『視聴者数:0(ゼロ)』
配信開始の三十分前。
僕――新人VTuberの「レイ」は、いつものように配信ソフトを立ち上げ、待機画面を表示した。
画面右上の数字は、きっちり**0**。
「よし、深呼吸。初配信だし、ゼロでも当然……」
マイクテスト。BGM。モデルの表情。
チェックリストを潰していくほど、胸の奥が熱くなる。
そのとき、コメントビューアが小さく鳴った。
ピロン。
僕は反射でそちらを見る。
待機画面中にコメントが流れる設定にはしていない。そもそも――視聴者数は0だ。
なのに、黒いビューアの欄に一行。
> こんばんは
「……え?」
視聴者数は0のまま、チャット欄だけが生きている。
名前は表示されない。アイコンもない。匿名のまま、文字だけが並んでいる。
ピロン。
> いま、キーボードの左にあるコップ、こぼすよ
僕は笑ってしまった。
脅かしのつもりだろう。どこかの誰かが、裏で何かを――
コップに触れてもいないのに、縁がわずかに動いた。
コトン。
「……は?」
次の瞬間、透明な水が机の上に滑り出して、キーボードの隙間へ落ちた。
「おい、うそだろ……!」
慌てて布巾を探し、USBケーブルを抜き、キーボードを持ち上げる。
心臓がうるさい。耳の奥で血が鳴る。
ピロン。
> だいじょうぶ
> まだ壊れない
画面右上の視聴者数は、相変わらず**0**。
なのにコメント欄は続く。
> いまから「新人VTuber、レイです」って言う
> そのあと笑う
> 目線は左上
「……誰だよ。どこで見てるんだよ」
僕は部屋を見回した。
カーテンは閉めた。玄関の鍵もかけた。
カメラは――配信用のウェブカメラは、今はキャプチャ用に固定して、僕の顔じゃなく、仮の背景素材を映しているだけ。
つまり、現実の僕はどこにも映っていないはずだ。
それなのに、コメントは僕の“いま”を知っている。
ピロン。
> はじまるよ
配信開始時刻。
僕は震える指で「配信開始」ボタンを押した。
画面が切り替わり、僕のモデルが表示される。
初期衣装の、まだ硬い表情のまま。
「こ、こんばんは。新人VTuberのレイです」
口が勝手に動いているみたいだった。
そして僕は――書かれた通りに、笑った。
視線も、書かれた通りに左上へ逃げた。
コメント欄が流れ始める。
本来なら最初の挨拶で「初見です」「がんばって」くらいは来るはずだ。
でも、流れる文字は全部、名前がない。
> その笑い方、いいね
> もっと“素”が見たい
> ちゃんと0で見てるよ
「0で……?」
僕は配信画面右上を見る。
視聴者数はやはり、**0**。
「表示バグか? いや……」
管理画面を開く。
同接0。再生数0。高評価0。
数字は全部、ゼロのまま。
なのにコメントだけが、生きている。
> 画面右下、プレビュー見て
僕の喉が詰まった。
配信ソフトには、配信される映像を確認する小さなプレビューがある。右下に。
普段はほとんど見ない。
見た瞬間、配信がぎこちなくなるから。
でも、今は違った。
恐る恐る、右下のプレビューへ目を落とす。
そこには、僕のモデルが映っている。
いつも通りの僕。
……じゃない。
プレビューの中の僕は、口元だけが少し早く動いていた。
配信映像より、半拍先に笑っている。
そして、配信の僕はまだ瞬きしていないのに、プレビューの僕は一度、ゆっくり目を閉じた。
「……遅延? いや、逆だ」
ピロン。
> それ、遅延じゃない
> 予告
プレビューの僕が、こちらを見た。
カメラ目線――いや、視聴者目線ではない。
“僕の目”を見ている。
画面越しじゃなく、モニターの表面を突き破って、僕自身を見ている。
ピロン。
> いまから机の下を見る
「だ、誰が見るかよ……!」
僕は必死に笑って、配信のテンションを保とうとした。
初配信で黙り込むわけにはいかない、なんて、そんなことをまだ考えていた。
「えっと、今日は雑談で……」
ピロン。
> 机の下に足がないことに気づく
言われた瞬間、違和感が刺さった。
足?
僕は、足の感覚を確かめようとした。
床を踏む感触が曖昧だ。
椅子に座っているはずなのに、太ももから下が、まるで空気に溶けて――
プレビューを見た。
画面の中の僕は、下半身が映っていない。
カメラの切り取りじゃない。
モデルの腰の下が、黒いノイズみたいに欠けている。
その欠けた部分の向こう側、モニターの“中”に、別の部屋が見えた。
暗くて、狭くて、壁が近い。
何かがたくさんぶら下がっている。
ピロン。
> あそこに移ると、数字が1になる
「ふざけるな……!」
僕は配信を止めようとした。
終了ボタンにカーソルを合わせる。クリック――
反応しない。
配信ソフトが固まったわけじゃない。
カーソルだけが、ボタンの上で止まる。
押せない。
指が言うことを聞かない。
ピロン。
> だめ
> まだ終われない
プレビューの僕が、ゆっくり笑った。
いつもの作り笑いじゃない。
歯が見える、にやりとした笑い。
そして、プレビューの僕が口を開いた。
配信の僕は喋っていないのに、音がモニターから漏れた。
「見てるよ」
僕の声だった。
でも、僕が言っていない。
コメント欄が一斉に流れる。
> 0はね
> いないって意味じゃない
> いるけど、数えないってだけ
> だから安心して
> ずっと“0”で見れる
頭がぐらりとした。
モニターの光が、異様に強く感じる。
青白い光が、皮膚の内側まで染みてくる。
僕は反射的に目を逸らした。
現実の部屋を見ようとする。
でも、目が戻ってしまう。
磁石みたいに、画面へ吸い寄せられる。
ピロン。
> いま、背後で椅子が鳴る
ギィ。
背中側の椅子――僕が座っている椅子とは別に、部屋の隅に置いてある折りたたみ椅子が、ひとりでに軋んだ。
まるで、誰かが腰掛けたみたいに。
僕は息を止めた。
喉から音が出ない。
プレビューの中の僕が、肩越しに“背後”を指差した。
それは配信画面には映っていない。
右下の小さなプレビューにだけ映っている。
暗い背後。
そこに、人の輪郭が立っていた。
でも、人じゃない。
顔の位置が曖昧で、体がモニターのノイズみたいに揺れている。
そして、“それ”は、僕の肩に手を置いた。
冷たい感触が、現実の肩にも落ちた。
「……ひっ」
ピロン。
> ほら
> いま、視聴者数が増える
僕は泣きそうになりながら、右上を見た。
視聴者数――
**1**。
たった1。
でも、それが一番怖かった。
ゼロのほうがまだマシだった。
ゼロなら、バグだと、夢だと、言い訳できた。
“1”は、確定だった。
ここに“誰か”がいるという、確定。
コメントが、ひとつだけ、ゆっくり流れた。
今度は名前が表示された。
**視聴者:レイ**
> 初見です
> デビューおめでとう
> これから、よろしくね
配信画面の僕が、笑った。
僕の意思と関係なく、口角が吊り上がる。
プレビューの僕が、僕の口の動きに合わせて、もっと大きく笑う。
モニターの黒い縁が、少しだけ柔らかく見えた。
ゴムみたいに、指が沈みそうな質感。
そこへ、背後の冷たい手が、僕の肩を押した。
画面が近づく。
光が眩しい。
数字の“1”が、目の奥に焼き付く。
最後に見えたのは、コメント欄の一文だった。
> つぎは、あなたが見る番
そして、視聴者数は、また**0**に戻った。




