第3話 小さな賢者と小人たち
私が数歩進んだところで、小さな家の木扉が、きい、とかすかな音を立てて開いた。
現れたのは赤い三つ編みの少女。
だが身長は、私の膝ほどしかない。
まるで十歳の子供を、そのまま小さくしたようだった。
それだけじゃなかった。
他の家からも小さなおじさんやおばさん、さらにはおじいさんやおばあさんまでが、次々と外へ出てきた。
もしかして……ここは、小人たちの住処……?
あまりにも現実離れした光景を前に、私はただ呆然と、その場に立ち尽くすしかなかった。
「あなたは、賢者様ですか?」
声をあげたのは、最初に家から出てきた三つ編みの少女だった。
ん? 賢者……?
この子、いま賢者って言った?
私は意味がわからず固まったまま動けない。
「わぁぁぁん……かぁたん……かぁたん……どこ……?」
その時、車の中から理玖の泣き声が聞こえた。
はっとして我に返り、慌てて後ろに停めていた車へ駆け戻った。
今は小人の少女よりも、訳のわからない出来事よりも、何より――理玖だ。
助手席のドアを開け、理玖を抱き上げる。
すると理玖は、ほっとしたような顔をして私にぎゅっと抱きついてきた。
「理玖、ごめんね。母さんは、ここにいるからね」
「……かぁたん……」
理玖の小さな手は、もう離さないとでも言うように、私の服をぎゅっと掴んでいた。
「ちょっとすまんが、賢者が現れたと聞いたのだが……其方がそうかな?」
低く落ち着いた声が、私の耳に届いた。
理玖を胸に抱いたまま、私はその声の方へ振り向いた。
そこに立っていたのは、これまた杖をついた小さなおじいさんだった。
腰のあたりまで届く長い銀白色の髭に、肩を越えて流れる白髪。
その姿は、古の名のある魔法使いのように見える。
深緑の瞳の奥には知性が宿り、穏やかな表情からは親しみやすさが滲んでいた。
――理玖を守らなきゃ。
そう思った途端、不思議と冷静さが戻ってくる。
私はひとまず、周囲を見渡しながら状況を整理することにした。
分岐点はきっと、あの青いバラのアーチ。
……そして今、目の前には小さな家々の集落と、大勢の小人たち。
軽自動車でここまで来た道を振り返る。
――ない。
そこにあったはずの道は、跡形もなく消えていた。
代わりに広がっているのは、隙間もないほど生い茂った木々だけだ。
どうなっているの?
胸の奥が、ひやりと冷える。
……もう、帰れないってこと?
絶望に近い気持ちで、私は再び小人たちの方へ視線を戻した。
皆、穏やかな雰囲気をまとっている。
きっと悪い人――人と呼んでいいのかは分からないけれど――ではなさそうだ。
私には、何より大切な理玖がいる。
この子を守るためにも、彼らの力が必要になるかもしれない。
おじいさんの口からも、さきほどの少女と同じ「賢者」という言葉が出てきた。
……もしかして、私のこと?
いやいや、違う。
私、賢者なんかじゃない。
どちらかといえば、愚か者だ。
だって、妻の目の前で浮気現場を披露するような馬鹿男と結婚してしまったのだから。
自分を卑下すると、切り裂かれたばかりの心の傷に、その言葉が沁み込んだ。
「賢者って……私、そんな存在じゃありません」
気づけば、低く重たい声が口からこぼれていた。
「そうですな。確かにお前さんは賢者様ではありません。確かに魔力は高いようですが……」
……魔力?
賢者に、魔力……
まるでファンタジーの世界じゃないか。
いや、まさか……。
そう思いながらも、視界には相変わらず小人たちがひしめいている。
いつの間にか、小人たちがさらに集まってきていた。
窓から顔を出す者。
屋根の上に登ってこちらを見下ろす者。
子供らしい小人は、物陰から恐る恐る理玖を覗き込んでいる。
それよりも――。
小さなおじいさんは、最初に私を見て「賢者」と呼んだ。
けれど、今ははっきりと、賢者は私ではないと言った。
……ということは。
私は、腕の中の理玖へと視線を落とした。
「そう。お前さんの腕の中におる、その小さき者こそが――賢者様ですぞ」
長老は目を細め、理玖を見つめた。
「いやはや……これほど幼き賢者様とは、わしとしても想定外としかいえませんなぁ」
そう言って、穏やかに微笑む。
長老の言葉があたりに響いた瞬間、小人たちの間にざわめきが広がった。
村人たちは互いに顔を見合わせ、次の瞬間、歓声があがる。
「おお!」
「賢者様ですと」
「やっと、この村に賢者様が!」
小人たちの声に圧倒される。
「えっと……理玖が、賢者だというのですか?」
私の腕の中で、理玖はまだ眠そうに目をこすっている。
とても世界を救う存在には見えない。
「リク……そちらの賢者様のお名前ですか?」
「ええ……」
賢者って……
いやいや。
この子、まだ二歳だよ?
さっきまで「かぁたん」って泣いてたんだけど。
当然ながら、二歳の理玖にそんなことができるはずがない。
そりゃあ、理玖が何かできるようになるたびに、
「この子、天才かも!」
なんて思ったことは何度もある。
でもそれが、親の欲目だというくらいは、さすがに分かっている。
「あの……この子、まだ二歳なんですけど。やっと言葉が話せるようになったくらいで、賢者っていうのは……どうなんでしょう?」
できるだけ丁寧に、けれど本音を隠さずにそう伝えると、おじいさんはふむ、と深く頷いた。
「心配しなさんな。確かにその子は、まだ幼い。だが、虹色の賢者のオーラを纏っておる」
小人の長老は、理玖をじっと見つめている。
まるで本当に何かが見えているかのように、その深緑の瞳が静かに細められた。
「虹色?」
「先代の賢者様と同じ色ですぞ」
「同じ色……?」
「わしにはオーラが見えるのですぞ」
長老は胸を張った。
小人たちが誇らしげに頷く。
「色と輝きで、その者の本質が分かるのですよ。――其方は、賢者様のお母君であらせられるか?」
「おはは……ぎみ……? えっと、母親ってことよね。そう、私はこの子の母親。名前は大里伊織よ」
「オオサトイオリ様……さすがは賢者様のお母君。なんと尊いお名前」
「い、いえいえ。そこまで尊くなんてありませんよ。それに、私のことは伊織でいいです。夫の姓なんて、もう捨てたいくらいですから」
そう答えると、おじいさんは、ふむ、と頷いた。
「では、イオリ様とお呼びしますぞ」
長老は目を細め、私をじっと見つめた。
「ふむ……其方、賢者様ではないが、魔力はそれなりにあるようですな」
「魔力……?」
思わず聞き返す。
まさか、私にも魔力があるなんて。
じゃあ、私、魔法が使えるかもしれないってこと?
「わしには、人のまとうオーラの色が見えるのですじゃ。イオリ様は、水色がかった銀色……癒しの力を宿す色ですな」
小さなおじいさんは目を細め、じっと私を見つめた。
「癒しの力……」
その言葉に、私の胸に小さな期待が芽生える。
「ここは……どこなんですか?」
私は恐る恐る尋ねた。
「幽玄の森ですぞ」
「森……?」
「そう。先代の賢者様が守ってくださった森です」
小人たちは、どこか誇らしげに頷いている。
――幽玄の森。
その名を聞いただけで、かえって状況が分からなくなる。
ここがどこなのか、まだ分からない。
元の世界に帰れるのかどうかも、分からない。
それでも――。
私は腕の中の理玖を見つめた。
小さな体から伝わってくる、確かな温もり。
この子を、守らなきゃ。
私は理玖を抱きしめた。
この子を守るためなら、どんな世界でも生きていく。
たとえここが異世界だとしても――。
そのためには、まずこの世界のことをもっと知ろう。
私はそう決心したのだった。




