第12話 遠吠えの正体
――オオォォォォン……。
今度の遠吠えは、さきほどよりもずっと近い。
胸の奥を直接震わせるような、低く長い咆哮だった。
「……い、今の、遠吠え……ですよね?」
恐怖がじわりと込み上げ、声が思うように出ない。
「白狼族ですな。今夜は満月。奴らが活発に動く夜なのでしょう」
長老は顔を顰め、重々しく頷いた。
「白狼族……? それって、狼ってこと?」
「夜は……ですな」
「夜は?」
「昼間は人の姿をしておるのですよ」
静かに答えたのはマーラさんだった。
「あいつら、小海を狙ってるんだ!」
ラウロが怒りを滲ませ、声を荒らげる。
――ちょっと待って。
今、昼間は人の姿をしているって言った?
ということは。
狼人間……?
うわ、ほんとに?
でも、ここは異世界だ。
そういう存在がいても、おかしくはないのかもしれない。
「あ、でも……人の姿になれるなら、話し合いはできないの?」
わずかな希望にすがるように、私は言った。
「難しいでしょうな。たとえ人の姿になれたとしても、彼らは我らよりはるかに体躯が大きい。それに、万が一彼らに襲われたら我々はひとたまりもないのですよ。そんな危険は犯せません」
小人族から見れば、たいていの種族は大きく見えるのでは――そんな疑問が一瞬よぎる。
けれど、今は口に出せなかった。
きっと、小人族は自分たちの弱さを知っている。
だから、なるべく白狼族と関わらないようにしているのだろう。
それが唯一、自分たちを守る術なのだ。
「でも、大丈夫だよ。先代賢者様の結界があるから」
シュシュが、押し黙った私を安心させるように微笑む。
けれど長老とマーラさんの表情には、消えきらない翳りが落ちていた。
その表情に、得体の知れない不安が、じわじわと胸の奥に広がっていく。
「イオリ様、シュシュの言う通り、先代賢者様の結界がわしらを守っております。心配はいりませぬ。あの結界がある限り、わしらよりも強い者は通り抜けることはできません。まだ、結界は機能しておりますからな」
――まだ。
その一言が、やけに重く響いた。
では、この先、機能しなくなる可能性があるということ?
そうだ。
だから、私と理玖はここに呼ばれたんだった。
胸がどくんと大きく鳴る。
「結界が弱まっているのですか?」
私の問いに、長老は少しだけ視線を伏せた。
「近頃、満月の夜に限って揺らぎが見られます。白狼族は、それを嗅ぎ取っておるのでしょう」
遠吠えが響いた、その瞬間――周囲の空気がゆらりと揺らめいた。
まるで目には見えない透明な幕が張り巡らされ、そこへ強い衝撃が叩きつけられたかのように、空間が波打つ。
……あれが、結界。
きっと、先代賢者の残した守りの力なのだろう。
見えないはずなのに、そこに“在る”とはっきり感じられる。
その存在感が、かえって事態の深刻さを物語っていた。
「……結界は持ちこたえますよね?」
自分でも情けないと思うほど、小さな声だった。
長老はゆっくりと頷く。
「あと数年は、大丈夫でしょうな。それまでは、わしらはあの結界に守られますよ」
数年は……
その言葉に、背筋が冷える。
数年後でも、理玖はまだ四、五歳にすぎない。
そんな幼い子どもに、いったい何ができるというのだろう。
そのとき、白狼が再び咆哮を上げた。呼応するように、森の奥から次々と遠吠えが重なっていく。
さっきまでは恐怖が優って気が付かなかったけど、何だかその声はどこか哀愁が滲んでいるような気がした。
月は、容赦なく丸く白く、夜空に浮かんでいた。
何度か結界の揺らめきを感じたのち、森はやがて静寂に包まれる。
「ああ、どうやら白狼族も諦めたようですな」
長老はほっと息をついた。
心を揺さぶるような遠吠えが消えても、その余韻がじわじわと胸の中に広がっていく。
まるで、闇が理玖の未来を削り取っていくかのようで、足元が揺らぎそうになる。
それを、私は必死にこらえた。
腕の中の理玖のぬくもりが、かすかな勇気をくれる。
さきほどまで身じろぎしていた理玖は、いつの間にか静かに眠りに落ちていた。
祝宴がお開きになると、私は理玖を抱いて、再び賢者の家へと戻ってきた。
車に積まれていた荷物は、小人たちが魔法でふわりと宙に浮かせながら運んでくれた。
長老の話によれば、風の精霊の力を借りているらしい。
小さな体の彼らが、大きな荷物を軽々と空中に漂わせている光景は、どこか夢の中の出来事のように不思議だった。
上の階にあった星空のベッドルームへ理玖を運び、そっとマットレスに寝かせる。
ふかふかとしたそれは、見るからに寝心地がよさそうだ。軽やかな掛け布団は羽毛だろうか。
やわらかく、包み込むような温もりが伝わってくる。
理玖はよほど疲れていたのだろう。
すぐに規則正しい寝息を立て、ぐっすりと眠っている。
本当は、森の中にあったあの幻想的なお風呂にも入りたかった。
けれど、今はそんな余裕はない。
私も隣に横になろうとしたが、とても眠れそうになかった。
異世界に迷い込み、小人族と出会い、白狼族の脅威に震えた一日。
あまりにも出来事が濃すぎて、まるで現実感がない。
こんな体験をして、心を落ち着かせようとするのは無理な話だ。
理玖の寝息を聞きながら、自分に問いかける。
「私にできることは……何だろう」
結界があと数年しかもたない現実を思うと、焦りと無力感が入り混じる。
それでも、理玖を守りたい気持ちは揺るがない。
その思いのまま、頭の片隅にある記憶が呼び覚まされた――
そういえば、本棚には魔法という文字が書かれた本がずらりと並んでいた。
もし、本当に私にも魔力があるのだとしたら……
できるかどうかはわからない。
でも、何もせずにはいられなかった。
私は理玖の寝顔を見つめ、ぐっすり眠っていることを確かめると、起こさないようそっと部屋を出る。
そして、静まり返った階下へと足を向けた。




