第5話 賢者の家①
「ここですぞ」
緩やかな山道を少し登った先に、その家はあった。
……ここが、賢者の家?
目の前にあるのは、低い木造の建物。
苔むした屋根は山の緑に溶け込み、壁板は陽と雨に晒されて色褪せている。
窓は小さく、扉も質素で、どこにでもありそうな山中の一軒家にしか見えない。
拍子抜けするほど、普通だ。
――けれど。
家の背後に聳え立つ巨木が、その“普通”を裏切っていた。
幹は異様なほど太く、ねじれた根が地面を割り、まるで家を抱え込むように基礎を包み込んでいる。
枝葉は空を覆い隠し、その影が家全体を静かに沈めていた。
まるで――この家を守っているかのようにも。
あるいは、閉じ込めているかのようにも。
気づけば私は、理玖を抱く腕に無意識のうちに力を込めていた。
「かぁたん……」
理玖はなんだか嬉しそうに私にギュッとしがみついてきた。
「さて、イオリ様。ここが今日からお二人の家ですぞ」
長老は玄関を指した。
「鍵を開けてお入りください」
「え?」
「先代が言っておりました。自分と同じ場所から来た者なら、必ず開けられる鍵だと」
「え? 自分と同じ場所って……え? その先代の賢者様ってもしかして……」
「イオリ様の思った通りですぞ。先代の賢者様も……異界から来た方だそうでな。きっと、イオリ様と同じ世界から来たのでしょう。さあ、どうぞ鍵をお開けください」
私と同じ世界?
——うそ。
でも、同じ世界だとしてもそれが日本だとは限らないよね。
「えっと……日本から来た……とは言ってないよね?」
念の為聞いてみる。
「ああ、そうそう……イオリ様のいう通りですよ。確かに日本という言葉を聞いておりますぞ」
日本……本当に日本から来たというの?
それだけで、胸の奥に押し込めていた何かがじわりと溶け出しそうになる。
先代の賢者様も――日本人だったなんて……
喉がうまく動かない。
それは救いなのか。
それとも――。
理玖を抱く腕に、思わず力がこもる。
「イオリ様?」
「あ、そうね。鍵、よね」
私は理玖を抱いたまま玄関に近づく。
「えっと、鍵って……え?」
扉の中心に並んでいたのはゼロから九までのアラビア数字のボタン。
その下には、見慣れた――けれど、きっとこの世界では見るはずのない――漢数字。
二、零、二、四、一、三、零。
……?
私は思わず目を細めた。
いや、待って。
二〇二四年
一月
三十日
ーー理玖の誕生日だ。
ーーこれは偶然?
そうだ。
きっと、ただの偶然。
そう思おうとするのに、胸の奥が静かにざわめいた。
私は、嫌な予感を無理やり振り払った。
でも、漢数字が刻まれているということはーー間違いない。
先代の賢者様は本当に日本人だったんだ。
「もしかして、この並んでいる漢数字を順番に押せばいいの?」
理玖の温もりを腕に感じながら心を落ち着かせる。
間違っていたら?
何も起こらなかったら?
それとも――拒絶されたら?
一瞬、不安が頭をよぎる。
けれど。
ここまで来て、立ち止まるわけにはいかない。
私は息を整えた。
山の空気が、不思議なほど静まり返っている。
腕の中で、理玖が小さく身じろぎした。
まるで――
これから何が起こるのか、わかっているかのように。
私はゆっくりと手を伸ばす。
扉の中央に並ぶ数字。
その最初の一つに、指先を触れた。
ほんのわずかに、指が震える。
深く息を吸い込み、私は押した。
2。
ピッ。
小さな電子音が鳴った。
静まり返った山の空気の中で、その音だけがやけに大きく響く。
……反応した。
私は思わず息を呑んだ。
次の数字に触れる。
0。
ピッ。
そして――
2、4、1、3。
最後の0に触れた瞬間――
扉の木目が、淡く光った。
まるで、長い眠りから目覚めるように家の奥で、何かが静かに動いた気がした。
巨木の葉が、ざわりと鳴る。
主人の帰還を告げるようだ。
家が応えてくれたみたいで、心が湧き立った。
「……こんなことって」
思わず声が漏れる。
「イオリ様」
長老が静かに言った。
「この家が、イオリ様を主人と認めたのでしょうな」
「主人……?」
「ええ、この家の主人はもう既にイオリ様と賢者様です。家の中のものは、何でもご自由にお使いください。それが先代賢者様のご意志です」
「……えっと、じゃあ、入りますね。失礼します」
この家に今、誰もいないはずだけれど、なんとなくそう声をかけてしまう。
私は理玖を抱き直し、ゆっくりと扉に手を伸ばした。
外から見た印象より、ずっと軽い。
力を入れることもなく、扉はすっと開いた。
軋み一つ立てない。
その瞬間――
家が微かに呼吸した気がした。
長く閉ざされていた扉が、ようやく開いたように。
ぬくもりのある空気が、ふわりと頬を撫でる。
「……え?」
思わず息を呑む。
そこにあったのは――
――土間だ。
外観とはまるで違う、和風の玄関。
期待は、いい意味で裏切られた。
私は思わず呟く。
「ここ……日本みたい」
その言葉に、長老が小さく笑った。
「先代の賢者様がこだわって、家の中をこのようにお造りになったのですよ」
私は理玖を見下ろした。
「……そう」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
先代賢者が日本人だったというだけで、少しだけ救われた気がした。




