第14話 ジェロール帝国【異界招来大円環】
それは――伊織と理玖が、この世界に召喚されたまさにその瞬間のことだった。
「こ、これは……!」
ジェロール帝国魔導院本館。
その大広間で、帝国大魔導士の一人ヴァルドレインが思わず声を漏らした。
目の前の大広間の中央、大理石の床に刻まれた巨大な魔法陣――異界招来大円環が、淡く光を放ち、脈打つように明滅していた。
その光景は、過去のあらゆる記録を記憶し、魔術式を習得しているヴァルドレインでさえ、説明不能なことだった。
百年以上ものあいだ、ただの古代遺物として沈黙していた大円環だ。
それが今さらこのような反応をするとは誰が予測できようか。
ヴァルドレインの喉が、ごくりと鳴る。
彼は元は平民の出でありながら、三十代という若さで帝国大魔導士の座にまで上り詰めた男だった。
短く切り揃えた亜麻色の髪。榛色の瞳の奥には、静かな知性が宿っている。
魔導士にしては珍しく、引き締まった体つきをしていた。
卓越した魔力と魔導技術を備える彼でさえ、この光景には驚きを隠せない。
この大広間には、これまで何度も足を運んできたヴァルドレインである。
だが――
こんなことは、未だかつて一度もなかった。
「馬鹿な……」
この円環が最後に使われたのは、帝国が“賢者”を異界から召喚した時だと記録には記されていた。
起動には膨大な魔力が必要であったとされてる。
その当時も、大魔導士五人の力が使われ、そのうち三人が全ての魔力を吸い取られ、命を落としたほどだ。
それほど危険な術式だった。
だからこそ、その時以来この円環が使われることはなかった――いや、使うことさえできなかった。
だが今、確かに光を放っている。
誰も術式を起動していないにもかかわらず。
「あり得ん……」
ヴァルドレインの背を、冷たい汗が伝った。
この世界で最も広大な領土を持つ国家ーージェロール帝国。
かつて帝国が賢者を求めた理由。
それは、大魔導士五人にも匹敵する魔力と、未知の知識を手に入れるためだった。
当時の帝国は、魔法の力で周辺諸国を押し潰し、版図を広げ続けていた――そう記録にはある。
だが、それでも帝国は満足しなかった。
さらなる力を求め、魔導院に腕利きの魔導士を集め、古代魔法の研究を進めさせていた。
そして、彼らはついに異界召喚を成功させた。
呼び出されたのは――後に「賢者」と呼ばれる男だった。
彼は未知の理論と技術、そして常識外れの魔力を持っていた。
だが、帝国は彼を客人として迎えたわけではない。
表向きこそ賢者として讃えられたものの、召喚されたその瞬間、彼の体には奴隷紋が刻まれた。
絶対服従を強いる魔術の刻印だ。
そのうえで賢者は帝国魔導院の地下で研究を強いられたのだ。
ヴァルドレインの脳裏に、地下保管庫で見た一枚の石板がよぎる。
そこには古い記録が刻まれていた。
――異界賢者拘束刻印。
人の胸に刻まれた複雑な魔術紋が、図式として残されている。
奴隷紋。
その中心には、魔力を封じるための鎖のような術式が幾重にも重ねられていた。
ヴァルドレインは、あの石板を初めて見たときのことを思い出す。
石に刻まれた魔術紋を見た瞬間、悍ましさに震えた。
あれは――人に刻むものではない。
魔導士として数多の術式を学んできた彼でさえ、あの紋だけは“術”ではなく“呪い”に見えた。
あの紋を刻まれた者が、帝国に逆らうことはできない。
新たな魔法の創出。
魔導兵器の改良。
未知の理論の教授。
彼の知恵は、容赦なく搾り取られた。
そして、その成果は確かだった。
やがて生み出された魔導兵器は、一国を滅ぼすほどの力を持つに至った。
だが――賢者の最期は記録に残っていない。
逃亡したとも、密かに処分されたとも言われている。
真実を知る者は、もう誰もいない。
ただ一つだけ語り継がれていることがある。
帝国の繁栄は、ひとりの異界の賢者の犠牲の上に築かれた――ということだ。
「これは……すぐにでも陛下へ知らせねば……」
帝国大魔導士ヴァルドレインは、思わずそう呟いた。
だが、言葉は途中で止まる。
大広間の中央。
異界招来大円環が、ゆっくりと、脈打つように明滅している。
その光は、不規則だった。
まるで――遠く離れた場所にある何かの“鼓動”に呼応するかのように。
誰も術式を起動していない。
ならば――
……あり得るとすれば、一つだけだ。
どこかで、新たな異界召喚が行われた。
そしてこの円環が、その召喚に共鳴している。
だが、おかしい。
いったい誰が召喚者だというのか?
この古代魔術式は、帝国に残るこの円環しか存在しないはずだ。
では、どうやってこの術式を知り得たというのか。
もしこのことを陛下に報告すれば――。
命令は決まっている。
召喚者を探し出せ。
そして、異界の賢者を帝国へ連れてこい。
……鎖につないででも。
ヴァルドレインは、無意識に拳を握りしめていた。
「”賢者”と呼ばれるものが記述の通りのものだとしたら、そう安易に見つけられるとは思えない……が……」
万が一、また賢者にあの忌まわしい枷を嵌められたとしたら……
逡巡は、一瞬だった。
この円環の明滅を見た者は、ここには自分しかいない。
ならば――
「……見間違い、か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして彼は背を向けた。
皇帝への報告は――しない。
その判断が反逆に等しいことを、ヴァルドレインはよく知っていた。
それでも。
――自由を奪い、奴隷のように使うのは間違っている。
その判断が、のちにどれほど大きく運命を動かすことになるのか。
このときのヴァルドレインは、まだ知らない。
――その判断が、帝国の運命を狂わせることになるなど。




