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ドッグランに行こう

今日は出社する前に、明日チョコを引き取ってくれる家に出向いた。

「鈴木さん、チョコを引き取ってくれてありがとうございました」

「いえ!息子も『犬を飼える』と喜んでいます」

「それは良かった。大事にしてあげてくださいね」

「はい」

俺は軽く挨拶を済ますとさなえの居る会社に向かった。さなえはこのことを知らない。明日知らされるのだ。本当ならもっと長い期間チョコと一緒に居てもらう予定だったが、充分さなえとチョコの間には絆ができているし、別れるのは早い方が辛さが大分マシだろう。早い期間でチョコとさなえを引き離すのは、俺のほんのひと握りの人間の心のおかげだ。


俺がさなえの部屋の戸を開けると、元気な声が聞こえる。

「佐藤さん!おはようございます」

さなえは遊園地で『楽しい』という感情を覚えてから、元気な声を出すようになった。

「おはよう、さなえ」

俺は挨拶をすると、早速本題に切り出す。

「今日はドッグランでチョコと一緒に遊んでもらう」

「ドッグラン?」

「犬と犬の交流の目的で作られたものだが、飼い主と犬が存分に遊べる場所でもある」

「なるほど」

「さあ、行くぞ」

俺はチョコと遊べることに喜んでいるさなえを見て心が痛んでいることを無視した。


ドッグランに着くと、さなえは早速フリスビーを投げた。チョコがフリスビーを華麗に取ってくると、さなえは嬉しそうにチョコを撫で回す。

「生物は生き延びるために、日々成長や進化をしなければいけない。成長をした動物や人間が喜ぶのは生きるためだが、大切な人が喜んでいる時、嬉しくなるのも人間の特性だ。それが人間特有の愛情というものだ」

「なるほど、私はチョコに愛情があるから、成功も喜べるんですね」

「そういうことだ」

さなえは頬を赤らめながら笑った。

「ここのドッグランには散歩コースがあるんだ。散歩コースは山道で舗装されてないけど、人気のコースだ。行ってみるか?」

「はい!」

俺たちは散歩コースである山道に入り込んだ。こもれびが綺麗で、山特有の植物の匂いが鼻を通る。山の頂上に着くと、少し曇っているため、薄灰色の空が広がっていた。

「綺麗な景色じゃなくて、残念だな」

「私にとっては初めての景色を見れて、嬉しいです」

「それなら、良かったな」

その時、俺のスマホから着信音が鳴り響く。

「会社から電話だ。ちょっと行ってくる」

「はい。分かりました」

「散歩コースを外れると熊が出るから気を付けろよ。熊が出たら真っ先に俺に報告しろ。俺は狩人の連絡先を持っているからな」

「それは心強いですね」

俺は軽く手を挙げ『行ってくる』とジェスチャーした


チョコと二人きりになった私はまだ走り足りないと言いたげなチョコと周りを散策することにした。

チョコの嬉しそうな足取りを見て、私もつい足が早まる。その瞬間、地面が少し沈んだ感覚がした。土が崩れ、石が滑った音がする。チョコも私に引きずられて急斜面を滑っていく。

私たちがようやく止まった場所は、けもの道だった。

「チョコ!」

私は真っ先にチョコの無事を確認した。

チョコは擦り傷はあるものの、骨などは折れていないみたいだった。

「ごめんね、チョコ。私のせいでチョコまで…」

チョコは私の顔を舐めた。

まるで、「気にしないで」と言っているかのように。

私も体を動かすと、どこも故障はしていない様子だったので、佐藤さんの車が止めてある駐車場を目指して歩き始めた。最初は何気なく歩いていたが、『このまま遭難したらどうしよう』『獣に遭遇したらどうすればいい?』とだんだんと得体のしれない感情が湧き上がってくる。これはおそらく不安だ。胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。足音だけがこの世の全てに思える。私は不安に押しつぶされて、その場に座り込んでしまった。チョコがこちらにやってきて、顔を舐める『大丈夫、僕が居る』と言ってくれているみたいだ。私がここで諦めたら、チョコも死んでしまう。そんなのは絶対に嫌だ。私はまた一歩一歩確実に歩き始めた。すると、茂みの中から熊が現れた。私は一瞬、フリーズしてしまう。チョコは絶え間なく吠え続けている。

(どうする?どうすれば良い?)

と、頭の中を巡る中、チョコとの思い出が呼び覚まされた。

「チョコ、逃げて!」

私はクマに向かって突進した。

(熊との戦い方を検索、熊は鼻に敏感なため鼻を狙ってパンチすれば、逃げてくれるかもしれない)

だが、そうは簡単にいかなかった。熊も鋭い爪を振り上げ、私の腕に向かって振り下ろしてきた。腕でガードしたけれど、機体の内部が損傷してしまった。腕が使えない中で、私が出来ることは、もう動かない事だった。幸い熊はチョコには興味が無いようで見向きもしない。チョコは絶え間なく吠えているが、効果はない。私は最後の時なのだと目をつぶった。その瞬間、銃声が聞こえ、熊が倒れる気配がした。目を開くと、佐藤さんと狩人と思われる人が立っていた。

「良かった…!さなえ」

佐藤さんはそういうと、私を抱き寄せた。

「散歩コースを一周してもさなえやチョコが居なかったから血の気が引いたぞ」

そういうと佐藤さんはクシャクシャ私の頭を撫でた。

「ここに迷い込む人は結構いるよ」

狩人の人は言った。

「ありがとうございました」

私と佐藤さんが頭を下げると、狩人の人は安心したように

「じゃ、下山しようか」

その言葉を合図に私たちは駐車場へと歩き出した。


会社に着くとさなえは早速、損傷した腕の修理に取り掛かった。

「こんなに損傷して…治せるから良かったものの無茶しすぎだ」

「すみません。チョコが居なくなっちゃうかと思うと、頭が真っ白になってしまって」

ズキンと俺の胸が痛んだ。けれど、言わなくてはいけない。

「なぁ、さなえ…チョコとは今日でお別れなんだ」

さなえは目を見開いて

「それはどういう意味ですか?」

と混乱したような顔で質問した。

「そのままの意味だ。明日、鈴木さんにチョコを明け渡す」

「そんな…」

さなえの顔がみるみる絶望したような表情に変わっていった。また、俺の胸がズキンと痛む。

(俺は…傷ついているのか?傷付きたいのはさなえの方だろうに)

「その話、無しにできませんか?」

「できない。これは命令だ。諦めろ」

俺はなるべく冷酷に告げた。最初から分かっていたことだか、この仕事は思った以上に嫌な役回りだ。いや、そんな事を想ってはいけない。自分のやったこと、やる事から逃げてはいけない。俺は嫌な役が回ってきたのではない。自ら進んでこの役を引き受けたのだ。

今更、罪悪感など感じてはいけない。俺は、ただ仕事を全うしなければいけない。このプロジェクトを成功させれば、より多くの人を救うことになる。さなえはこの先、家族を失った悲しみを抱えるだろうが、些細な犠牲である。俺はより多くの人を救うために、延いては俺を肯定してくれる人を増やすために必要なのだ。…本当に?目の前の女の子を泣かせた俺を肯定してくれる人は居るのか?俺は自分を肯定できるのか?肯定してくれる数より、大事なのは『誰が』なのではないか?


「さなえ、鈴木さん家へ行くぞ」

「はい」

さなえの顔は暗い。俺の行動は本当に正しいのだろうか。いつもなら車を走らせているとき、さなえと俺には会話があるが、今日あるのは重苦しい雰囲気だけだった。

「佐藤さん、わざわざご足労頂き、ありがとうございます」

鈴木さんが出迎えてくれた。

「そちらが病気の娘さんね…大変だったわねぇ」

病気の娘とはさなえの事である。プロジェクトは完全に秘匿状態にしなければいけない。そのため、チョコを飼えなくなった理由は『俺の娘であるさなえが病気になり、その治療費を払わなければならず、犬を飼っている余裕がなくなったから』と鈴木さんには嘘をついた。もちろん、事前にさなえと口裏を合わせてあるので、バレる心配はない。問題はここから、いかにチョコを渡すことを本当の事を言わずに阻止できるかである。…なんの心境の変化だと読者が俺の心を読んでいるのなら思うだろう。しかし、他人に肯定されるよりも、自分を肯定したい。そのために、俺はチョコを明け渡すのをやめた。

「鈴木さん、そのことでお話がありまして」

「何かしら?」

「もう、娘の命は長くはありません。そこで、少し生活が苦しくなりますが、家族であるチョコと少しでも長く一緒に居させたいと考えが変わりました」

鈴木さんは神妙な面持ちで話を聞いてくれた。

「誠に勝手ながらチョコを渡す話はなかったことにして頂きたいです」

「分かりました。少しでも家族と居たい気持ちはよく分かります」

鈴木さんがそういうと、さなえの目からポロポロと涙が零れ始めた。

「ありがとうございます」

さなえはうつむいたまま、お礼を言った。俺もお礼を言うと、その場を後にした。


「佐藤さん、何故私は涙を流したのでしょうか?チョコと一緒に居られることになって嬉しいはずなのに」

「人間はあまりに嬉しいと涙が出るんだよ」

「そうですか…佐藤さん、チョコの事は上司になんて伝えるんですか?上司の命令なんですよね。チョコと私を引き離すように命令したのは」

「上司には何とか言っておくさ」

そういうと、さなえは頬を赤らめながら笑った。上司や同僚はこの判断を責めるだろう。けれど、俺だけはさなえの味方で居たい。さなえの心を大切にしたい。

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