第1話 プロローグ
賢者の死を、人間は誰も知らない。
その最期を見送るのは――人ならざる者たちだけだった。
静けさの中に、多くの啜り泣きだけが森の空気を震わせていた。
果てしなく続く木々が、外界を拒むように空を覆っている。
一度迷えば二度と戻れぬ。
人々の間でそう恐れられてきた森の奥深く。
そこにひっそりと存在するのは彼らが住まう小さな村。
人間が決して踏み込まない場所だ。
だが、彼らにとっては違う。
そこは、賢者が与えてくれた居場所。
彼らが静かに、そして確かに生きていくための場所だった。
その村が、今、深い悲しみに包まれている。
素朴な木の温もりを残す棺の中に横たわっているのは、かつてこの世界で「賢者」と称えられた一人の男。
顔に刻まれた深い皺には、若き日の面影はほとんど残っていない。
ただ一つ――今は瞼の裏に隠れた神秘的な黒い瞳だけが、あの頃の賢者の名残を留めていた。
風が梢を揺らし、葉擦れの音が波紋のように森の奥へと広がっていく。
棺を囲んでいるのは、小さき者たち。
人の形をしているが、人と呼ぶにはあまりにも小さすぎる。
「さあ、民たちよ。賢者様に最後のお別れをいたしましょうぞ」
その中の年老いた一人——それはこの村で長老と呼ばれる者——が穏やかな声で、しめやかに告げた。
風に揺れる長い銀髪と髭。
小柄な体躯ながら、その佇まいには小人族の長にふさわしい威厳がにじんでいる。
彼の視線が、若い小人の手元に落ちる。
そこには、かつて人間に繋がれていた鉄鎖の痕が、白く残っていた。
あの城から逃げ出した夜を、忘れた者はいない。
奴隷のように扱われ、追われるように辿り着いたこの森。
だが、ここもまた容易に生きられる場所ではなかった。
村を囲む透明な膜が、風に揺らいだ。
それは、今もなお賢者が遺した結界。
魔獣の爪も、牙も、ここまでは届かない。
賢者は小人族の集落だけではなく、人間たちに囚われたままの小人たちも救い出してくれた。
棺の前に進み出た長は、深々と頭を垂れた。
その背は、地面に触れそうなほど低かった。
「賢者様、これまでわしらをお守りくださいまして、誠に感謝しますぞ」
震える声で告げた長の頬を一粒の雫が流れる。
棺の中に捧げた花は、かつて賢者が好んだ青いバラのような形をしていた。
その後に続いて、他の小人たちが一人、また一人と棺の前に進み出て、手にした花をそっと捧げる。
小さな手で触れた棺は、氷のように冷たかった。
まるで「もう温もりは戻らない」と告げているかのように。
花に埋もれたまま眠る賢者の顔を見つめ、堪えられなくなったのか、一人の若い女性の小人が激しく嗚咽を漏らした。
「賢者様、どうか……安らかに……」
胸に刻みつけられた、賢者が最期に遺した言葉が、彼らの心に鮮やかに蘇る。
「俺の命は、もう長くはない」
静かだが、揺るぎのない声だった。
「人間社会を離れるとき、特権階級の者どもに刻まれた奴隷紋を強制的に壊した。その反動が今になって現れたのだ。魔力が戻らない。このままでは……そう遠くないうちに、俺は死ぬ」
小人たちは息を呑み、言葉を失った。
「だが、安心してくれ。この地に、俺と同等――いや、それ以上の賢者が現れるよう、召喚魔法を構築しておいた」
その告白に、小人たちの間にざわめきが走る。
「しかし、この魔法を発動させるには膨大な魔力が必要だ。だから……俺の命を削り、残るすべての魔力を注ぎ込む」
「やめてください!」
若い小人の娘が、賢者の衣を掴んだ。
「あなたがいなくなったら、私たちはまた……!」
その小さな手は震えていた。
鉄枷の痕は、過去の傷がまだ癒えてはいない証のようにそのまま残っている。
「どうせ残りわずかな命だ。他にできることもない。それに、俺が施した結界も永遠ではない。召喚魔法が発動しても、次の賢者がいつ現れるかは分からない。数年後かもしれないし、百年先かもしれない。だが――必ず現れる。俺の代わりとなる賢者が」
その声音は穏やかで、どこか遠い未来を見つめているようだった。
「その者は……かつての俺と同じ色をしているはずだ。闇を映す、あの色を……」
その言葉は、祈りのように小人たちの胸へと深く刻まれた。
「次代の賢者が現れたなら、どうか丁重にもてなしてやってくれ。そして……俺が住んでいた家を与えてほしい」
言い終えると同時に、賢者は静かに召喚魔法を発動させた。
瞬間、空が雲に覆われる。稲妻が走り、轟音が大地を震わせた。
最後に賢者の頭に浮かんだのは、若かりし頃、たった一人愛した女性の姿だった。
清廉な空気を纏う女性。
胸の奥深くに刻まれたその想いは死の間際、まるで彼女が自分を呼んでいるかのような錯覚に囚われた。
雷鳴が遠ざかる刹那、賢者はかすかな声で呟く。
「……彼女だけは、守りたかった……」
その後悔の言葉は、縦横無尽に空を裂く光と、落ちてくる雷の轟きにかき消され、誰の耳にも届かなかった。
魔力が暴走し、強風が吹く。
吹き飛ばされないように踏ん張る小人たちは、賢者の身体から光が剥がれ落ちるように散っていくのを見た。
「「「賢者様!」」」
風が止むと、小人たちが駆け寄った。
だが、すでに彼の呼吸は止まっていた。
賢者は、既に――その生涯を終えていたのだった。
小人族は、亡くなる直前に託されたその言葉を胸に、棺の中の賢者へと深く頭を垂れる。
彼らは誓った。
いつか森に現れるという、黒い髪と黒い瞳の次なる賢者を――
彼の言葉を信じ、待ち続けるのだと。
森は、いつもと変わらぬ静寂のまま、彼らの誓いと賢者の眠りを静かに包み込んでいった。




