妖怪大百科より、愛を込めて《元大妖怪×健気な妖怪》
俺はぬらりひょん。現代に ひっそりと生きる妖怪だ。俺の 祖父さんの頃は、ぬらりひょんといえば妖怪の中でも強大な力を持ち、かつ その頭脳で数多の妖怪を従えてきた。
だが、時代とともに 力は薄れ、今の俺の代に至っては、妖怪の力なんて微々たるもの。第一、妖怪は ほぼ姿を消してしまった。俺たちの一族は、力が強かったが故に生き残ったのだ。
しかし、俺に残された妖怪の力なんて…
「あらあら、お味はどうだった?若いお兄ちゃんにご飯食べてもらうのは 久しぶりだから嬉しいわあ」
「本当に久しぶりじゃのう。いつもばあさんと二人っきりじゃから、誰かが一緒に食べてくれるのは嬉しいのう」
じいさんとばあさんと、夕食を共にしていた。白米、味噌汁、鯖の塩焼き、漬物。どれもうまいが、ちっと塩分が多すぎやしないか。
もくもくと箸を進めて、皿をきれいにする。そして箸を置いて、手を合わせる。
「ごちそうさま」
「お粗末さまだよ」
「いい食いっぷりじゃった」
ニコニコと笑うじいさんとばあさんに礼を言って、玄関に向かう。そして、玄関の引き戸を閉める時に。
「やっぱり若いもんが一人いると、楽しいものねえ」
「そうじゃの、そうじゃの。…して、ばあさんや。今のはどこのあんちゃんじゃったかのう?」
「ええ?えっと…どこだったかねえ」
「ん?そもそも、もう一人居たのかのう?」
「あらやだおじいさんたら、何を言うの
―――――今日も、私とおじいさんの二人だけでご飯を食べていたんじゃないの」
「そうじゃった。そうじゃった。ちとボケ始めたかの」
ハハハ、と笑い合う二人の声を聞きながら、俺は そっと引き戸を閉めた。
と、まあこんなもんだ。要するに、知らない奴の家にいって飯を食おうが、風呂に入ろうが、ベッドを占領しようが。俺は何をしても違和感無くその場に馴染む。誰も俺を咎めないし不自然にも思わない。
そうして、俺がその場を去れば、俺が居たという記憶は なかったことになる。
………俺の力なんて、そんなもんだ。
毎日ふらふらと渡り歩き、適当な家で飯を食わせてもらって、適当な家で寝床を借りる。
そんな暮らしを何年続けたのか。なんで生きているのか、わからずに俺は今日も適当な家で生きるための糧を探し歩く。
別に飯なんて食わなくても死なない。寝なくても支障はない。妖怪だから。
だが、俺は ふらふらと家から家へと渡り歩く。これも ぬらりひょんの本能と言うべきか。
糸の切れた凧のように、あてもなくさ迷い、一つのところに長くは留まらない。それが ぬらりひょんたる俺の生き方だ。
…だったんだが。
「今日はカレーですよ」
「……いただきます」
俺は、この家にもう一週間も留まっている。それはなぜか。―――答えは至極簡単なことだ。この家の飯が美味いから。
「ちょっと煮込む時間が足りなかったから、あんまりコクが出なかったんですけど…どうですか?」
今時珍しい、真っ黒な髪を肩まで伸ばした若い女が、心配そうにこちらを伺っている。俺が今 居候している先の家主だ。
「美味いよ」
口一杯に頬張りながら、返事を返す。行儀が悪かろうが、俺は妖怪だ。人間のルールなんて気にするものか。
女は俺が一口、二口と口に詰め込むのを見つめながら、 頬を桜色に染めて、顔をほころばせた。
「よかった」
透き通った女の声が脳に響いて、胸のあたりに じんわりと火が灯ったように熱い。
昔は名の知れた大妖怪の ぬらりひょんも、こんな娘一人に 胃袋を捕まれてしまって。
祖父さんが俺を見たら、頭をぶん殴られていたかもしれないな。
麦茶をグラスに注ぐ女を、女に気づかれぬように盗み見ながら。
それでも、いいかと思った。
私は、はまぐり女房。現代にひっそりと生きる妖怪。私のお祖母さんの頃は、はまぐり女房といえば、妖怪の王に食事をつくる、専任の料理人だった。ちなみになぜ、はまぐり女房かと言うと、私の本性は はまぐりだから。昔、網にかかったはまぐりを逃がしてくれた漁師に恩返しをしようと、人間の姿になって漁師に尽くしたのが始まりらしい。
でも、時代とともに力は薄れ、今の私の代に至っては、妖怪の力なんて、微々たるもの。第一、妖怪は ほぼ姿を消してしまった。私の一族なんて、たいした力もないのに どうして生き残っているのか わからないくらい。
しかも、私に残された妖怪の力なんて…
「すっげえ!今まで食べてきたご飯のなかで一番美味いよ!」
「本当?よかった」
「ほんとほんと!うわーすごい、なに食っても美味い!」
「…好きな人につくる料理は、特別に美味しくできるんですよ」
いやーなんだか照れるなあ、と笑う男に、冷えた麦茶を出した。
と、まあ こんなものかな。要するに、好きな人につくった料理は、その人にとっては極上の食べ物になる。他の人が食べても、そこそこ美味しい料理だけれど。
でも、私の愛情が冷めてくると。
「…あれ?なんかさ、前の方が美味かったような…」
「―――そうですか?いつもと同じにつくったんですけど…」
「え?あ、いや、いつも美味いし、今日のも もちろん美味いよ!」
「―――そうですか。よかった」
冷えた麦茶をグラスに注ぎながら。私は、また ダメだったなあ。と落胆しながら、目を細めて笑顔をつくった。
男とは すぐに別れた。ぐだぐだと引き留められたけど、面倒くさくなってありったけの妖気を纏って睨み付けると、青くなって逃げていった。妖怪に 馴染みのない現代日本人は、わずかでも妖しい気に触れると、途端に気味悪がって怖じ気づく。
自分で追い出したとはいえ、また一人に なってしまったなあ、としんみりしていた時だった。
あの人が私の家に来たのは。
その日は、いい肉が手に入ったので ウキウキしてキッチンに立っていた。
厚みのある肉を焼いていると、男が一人入ってきた。
驚く私に、男は「いい匂いがする。…肉?」とナチュラルに聞いてきた。それがあまりにも自然だったから、私が おかしくなったのかな、と錯覚するほどだった。
でも、男の目と目が合って、纏う妖気に気がついた時、
「…よかったら、食べます?」
するりと、口から言葉が滑りでた。男が 家に入ってきたことに対して、警戒も疑問も、何も頭に浮かばない。
それで わかった。この男は ぬらりひょんだって。人間は騙せても、同じ妖怪の私は騙せない。
もともとは私一人分のステーキ肉一枚を、半分に切って男が座る食卓に出す。男はご飯と肉を一口食べると、目を見開いて笑った。
「今まで食べてきたなかで、一番美味い」
「……やっぱり、いいお肉は特別ですよね」
いい肉だから。それもあるけれど。一番のスパイスは、私があなたに一目惚れしてしまったから。はまぐり女房が恋する人につくったものは、全てが極上の食べ物になる。
食事が済んでも、彼は帰らず。私は彼に風呂と寝床を提供した。
ぬらりひょんは一つところに長く留まらないと聞いたけれど、一週間たっても男は ここに居た。
たまに ふらりと出掛けては、夜遅くに帰ることもあった。私は なに食わぬ顔で おかえり、と言っていたけれど、内心は穏やかではなかった。
いつか、おかえりも言えなくなる日が来る。私はそれが、怖かった。
でも、まだここにいてくれますよね?と聞くのは禁句。男には、自然に接しないと おかしいと思われる。誰も、ぬらりひょんに干渉してはいけないのだ。
男は私を人間だと思っている。もし私に正体がバレていると知ったら。―――逆に、私が妖怪だと知ったら…
何も言わずに、出ていってしまうの?それとも、妖怪同士、永い命をともに生きてくれる?
真実を打ち明けるのは、あまりにも大きな賭けだから。私は知らない振りをする。
―――私は今日も、ご飯をつくる。一人分をつくる体で、本当は二人分を。彼が来たら、私は笑顔でこう言うのだ。
「ちょうどよかった。つくりすぎちゃったんで、よかったらご飯食べていってください」
男は、笑って頷く。
その笑顔が、ずっと私の隣に在ればいいのに。
男が我が家に来てから一ヶ月がたった頃。男が私に、厚みのある紙袋を渡してきた。
「明日、また来るよ。それまでに それに目を通しておいて」
朝起きてすぐに、枕元に立つ男から手渡されたそれ。すぐに中身を確認しようとすると。
「心臓に悪いものだから、俺がいなくなってから見て」
そう言い残して、男は出ていってしまった。
心臓に悪いもなにも、男が今日は家に来ないと朝イチで教えられて、もう心臓は ペチャンコにされた気分だった。
でも、明日来ると言った。それなら。
「―――それなら、明日は二人分のご飯をつくってもいいのかな…」
呟いて、頬が熱くなる。じゃあ、明日はご馳走をつくらなきゃ。
嬉しくなって、手にしていた紙袋を抱き締める。
ビリビリッ
「あ、あっ、私ったら…!」
力が入りすぎて、思わず紙袋を破いてしまった。中身を傷つけていないかと、慌てて袋から出してみると。
「妖怪、大百科…?」
頭から、さあ、と血が引くのがわかった。なぜ、私に妖怪の本を?
…怖々と表紙を開いてみると、おどろおどろしい妖怪の絵が目に入った。そして一枚の付箋が、目についた。
付箋には、~頁を見て
と書いてある。私は その通りにページをめくった。
すると そこにあったのは
「……っ…!」
私は、息を飲んだ。
指定されたページには、「はまぐり女房」についての記述が載っていたのだ。
―――私が妖怪だって…はまぐり女房だって気づいていたの?いつから?なんで言ってくれなかったの?
どうして。なぜ。混乱して本を手にしたまま茫然とする私の指に、カサリ、と何かが触れた。
目をやると、はまぐり女房のページの下の方に、また同じ付箋が貼られている。
そしてまた、ページを指定する内容。
あの男は、私に何を伝えたいのだろうか。ページをめくった先に、私に どんな答えを用意しているの?
怖かった。先に進むのが。もし、今まで男と過ごした一ヶ月が、全部嘘だったとしたら……ぶるり、と私は体を震わせた。
初めて会った時、男の目を見てすぐに惚れた。どこか寂しさを滲ませた虚ろな目が、私に そっくりだったから。その寂しさを、なくしてあげたい。いつ終わるか知れない永い命に付きまとう寂しさから、解放してあげたい。…できることなら、ともに生きたいと思った。
――――――本当は分かっていた。ずるずると曖昧な生活を続けてはいけないことを。このままでは、いられないことを。わかっていて、私は知らない振りをしたのだ。
…男も それをわかっていて、私に本を渡したのだろうか。それなら、私がとるべき行動は決まっている。
私は、ふう…と息を吐いて、そっと本のページをめくり、目的のページを開く。
そして私は、自分の目を疑った。
このページは、あの男について――――――ぬらりひょんについて書かれたページだった。
…なぜ?なぜ男は、自分の正体が書かれたページを私に読ませるのか。こんがらがっていた頭は、更に混乱した。
なんとか男の意図を汲み取ろうと、一瞬見てすぐに目をそらしてしまった「ぬらりひょん」のページを再度見てみると。
またしてもページの下の方に、付箋が貼ってある。厚さからいって、二・三枚が重ね付けしてあるようだ。
震える指を制しながら、まとまっている付箋を本から剥がす。一枚、二枚と 馬鹿みたいに時間をかけて、慎重にゆっくりとめくる。
――――――最後の付箋に書いてあったのは。
“はまぐり女房と ぬらりひょんって、お似合いの夫婦だと思うんだけど”
と、小さな字で隅に書かれていた。
「ふふ、本当…心臓に悪い…」
目尻に滲む涙を指ですくいながら、ぬらりひょんのページを優しく撫でて、本を閉じた。
―――ご飯をつくろう。
今日のうちから仕込んで、手の込んだものをつくろう。明日、男が来たらご馳走と笑顔で男を迎えよう。そして、「おかえり」って言って。
最初から、二人分につくった料理を、二人で食べよう。そうして私は、男に こう言ってやろう。
「私も、お似合いだと思います」
と―――。