第15話 先代賢者のお風呂
「かぁたん……かぁたん……」
体を揺すられ、理玖の声で目を覚ました。
「う……ん、理玖……?」
そういえば、昨夜は本を読んでいたら理玖の泣き声が聞こえて、ベッドで宥めていたんだった。
この状況を見ると、きっとそのまま一緒に眠ってしまったのだろう。
ぼんやりと視線を上げると、天井にはまだ夜空が広がり、星が瞬いている。
星を眺めながら眠るなんて、ずいぶんロマンチックだ。
けれど――時間がまったく分からないのは困りものだった。
窓も時計もないこの部屋で、先代賢者はどうやって朝を知っていたのだろう。
「かぁたん、ここ、どこ?」
不安げな声に、私は慌てて体を起こした。
「えっとね、ほら、昨日、小さなおじいさん……ええと、長老とシュシュに案内してもらったお家の中よ」
「ちょうりょうと、ちゅちゅ……?」
理玖は目をぱちぱちと瞬かせ、首をかしげる。
「そう。覚えてる?」
「うん、ちゅちゅ……ちゅごいの」
たどたどしく答えた、そのとき。
天井の星空が、ふっと明滅した。
――これは……訪問者?
昨日、ラウロが来たときも、同じように天井が点滅したのを思い出す。
どうやら寝室にも、客の来訪を知らせる機能が備わっているらしい。
するとその時、目の前に丸くて淡い光が現れ、弾けた。
「イオリ様、起きていらっしゃいますか? マーラです。朝食をお持ちしましたよ」
『風の頼り』……確か長老がそう言っていたのを思い出した。
誰もいないのに声だけが聞こえると言うのは何度体験しても不思議だ。
「理玖、おいで」
私は理玖を抱き上げて階下へ降りる。
リビングには窓から差し込む朝の光が、床の木目を淡く浮かび上がらせていた。
「かぁたん……しーする」
理玖の訴えに、途中でトイレに立ち寄ってから、玄関へ向かった。
扉の向こうにいたのは、”風の便り”の声の主、マーラさん、そして、その隣にはシュシュが立っていた。
シュシュが手前に浮かんでいる大きなバスケット――私にとっては普通のサイズだけど――を差し出す。
「ありがとうございます」
私はマーラさんに礼を言い、バスケットを受け取った。
「では、イオリ様、リク様。お疲れでしょうから、今日はゆっくりお過ごしください」
ありがたい気遣いに、素直に甘えることにする。今後のことも、落ち着いて考えたかった。
「リク様、またね」
シュシュがにっこり笑うと、理玖はきょとんとした顔で、二人の後ろをのぞき込んだ。
「にーたんは? にーたん、どこ?」
「にーたんって……ああ、ラウロお兄ちゃんのこと? お兄ちゃんは今日は畑仕事だよ」
どうやら理玖は、ラウロの姿を探していたらしい。
昨日、思いのほか理玖がラウロに懐いていたことを、私は思い出した。
「あら、ラウロはまだ子どもなのに、お手伝いするなんてえらいわね」
ラウロはシュシュより年上に見えたけれど、それでもせいぜい二、三歳差くらいだろう。
昨日会ったときはぶっきらぼうで、思春期前の反抗期かしら、なんて少し思ったけれど――きちんと家の手伝いをしているらしい。
長老の言っていた通り、根はいい子なのだろう。
「いやですよ、イオリ様。ラウロはもう十二歳です。畑仕事をするのは当然ですよ」
マーラがくすりと笑う。
「そうだよ、イオリ様。私だって、これからマーラおばさんと糸紡ぎをするんだから」
「そうなの? シュシュも働いているの?」
「当然よ。だって、私もう十歳なのよ」
シュシュは胸を張って言った。
十歳ですでに労働。
小人族は本当に働き者だ。
小さな体で、当たり前のように働いている。
――それが、ここでは普通なのだ。
……それに比べて、私は。
指先が、無意識にバスケットの縁をなぞった。
「……明日から、何か手伝わせてもらおうかな」
食事まで届けてもらっているのだ。
ただで施しを受け続けるわけにはいかない。
きっとここでは、日本のお金を渡したところで意味はないだろうし。
そう心に決めると、私は部屋へ戻り、まずは理玖と一緒に、マーラさんが運んできてくれた朝食をいただくことにした。
バスケットを開けると、四つのおにぎりに、蓋つきのカップに入った味噌汁、それから漬物まで入っていた。
この世界に似つかわしくないほど、見慣れた献立だった。
おにぎり同様、カップも、箸も、私にとってちょうどいい大きさだ。もしかしたら、いつか賢者が現れることを信じて、あらかじめ用意してくれていたのかもしれない。
おにぎりの具は、これまた定番の紅じゃけ……のようなものだった。
理玖も大好きなので、小さい口いっぱいに頬張って、一生懸命もぐもぐしていて、思わず頬がゆるんでしまった。
こうして並んだ食事を見ていると、
ここで生きていくことは、きっとできるのだと思えてくる。
……だからこそ。
……何か、返したい。
そう思った。
せめて――私にできることから。
ここで見たのは素材重視のメニューばかり。
ならば、私が頑張って色々料理を教えてもいいかもしれない。
こう見えても料理は意外と得意分野だ。
裁縫は苦手だけどね。
朝食を食べ終えると、私は理玖と一緒に、あの森の中にいるようなお風呂へ向かうことにした。
露天風呂のように開けたその浴場は、あまりにも本物そっくりで、服を脱ぐのさえ少し気恥ずかしくなるほどだ。
「うーん……これも先代賢者が作ったのかしら。脱衣所にはタオルもあったし、まるで旅館みたいだわ」
「りょきゃん?」
理玖が不思議そうに首をかしげる。
「あ、うん。旅館のお風呂みたいだなって思ったのよ。ほら、理玖も外にあるお風呂、入ったことあるでしょ?」
「うん、いしのおふろ」
「そうそう。ここのは木でできているみたいだけどね」
私はこれまで、夫の両親が営む旅館のお風呂を、理玖と一緒によく利用させてもらっていた。
あの湯気の向こうに広がる露天風呂。
理玖がはしゃいで、私の腕を引いた光景がふと蘇る。
もう、二度とあのお風呂に入ることはないだろうけど……
あの湯気の匂いも、四季の移り変わりを目にしながら感じる安らぎも、もう遠い昔のことのようだ。
暗い気持ちに引きずられそうになる。
湯気の向こうに、木々の影が揺れている。
……せめて、今だけは。
何も考えず、この温もりに身を沈めることにした。
……でも、いつまでも立ち止まってはいられない。
この温もりを守るためにも。




