第8話 先代賢者の遺言
理玖が安心したようだったので腕から下ろすと、シュシュのところに行って再び二人で遊びだした。
私は、ホッと息をついてソファに近づくと、長老が思い出したように言う。
「イオリ様、確か、先代賢者様は次代の賢者様宛に遺言状を書かれていたはず。どこかにありませんでしたか?」
「あ……そういえば……」
私はその言葉で、さっき机の上にあった何かが書かれていた紙のことを思い出した。
机の方に向かい、紙を手に取り目を滑らせる。
ーー次代の賢者へ
突然、異世界へ招かれて戸惑っていることだろう。
だが、心配することはない。
この村の小人族は穏やかで優しいものばかりだ。
小人族たちには二つの懸念事項がある。
一つは、やがてこの村に張られた結界が消滅するかも知れないことである。
そうなれば、小人族にとって獰猛な魔獣が跋扈するこの森で暮らすのは困難になるだろう。
もう一つは万が一人間たちに見つかれば、囚われた挙句、再び搾取される可能性が高いことだ。
俺は、ここの者たちを救いたい。
そして同時に、ここへ来た君のことも救いたい。
俺は時空を越える召喚魔法を施した。
しかし、望まぬ者を招くつもりはなかった。
ゆえに、その魔法構築にはいくつかの条件を加えた。
――自らの人生に裏切りや絶望を感じたことがある者。
――別の世界で生きたいと心から願ったことがある者。
――できることなら、もう一度人生をやり直したいと望んだ者。
君は、この世界へ来る前、自らの運命を儚んではなかっただろうか。
……もしそうでないのなら、
この召喚は成功していないはずだ。
だから、この世界で人生をやり直してはどうだろうか。
ただ、村の結界を強化するため魔力を注いで欲しい。
今後のことは本棚にある書籍を参考にしてくれ。
君がここで生きるための術が記されているはずだ。
もし、わからないことがあれば、この村の者に尋ねてほしい。
とくに長老は博識で、たいていのことには答えてくれるだろう。
――では、どうか存分にこの世界を楽しんでくれ。
先代賢者より
最後の言葉を読み終わると、胸の奥から、どろりとした怒りが湧き上がった。
楽しめ?
冗談じゃない。
誰が望んだ。
こんな展開を。
あのとき――夫の裏切りを知った瞬間、私は確かに絶望に打ちのめされた。
年を重ねても、互いに寄り添い続けられる夫婦でいたい。
そんなささやかな願いが、一瞬で木っ端微塵に砕け散ったのだ。
結婚する前に戻れたなら、すべてをやり直したいとさえ思った。
けれど――だからといって、こんな訳のわからない場所に来たいと願ったことなど、一度もない。
しかも、理玖がいるのに……。
私は唇を強く噛みしめ、俯いた。
「イオリ様……? 大丈夫ですかな?」
私の顔色に気づいたのだろう。長老が遠慮がちに声をかけてくる。
はっとして顔を上げた。
そうだ。ここで感情を爆発させたところで、何も変わらない。
私は、シュシュと無邪気に遊ぶ理玖へ視線を向けた。
遺言には「心配はいらない」と書かれていた。
けれど、幼い理玖を抱えてこの地で生きていくとなれば、不安しかない。
それに――きっと先代賢者も、まさかこれほど幼い賢者が、母親とともに召喚されるとは想像していなかっただろう。
……でも、立ち止まってばかりはいられない。
私は小さく息を整えた。
少しでも安心材料を得るために、まずは目の前の長老から、できる限りの情報を引き出そうと心に決めた。
先代賢者がこの家に住んでいたときは、長老は頻繁にここを訪れていたらしい。
と、それを聞いてちょっと疑問が浮上した。
さっき、長老は先代賢者が亡くなってから百年が経っているようなことを言っていた。
では、いま長老はいったい何歳なのだろうか?
もしかして、小人族ってとっても長生き?
疑問に思って尋ねると、長老は少し胸を張った。
「わしは二百六十七歳ですな」
「えっ!?」
思わず声が裏返った。
「小人族の寿命は三百年以上ありますからの」
三百年……。
人間の三倍近い寿命に、私はしばらく言葉が出なかった。
「だから、わしはあと百年は死なんつもりですぞ」
長老は愉快そうに笑った。
そんな長寿の種族だからだろうか。
この村の人口は百人ほどしかいないらしい。
子供は、いま七人だけだという。
……理玖のような小さな子が少ない理由も、なんとなくわかる気がした。
「この世界には私たちのような人間もいるんですか?」
私がそう尋ねると、長老の顔がわずかに曇った。
「……おりますとも」
その声は、どこか苦いものを含んでいた。
「しかし人間は、わしら小人族を対等には見ておりませぬ」
そうして長老は、静かに語り始めた。
かつて小人族が受けてきた迫害の歴史を――。
「人間の貴族はのう……わしらを道具のように扱った。働けぬ小人は、平気で森に捨てられたものです」
さらに長老は続ける。
「わしらだけではない。彼らはこの世界に存在する人間以外の種族を見下し、奴隷として扱うのが常でした。百年前、賢者様が助けてくれなかったら、わしらはいったいどうなっていたか……」
長老ははるか昔を思い描くように遠くを見つめた。
「そして、なんとか人間社会から逃げ出したわしらは先代賢者様の力を借りて、森の奥であるこの場所に今の村を作ったのですよ」
だから、小人たちは先代賢者に絶対の信頼を置いているのだろう。
きっと、彼らは次代の賢者が来ることを長年待ち受けていたのだ。
その賢者がまさかの二歳児。
彼らもこんな幼い子供が賢者として訪れるなんて思いもよらなかったに違いない。
私はシュシュと遊ぶ理玖を見つめた。
「チュチュ、こっち!」
理玖が無邪気に声をあげる。
その声を聞いて、胸の奥の怒りが少しだけほどけた。
あの小さな背中を守れるのは――もう私しかいないのだ。




