの仕事だ。
入社して5年。
私は、ここ1年近く【月別受電率トップ5】の座を譲らなかった。
「『繋がり君』は脅威ですよ。話は長いし……第一、何人の新人が彼に泣かされたことか……!」
人材育成担当のヤナイさんが、憤懣やるかたないといった表情で、クサカベリーダーを見上げた。
「苦慮客とはそういうものです。スキル溢れる皆さんでも対応困難な時のために、我々がいるんです」
チラと腕時計に視線を落とすと、我らが上席は、今一度眼鏡の縁を持ち上げてから、「お先に」と休憩室を後にした。
「無理することないよ、カサイさん。明日休みでしょ? 帰り、ちょっと付き合ってよ」
後を追うように立ち上がり、ヤナイさんはグラスを空ける仕草を残して去っていった。
* * *
その店は、地下鉄駅近くの大通りの裏手にあった。
【STRELITZIA】(ストレリチア)
武骨なゴシック体が彫られただけの木製の看板には電飾もなく、ドアにかけられた【営業中】のプレートに気づかなければ、飲食店ということさえわからなかった。
重いドアを開けると、カララン……と時代遅れの音がした。
飴色の照明に浮かび上がる店内は、カウンター席が数席と、オーク材のテーブルを配したソファ席が4つ。
小さくジャズらしき音楽がかかっているものの、流行りの隠れ家風、とはお世辞にも言えない。
くすんだ昭和の香りが漂っていた。
「マスター、久しぶり〜」
ヤナイさんが親しく声をかけると、カウンターの向こうでヒョロリと長身の男性が微笑んだ。
「いらっしゃい、ヤナイさん。お連れの方ですか?」
人懐っこい笑顔が貼り付いた男性は、30代半ばくらいだろうか。
マスターと呼ばれるには、幾分若い気がした。
「こんばんは」
先輩に並んでエンジ色のスツールに腰掛けながら会釈する。
「この人、カサイさん。ウチの社の優秀な後輩」
「やだ、優秀じゃないですよ」
「何言ってるの、貴女、若手のお手本なんだから」
話している間にマスターは、グラスに2・3個の氷を入れると、手際よくウィスキーを注ぎ、当たり前のように私達の前に置いた。
きっと常連のヤナイさんがいつもこうしているのだろう。
「改めて、お疲れ様」
一息付くと、先輩は大胆にも職場に対する不満を口にしはじめた。
他に客がいないことで安心しているのだろうが、私は内心ドキドキしていた。
というのも、我々の仕事は他言無用、社外で口にすることはコンプライアンスで禁じられている。
そんなことは重々承知だろうに……ヤナイさんは『繋がり君』という名称こそ出さなかったものの、彼の件でのリーダー達の対応が甘いと憤った。
「こういうケースは、さっさと上専に決めてしまうべきなのよ」
彼女の強い口調に気圧されたように、私の手の中でグラスの氷が小さく音を立てた。
上専、つまり上席専属対応客。
苦慮客の中でも特に【要注意顧客】を指す隠語だ。
上専からの入電は、相手が特定でき次第、即座に上席が引き取ることになっている。
「……きちんと納められない私にも、課題はあるんですよね……」
表情の選択を迷いながら、手のひらの中で琥珀色の液体をゆるゆると転がす。
「もう! 貴女は本当に優等生ね」
カラン、と再び、氷が声を上げた。
「誰の耳も無いんだから……あ、マスターは空気みたいなものだから、いいの。普段言えない愚痴でも何でも吐き出しちゃいなさいな」
私は苦笑いした。
ヤナイさんの『優等生』という言葉が、鋭く胸に刺さっていた。
私は、地方都市のサラリーマン家庭に育った。
物心ついた頃には、父の家庭内暴力――いわゆるDVが激しく、母は私の小学校入学を機に離婚した。
女手1つの家計は苦しく、誕生日もクリスマスも特別な思い出はない。
ねだりたかった人形や憧れの服も、欲しいと口に出したことはない。我慢することや我が儘を言ってはいけないことが、当たり前の生活だった。
私を引き取った母は、ことあるごとに父の悪口を言い、男という生き物への淡い幻想さえ許さなかった。
『あんたは、男に頼らずに自立しなさい。そのためにはきちんと勉強して、いい学校に進んで、いい会社に就職しなさい』
小学生の内から口酸っぱく言い聞かされてきたものだ。
それは、別れた父に対する見返しの意味もあったに違いない。
私1人でも、こんなに立派に育てたのだ――と。
『カサイの成績なら、A大は確実だぞ』
高校の担任は、私の志望と内申書を見比べて、太鼓判を押してくれた。
母の期待が重くなっていた高校3年の夏。
進学を理由に、私は都会へ出たいと考えていた。
目指したのは、奨学金制度のある私立大学だ。
しかし、引越や独り暮しに伴い、まとまったお金がかかる。
我が家にA大を選ぶ余裕は到底なかった。
私は地元の公立大学に、推薦枠で入学した。
「ありがとうございます、ヤナイさん。お誘いいただいたおかげで、気持ちが晴れました」
私は隣の先輩に向き直って、にっこり笑ってみせた。
一瞬、彼女の瞳に戸惑いの色がよぎったが、すぐに表情が崩れ、
「付き合ってもらったのは私の方よ。これでよければ入れてあるから、いつでも勝手に飲んじゃっていいからね」
琥珀色が残るグラスをちょっと掲げると、彼女は飲み干した。
それがお開きの合図になり、私達は地下鉄を東西に別れ、帰宅した。
それが6月のことだった。
* * *
『……やっと繋がりましたね、カサイさん』
『繋がり君』が私を名指しでかけてくるようになったのは、7月も終わろうかという頃だった。
電話口の向こうの男性は、話しぶりこそ穏やかだが、あの『繋がり君』だ。
『製品番号PZーJ1505M、この炊飯器ですけどね……』
とにかく話が細かくて、長い。
わが社の製品のヘビーユーザーであることは間違いないが、よくもまあ重箱の隅をつつくが如く、ネタが尽きないものだと呆れかえる。
「私、何か地雷を踏んだんですかね?」
3日と置かないご指名攻撃が続くようになった8月。
私の受電率はガタガタに落ち、月半ばにして、今月のノルマ到達は難しくなっていた。
ほとほと参った私は、ヤナイさんの気遣いとおぼしき、ビアガーデンのお誘いを受けることにした。
「……たまにいるんだよね、ああいうヤツ」
乾杯の泡を口紅に残して、ポツリ、ヤナイさんが呟く。
「ターゲットを決めてね、出るまでひたすらかけ続ける、ストーカーみたいなヤツ」
ストーカー。
アルコールで上気した頬が、スッと冷めるのを感じた。
「あっ、ゴメンゴメン! 怖がらせるつもりはなかったんだけど、カサイさんが入ってくる前にも似たようなことがあってね、同期が随分辞めちゃったんだよね」
そうだったのか。
確かに、ヤナイさんの年代の社員は極端に少ない。
残った貴重な女性社員という意味合いもあるのだろう。
受電率こそ、そこそこの成績ながら、新人オペレーターの育成担当でもある彼女は、若手社員の中では出世頭だと噂されている。
「こんな声のせいか、私はターゲットにならなかったんだけど……」
半分ほど残ったジョッキをグイと空け、
「人間、何が幸いするかわからないよね」
ヤナイさんは、少しハスキーな声で笑った。
「ね、カサイさん、明日休みでしょ? もう少し、付き合ってよ?」
時間は早いが、少し夜風が出てきた。
私は迷ったが、先輩の気持ちが嬉しくて、繁華街についていった。
* * *
「クサカベさんが、心配してるのよ」
例の昭和レトロなバー【STRELITZIA】のカウンターで、ヤナイさんが切り出した。
この店に来たのは、あの6月以来2度目だが、今夜も客は我々2人だけだった。
「えっ……」
マスターが置いたウィスキーのグラスを、彼女はすぐに唇に運ぶ。
「貴女のノルマ、際立って落ちているでしょ。もちろん原因は、はっきりしてるんだけど」
言いにくいことをズバリ言う。
それができるのも育成担当者のなせる技なのだろう。
「部署を一時的に変えたらどうか、って声が出ているのよ」
一瞬、耳を疑った。
「そんな……」
これでもプライドを持ってこなしてきた自負がある。
苦慮客に煩わされたことも初めてではない。
「……クサカベさんが、移動させた方がいいと仰っているんですか」
ぼんやりした酔いは、すっかり消えていた。
直属のチームリーダーが、私のスキルに見切りを付けようとしている……?
ヤナイさんが私を誘った意図を、ようやく理解した。
社外を選んだのは、やはり先輩なりの気遣いに違いない。
「私は反対しているの。カサイさんの処理能力は、分かってるつもりよ」
喉の奥が苦く軋んだ。
慰めるということは、既に決定したという意味だろう。
グラスを包む指先が白くなっていた。




