鯖の水煮は、飲み物じゃない!(鯖の水煮シリーズ1)
いくら鈍感な僕とはいえ、先輩にからかわれてるのには気づいてた。
「お疲れ様。仕事、一息入れたら?」
「はい! ありがとうございます」
と言って差し出されたのが、缶コーヒーじゃなくてサバの缶詰(しかも水煮)だったり。
「これ私のアドレス。よかったら今夜メールして」
「えぇ!? か、感動です! ありがとうございます!」
仕事中に渡されたプライベートなアドレスに、夜、三十分位悩んで、
『こんばんは、今夜は月が綺麗ですね』
と、メールを送ると……。
『アドレスから察するに、営業二課の井上くんかい? そのだね、こういうメールは女性に送りなさい。まっ……まさか私の熟れた肉体に興味が!? あ、後だね、勤務中にサバ缶を缶コーヒーを飲むように流し込むのも、社内の風紀をだね――』
そのアドレスが営業本部長のもので、その後、部長と社内で顔を合わせる度に顔を赤らめられりと……。本当、例を上げるとキリがない。
男性としての魅力に乏しい僕が、先輩の相手にされないのは仕方ない。
背は高いけど猫背だし。スパイ向きと言われ、雑踏に溶け込むくらいに平凡な顔つきだ。学力だって、たまたま景気のいい時に入社した商社(業界内で七番目位に大きい)内では微妙なレベル。
でも僕は、そんな先輩との関係性が嫌いじゃなかった。
機嫌がいい時には二人っきりで飲みに誘ってくれるし。休日には営業用の電話で僕を呼び出して、荷物持ちをさせてくれることもある。(白い目で見ないで欲しいけど、僕はエムじゃない。ただ女王様みたいな人に、かしずくのが好きなだけだ!)
先輩は社内でも評判が高かった。
言いたいことをはっきり言う人で、特別美人って訳じゃないけど華がある。彼女がいるだけで、周りの雰囲気が明るくなる感じだ。
個人的にはスタイルが良くて、髪が長くて、ハイヒールが凄く! 凄く! 似合うところも大好きだ。(もう一度言っておくけど、僕はエムじゃなくて――以下略――)
そんな先輩だから営業先にも気に入られてて、社内では「営業の女神様」って呼ばれてる。個人的には「営業の女王様」の方が好きなんだけど……。(三度目になるけど、僕はエムじゃ――以下略――)
でもそんな先輩には。何故か恋人がいなかった。
なら僕も張り切る! ってなもんだけど……これが、なかなか上手くいかない。
「先輩! 好きです!」
「……井上君、井上君の特技って何?」
「え? 僕ですか? 一応、英会話なんかは――」
「あぁゴメン。私、英会話が特技な人との恋愛は、医者にとめられてるのよ」
例えばそんな風に告白しても、やんわりと、しかし全力で断られたり。
「先輩! 好きです!」
「そう。ところで井上君、私のどんなところが好き?」
「そりゃもちろん、女王様みたいな……じゃなくて……そう! 線対象! 小林天音って、名前が線対象な点はそりゃもう縁起が……あれ? 先輩? せんぱ~い!」
何度告白しても、まったく相手にしてもらえない。「線対象なアナタが好き」って、咄嗟に思い着いたにしてはかなり斬新で、ドラマ化しそうな着想だと思うんだけどなぁ。
まぁでも、特別幸せって訳じゃないけど、それなりに充実した毎日を送っていた。
仕事で失敗したり、同僚が出世したり、同級生が結婚したり、田舎の友だちに子供が出来たり、「ねぇ、あの人、ちょっと格好良くない?」と女子高生に囁かれて振り向いたら僕じゃなかったりと、落ち込むこともある。
でも先輩は落ち込んでいる僕を見つけると、愚痴を聞いてくれた。
そしてその度に、
「失敗はつきものよ」とか、
「次の出世は貴方の番よ」とか、
「二十代で結婚するもんじゃないわよ」とか、
「田舎はヤンキーが多いから出産が早いのよ」とか、
「うわっ、女子高生に囁かれて振り向いたって……キモっ! ちょっと近寄らないでくれる? よくもまぁ、その顔で自信を持って振り向いたものね。死んだ方がいいわ。ばーか、ばーか!」
とか言って、僕を励ましてくれる。
先輩は僕にとって、本当に女王様……じゃなくて、この場合は女神様かな? とにかくそんな、光をもたらしてくれる人だったんだ。
でもそんな先輩が、まさか手の届かない人になってしまうなんて思いもしなかった。そんな素振りだって、全くなかったからだ。
ある日のことだ。
僕は先輩が開拓した営業先に、追加の資料を持って会社に帰って来た。
「井上君、お疲れ様。これで一息いれなさい」
「あっ、先輩! ありがとうございます」
渡されたのはいつもとは違う、見るからに高級そうなサバの水煮缶だった。
あれ? 今日は気前がいいな、何かいいことでもあったのかな?
若干の違和感を覚えながら、缶詰めを開け、乾いた喉に流し込む。僕のデスクを中心に、なんともいえない魚介の匂いが広がる。
「うわ……なにあのプレイ」
「ダメよ、目を合わせちゃ!」
同じ課の後輩の娘たちが、そんな風に囁きながら書類でパタパタと風を起こしていた。
まったく……困ったもんだ。書類をそんな風にして扱っちゃいけないと、散々注意したのに。まだまだ学生気分が抜けてないな。
口元についた水煮汁を手の甲で拭いながら、先輩のデスクにお礼を述べに行く。
「先輩! ごちそうさまでした」
「あら井上君、いつも丁寧ね」
「当たり前ですよ。ネットで調べましたけど、あれ一缶四百円もするものじゃないですか。どうしたんですか? 何かいいことでもあったんですか?」
すると先輩は仕事中の張り詰めた空気を少し緩めて、今まで見せたことがないような、慈愛に富んだ笑みを僕に向けた。そして無言のまま、何かを惜しむように、感慨深げに僕を見つめる。
え? なんだろう?
入社してから今日まで、一途に先輩を追いかけて来た僕だ。先輩の様子がいつもと違うことは、直ぐに分かった。
やがて先輩は、何かを決心したかのように僕に告げる。
「あのね……井上くん」
「はっ、はい!」
「私、今度ね」
「はいっ!」
「死んじゃうの」
「…………………………へ?」
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
葬儀は雨の中、東京から三十分たらずの先輩の地元で粛々と進んだ。社員のみならず、営業先で先輩を知る人は軒並み顔を揃えて出席した。
「大勢で押しかけて失礼かとは存じますが……どうしても、お別れを言いたくて」
小規模な葬儀会場は思わぬ混雑をみせていた。喪主は先輩の養父。
僕はその時、先輩が天涯孤独の身として養護施設で育ち、小学生の頃、今のご両親に養子に貰われたことを知った。
先輩の眩しい笑顔からは、そんな悲しい過去は微塵も感じられなかった。
また先輩の病気は、医者が気付いた時にはとっくに手遅れだったらしいことも聞いた。先輩に巣くった癌は色んな所に転移して先輩の命に届いていた。
でも先輩はそれを知らされた時も、いつもみたいにあっけらかんとして笑っていたみたいだ。何とも先輩らしい。
僕は先輩が辞職して自宅で死を迎えるまでの間、何度もお見舞いに顔を出した。
「え? 井上君?」
「すいません、たまたま営業先が近かったもので……」
その度に先輩は奇妙に慌てていた。
「ちょっと待ってなさい!」
と外で待たされた後、先輩の部屋に通される。
「あの……これ、もしよかったらお見舞いの品に――」
「あなた営業に来てたんじゃなかったの? まぁいいわ……あら、サバの水煮」
ちょっとだけ誇れること。先輩はその時、顔を輝かせて喜んでいた。
でも……やがて綻ばせた顔を悲痛の形に歪めると、僕に顔を見せまいとして顔を背け、「ばーか、ばーか」と言って肩を震わせ静かに泣いた。
僕はその光景を前に慌てふためく。
「ちょっと廊下出てて」
「へ?」
「お化粧、崩れ、ちゃったから……外に出てろ。ばーか」
どうして先輩が化粧をしているのか分からなかったが、女性と言うのはそういうものなんだろうかと納得して、僕は言われるがまま廊下に出た。
「ん、入ってよろしい」
その時初めて気付いたけど、先輩の顔は化粧で隠しきれない位に青白かった。
「ねぇ、そのサバ缶。ここで飲んでよ」
「へ? いやこれ……先輩のお見舞い用で、実は結構、高いものなんですけど」
「ふ~ん、私の命令にそむこうってんだ、いい度胸ね」
「いや、決してそういう訳じゃ……」
「ちなみに私の好きな男性のタイプは、サバの水煮をごくごく飲んでくれる人よ」
「よろこんで飲まさせて頂きます!」
サバの水煮缶を口に当てて傾ける。久しぶりだったので、上手く飲めなかったが、やがてコツを思いだすと一息に流し込んだ。
「プハァ! 御馳走様です」
僕が飲みきると、先輩は宝物を見つけた子供みたいに笑った。
う、可愛い。
すると不意に、開け放たれた窓から高気圧に押された風が舞いこんできた。テーブルに置かれた雑誌が、パラパラと音をたててめくれる。
「……水煮……」
少しの沈黙を挟んで、先輩が静かに言った。
「え? 水煮がどうかしましたか?」
「私がいなくなると……貴方に水煮を飲ませる人が、いなくなっちゃうわね」
「先輩……」
泣かないと決めていた。だけど僕のちっぽけな決意なんて、人間の抱える根源的な感情の前では、もろい防波堤に過ぎない。
僕は堪らない衝動の中で無駄に長い体を折り曲げて床に伏せると、世界に慟哭を発した。
「くっ、うわあああああ!」
『小林……先輩?』
『そうよ、今日からアナタの教育係になったから、ビシビシしごくわよ。覚悟はいいかしら?』
『そ、そりゃ勿論! し、しごかれるのは大好きです!』
『え? あ、あなた随分変わってるのね』
先輩と初めて会った時のことが、湖に沈んだ木の葉が浮かぶように、突如として意識の中に浮かび上がる。
『はぁ、営業って大変なんですね』
『何言ってるの、営業は会社の顔よ? それに私たちの働きで、会社の業績や、今後の展開が左右されるの。それって、凄く遣り甲斐のある仕事だと思わない?』
『先輩……』
『しょうがないわね。井上君、今夜空いてる? 私が居酒屋で営業のなんたるかを、みっちり教えてあげるわ』
先輩は、まだ僕の目の前にいる。
なのに……なのに、先輩と過ごしてきた日々ばかりが思い出される。
先輩と過ごす一時が、僕には堪らなく幸せだった。
「井上、くん?」
「せ……せんぱい、せんぱぁぁい!」
報われぬ世界の再果てで、今だけは、時を忘れたかった。
時間に止まれとはいえない。でも、でも……お願いですアインシュタイン先生。
せめて、せめて先輩と過ごす一時だけは、時間を、ゆっくりと……。
「ばかね……本当にばか……ばーか」
先輩は膝を床につき、僕の頭を抱えると、何度も、何度もそう呟いた。
僕は子供が母親にすがるみたいに、おいおいと泣いた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
そして先輩は、僕の世界から消えた。
いやその表現は正しくない。先輩の肉体、精神、そういったものはこの世界で観測することが出来なくなった。
そう、ただそれだけ。
先輩は確かに僕の中で生き続けている。
仕事で成功すると、
「調子に乗らないこと、いつか痛い目見るわよ」と囁く。
なんとか出世すると、
「ようやく私に追いついたわね。頑張んなさい」と肩を叩く。
結婚すると、
「あ~はいはい、おめでとさん。これが私の御祝いの言葉よ、くたばっちまえ!」と、罵る。
子供が出来ると、
「井上君に似ないことを、祈ってあげるわ」と、怪しく微笑む。
「ねぇ、あの人、ちょっとシブくない?」と女子大生に囁かれると、
「なにニヤついてんのよ。ばーか! ばーか、ばーか!」と、ご褒美をくれる。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
先輩の葬式が終わって三十年。僕は取締役室の分厚い扉を開き、上着を所定の位置に掛ける。窓に近づいて、乱立するビル群を眺めながら体操を始めた。ノックの音が響く。
「どうぞ」
僕は体操を続けたまま、入室の許可を出す。
「お疲れ様です井上社長。午後の会議の資料なんですが――」
「あぁ、御苦労さま、デスクに、置いておいて、くれるかな? おっと、そうだ、忘れていた。山田君、そろそろアレを、お願い出来るかい?」
「はい。そろそろお時間かと思い、資料と一緒にお待ちしました」
「相変わらず君は、気が利くね、秘書課は、どう? 上手くいってる?」
「はい、お陰さまで……。こちらに資料と一緒に置いておきますね」
「あぁ、ありがとう」
扉の閉まる音を背後に聞きながら、最後に大きく体を伸ばすとデスクに振り向く。
「ふぅ……」
そして何十年来の相棒を手に取り、手慣れた感じでプルタブを開け、喉へと一気に流し込む。
「ケホッケホッ!」
思わずせき込む。六十にも届こうかという老体には、最近ちとこれがきつい。
しかし神聖な儀式のように、僕はそれを毎日続けて来た。
缶を傾けながら窓の外へ視線を向ける。そこから見える空は、今日も人間の意志とは無関係に、怖い位に澄み渡っていた。
もうすぐ、夏がやってくる。やがて僕の田舎では雲雀は空へ舞い、カタツムリが枝に這い始めるだろう。
人間の世界は……相変わらずだ。それこそ今日も、色々な所に不幸があるけど、多分、神様はそんなことには無頓着だ。
だから、ただもう前を向いて生きていくしかない。それを飲みきると、僕は、誰にともなく告げた。
「先輩……やっぱりサバの水煮は、飲み物じゃないですよ」
すると……僕にだけ聞こえる、あの温かく柔らかな声が、ありありとした現実感を伴って内から響いた。
「今頃気付いたの? ばーか、ばーか!」と。