レモン
僕は、一番奥まった場所にあるテーブル席で、店内に流れる曲に静かに耳を傾けていた。
初めてこの喫茶店を訪れた時にも流れていた曲。マスターの好きなアーティストの曲だと教えてもらったけど、僕にとっても思い出の曲になっている。
カランカラン――。ドアベルが鳴った。
「マスター、こんにちは」
ドアベルの音と共に、静かな店内に落ち着いた声が響いた。その声を聞いた僕は、嬉しくなって立ち上がった。
「颯太くん! こっちこっち!」
ちょうど今は店内に他のお客さんがいないので、僕は入口に立つ人物に向かって大きく手を振った。
彼は僕の姿を確認し、ニコッと太陽のように微笑んだ。
「お待たせ」
「ううん、僕も今来たところ」
僕は嬉しくてそう言ったけど、本当はもう一時間以上待っている。
きっと彼はそのことにも気づいているだろうけど、「それなら良かった」そう言って、僕と向かい合わせになって座った。
「もう頼んだ? いつものでいい?」
「うん!」
一時間でも二時間でも、待つ時間さえも楽しいし嬉しいから、全然苦にならない。
僕がニコニコと微笑んだら、目の前の彼も一緒になって微笑んでくれた。
彼は、高校生になって初めてできた僕の恋人、颯太くんだ。
以前は同性婚が許されるのは、アルファとオメガのみだった。けど今はバース性関係なく、好きな人と結婚ができる時代になった。
お互いにまだバース性は分からなかったけど、僕たちはずっと一緒にいようね……そんなふうに将来の夢を語っていた。
それなのに、あの日――。
いつもと同じように、学校帰りに喫茶店へ行ったら、そこにいたのは颯太くんの母親と名乗る女性だった。
颯太くんと僕との関係を聞かれ、お付き合いをしていますと伝えたら、バカにしたように鼻で笑われた。『あの子があなたのようなオメガを、本気で好きになるわけがないでしょう?』と。
僕はその時、バース検査の結果がはっきりと出ていなくて、経過観察となっていた。だからアルファなのかベータなのかオメガなのかさえも分かっていなかった。
なのに、颯太くんのお母さんは、僕がオメガだと言い切ったんだ。
その直後、すごい圧を感じて僕はその場に倒れ込んでしまった。
後で病院の先生が、『アルファの威圧を受けたのでしょう』と言っていたから、颯太くんのお母さんはきっとアルファなんだと思う。
僕はこのことがきっかけで、はっきりオメガだと診断された。そして、遠く離れたオメガ専用保護施設へと入ることになった。
施設に入ってすぐ、僕の元に一通の手紙が届いた。『颯太は婚約者がいる。二度と颯太の前に現れないように』という内容の、一方的な通達だった。
こうして僕たちは引き離され、幸せな日々に、終止符が打たれた。
◇
あれから十年の時が流れた。
僕は、オメガ専用保護施設で大学卒業まで過ごした。オメガの保護を謳っているだけあって、至れり尽くせりだった。
不自由なく過ごし、オメガの友達もでき、この施設を出ても困ることのないように、サポートしてくれた。
そんな十年間を過ごし、僕はお世話になった施設を出て、今年の春から働き出した。就職先に選んだのは、生まれ育った思い出の地だった。
せっかく生まれ故郷に戻ってきたから、何度も懐かしの喫茶店に足を運ぼうとした。……けど、心のどこかでブレーキをかけてしまう自分がいて、どうしても勇気を出すことができなかった。
「颯太くんと会えなくなってから、ちょうど十年か……」
まだまだ寒いのに、もう暦の上では春だなんて……とぼやいた節分もすぎ、世の中はバレンタインムードに包まれていた。
颯太くんと会えなくなったのも、ちょうどバレンタイン間近の寒い冬の日だった。どうしても、バレンタインが来ると思いだしてしまう。
颯太くんのお母さんに会ったあの日、僕は手作りチョコレートを準備していた。初めての手作りチョコは、形は不格好になってしまったけど、颯太くんへの思いをたくさん詰め込んだ。
けどそのチョコの行く先は、僕のお腹の中だった。無理をして食べたあの日から、僕はチョコレートが食べられなくなってしまった。
でも、あれから十年の月日が流れ、僕は社会人になった。いつまでも、思い出に縛られているわけにはいかない。
もうこの町にはいないだろうから、きっと会うこともない。そう自分に言い聞かせて、十年振りの思い出の喫茶店へ顔を出すことにした。
ちょうど切りの良い十年。思い出にピリオドを打つんだ。いつまでも引きずっていたって仕方がない。気持ちの整理をつけないと……。
カランカラン――。
「いらっしゃいませ」
十年前と変わらないドアベルの音、マスターの声、時が止まったままのような店内。一気に十年前に戻ったかのような錯覚を覚えた。
僕は少しキョロキョロしながら、いつも座っていた席へ腰を下ろした。
「春陽くん、いらっしゃい」
「あ……お久しぶり……です……」
マスターは、十年ぶりということを全く感じさせず、変わらぬ様子で僕に声をかけてくれた。
けど僕は、何か後ろめたい気持ちが先立ち、答える声が小さくなってしまった。
「ご注文は?」
「レモンティーと紅茶のシフォンケーキをお願いします」
「いつものですね。かしこまりました」
十年も時が過ぎているのに『いつもの』と言ってくれるマスターの優しさに、涙が出そうになる。詳しい事情は知らなくても、僕たちに何かがあったことくらいは知っているだろう。
それでもこの喫茶店もマスターも、十年前と変わらずこの場所にある。そのことが、張り詰めた緊張の糸を緩ませたのかもしれない。僕の瞳からは、スーッと一筋の涙が流れ落ちた。
でもその涙は、寂しいとか悲しいとかじゃなくて、不思議と心のつかえが取れたようなそんな気がした。
「お待たせしました」
マスターは、いつものレモンティーと紅茶のシフォンケーキをそっとテーブルに置いた。
「はい、これは元気の出る飴玉だよ」
マスターは注文の品を置いた後、オレンジ色の包み紙を僕の手のひらに乗せ、ぎゅっと握らせた。
「ありがとうございます。気持ちが落ち込んだ時に食べますね」
マスターは「うん」と言ってうなずくと、それ以上何も言わずにカウンターに戻って行った。
全然元気なんかじゃないのに、僕は『今は平気』と強がってしまった。
今も引きずっているなんて、思われたくなくて……『もしかしたら』とゼロに近い可能性にかけて、思い出の喫茶店に足を運んでいるなんて……。
そんな、女々しい僕を、隠してしまいたかったんだ。
「ほんと、未練がましいよな……」
自分の事ながら、苦笑してしまう。気持ちを整理するためにここへ来たのに、逆に懐かしい思い出が次から次へと溢れ出し、整理するどころではなくなってしまった。
その上、僕の心を弄ぶかのように、店内には思い出の曲まで流れてきた。
「何が未練がましいって?」
複雑な思いを胸に抱えつつ、懐かしい曲へ耳を傾けていたら、突然頭上から声が降ってきた。
えっ……。
とても懐かしくて、耳心地の良いその声。何年経っても忘れるはずのない、僕の大好きな人の声。
びっくりして恐る恐る顔を上げると、そこにはもう二度と会えないと思っていた人が立っていた。
「マスター、俺もいつもの」
十年もの月日が流れているとは思えないような自然な動きで、マスターに『いつものように』注文した。
「颯太くん……? な……んで」
僕は驚きながらも、無意識にその場から逃げようとした。
颯太くんのお母さんから、二度と颯太くんの前に現れてはいけないと言われている。僕と会ったなんてバレたら、颯太くんだってまずいはずだ。
けど椅子から立ち上がって、この場を去ろうとした僕の腕を、颯太くんはガシッと掴んだ。
「どこに行く? 久しぶりに会えたんだから、少し話をしよう」
落ち着いた声で優しく言ってるけど、颯太くんは本当は困っているのかもしれない。もう会ってはいけない僕に、偶然会ってしまったんだから。
「……あ、でも、僕これから用事があって……」
「春陽……ごめん……」
やっぱり逃げようとする僕を見て、颯太くんは明らかに気落ちした様子で、僕に謝ってきた。
「え、なんで颯太くんが謝るの? ……僕こそごめんね、急に黙って遠くに行っちゃって」
颯太くんのお母さんに言われた話の内容は、颯太くんには言えない。僕が勝手に遠くに行ったって伝えれば、きっと颯太くんは諦めてくれるはずだ。
「全部、知ってるんだ。母が春陽に会いに行ったことも、手紙を出したことも」
「え……?」
僕は驚いた。まさか颯太くんが全部知っているとは思ってもいなかった。颯太くんのお母さんだって、僕に会いに来てあんなことを言ったなんて、知られたくないことだろう。
「あの日春陽から、ご両親の実家に行くことになったから、しばらく会えないと連絡があっただろう?」
そう、僕はあの日『母が少しの間、祖母の世話をすることになった。僕も同行するから、しばらく会えないし連絡もできない』という内容のメッセージを送ったんだ。
「けど、一週間くらい過ぎた時に、俺は我慢できずに春陽に電話したんだ。そしたら、その電話はもう使われていなかった」
颯太くんの苦しそうな表情に、僕は思わず顔を背けた。
祖母のところに行くと言ったのは、全部嘘だ。実際には、オメガの保護施設に入るために、一人で遠く離れた地に行ったんだ。
もう颯太くんとは二度と会えないから、思い出のたくさん詰まったスマホも解約した。
「さすがにおかしいと思って、マスターに聞いたんだ。そこで初めて、俺の母親が春陽と会っていたって知って。……まさかと思って母を問い詰めたんだ。そしたら母は悪びれもなく、全て話してくれたよ」
「そっか、全部聞いたんだ……」
颯太くんのお母さんに言われたのは事実だけど、颯太くんの前から姿を消す決断をしたのは僕自身だ。
本当は、家庭で対応できるのなら、オメガを保護するのは施設じゃなくても構わない。うちは家庭用のオメガのシェルターもあるし、いざという時の備えもちゃんとしている。だからうちの両親は、僕が施設に入ることを反対していた。
……けど僕は、颯太くんに偶然でも会ってしまわないように、遠く離れた施設に入ることを選んだんだ。
「全てを知った後、俺は親に反発した。けどまだガキだった俺は、悲しいくらいに無力だったんだ。だから俺は親に交渉した。再び春陽を迎えに来れるようにって」
颯太くんはそこまで話すと、昔と変わらず、僕と向かい合った席に座った。そして僕の手を取って、ニコッと太陽のように微笑んだ。
「十年かかって、やっと親を説得することができた。……十年前から、俺の気持ちは変わらない。あとは、春陽の気持ちだけだ」
「え、だって、颯太くんには婚約者が……」
僕は戸惑って視線を彷徨わせた。
颯太くんの言葉はまるで、十年経った今でも、僕たちの夢は変わっていないって言っているみたいじゃないか。
「婚約者なんていない。母が勝手に話を進めようとしたから、俺は断ったんだ」
「でも、僕は颯太くんの前から……逃げて……」
「春陽が、俺のことを考えてくれた上での行動だってわかってる」
「颯太くんには、もっとお似合いの……」
颯太くんは、いずれお父様の会社を継いで、引っ張っていかなければならない人だ。だから僕なんかじゃなくて、もっとお似合いのがいるはずだ。
颯太くんから逃げた僕には、そんな資格はない。
「俺には、春陽しかいない。春陽と一緒になれないなら、誰とも結婚しない」
「えっ! それはダメだよ! 会社はどうするの?」
颯太くんがとんでもないことを言い出したので、僕は驚いて颯太くんの手をぎゅっと握り返した。
「俺と結婚して、春陽がそばで支えてくれればいい」
「け、結婚⁉︎」
「春陽は、嫌なのか? 俺との結婚は」
「嫌とかそういうのじゃなくて……」
「じゃあ、決まりだな。俺と春陽は結婚して夫夫になる。これで何の問題もないじゃないか」
「え、でも、だって……」
あまりの急展開に、僕の思考回路はショート寸前だ。
十年の区切りに、颯太くんへの思いを断ち切るためにここにやってきたのに、何でこんな話に……。
「俺は、春陽の本当の気持ちが知りたい」
颯太くんは、先ほどの穏やかな表情とは打って変わって、真剣な表情で僕を見つめた。
この瞳を見たら、颯太くんが冗談でこんなことを言っているのではないことくらい明らかだ。
颯太くんが十年もかけてご両親を説得して、こうやって僕の手を取って思いをぶつけてくれている。
「僕が、もう他の人を好きになってるって、思わなかったの?」
僕は返事をする前に、颯太くんに聞いてみたくなった。十年も会えなければ、新しい恋人ができていても不思議じゃないはずだ。
「それはないな。俺には春陽しかしないし、春陽にも俺しかいない」
自信満々にそう言い放つ颯太くんに、僕の瞳からはポロリと涙が溢れた。
「参ったなぁ……。いつまでも気持ちを引きずっていても仕方がないし、最後にここへ来て気持ちの整理をしようと思っていたのに……」
そう言いながら、僕は再び、握られた手をきゅっと握り返した。
「僕も、十年間気持ちは変わらないよ……。忘れた時なんて、一度もなかった……」
僕の言葉を聞いて、自信満々に言い放っていた颯太くんが、目を見開いて驚いた顔をした。
ふふ。なんだよ、それ。
僕は、思わずぷっと吹き出した。
「よかった……」
安堵した様子で颯太くんが呟いたタイミングで、颯太くんの注文したホットレモンティーと紅茶のシフォンケーキがテーブルに出された。そしてもうひとつ、追加でホットレモンティーも置かれた。
「せっかくですから、温かいのをどうぞ」
そう言ってマスターは、すっかり冷めてしまったレモンティーを下げて戻って行った。
「マスターの気持ちを、ありがたくいただこうか」
「うん」
ふたり一緒にカップを持ち、思い出のレモンティーを口に含んだ。心も体もじんわりと温まる。
マスターのはからいなのか、思い出のあの曲も店内に流れ始めた。
「あの頃に、戻ったみたいだな」
「そうだね」
温かなレモンティーをゆっくりと口に運びながら、しばらく黙って思い出の曲に耳を傾けていた。
◇
僕たちが再会したあの日から、結婚の話はとんとん拍子で進んだ。
喫茶店で他のお客さんがいる中で、颯太くんからの正式なプロポーズを受けた。僕の家族と颯太くんの家族の顔合わせも済ませ、結婚式の準備も進んでいる。
今日は、打ち合わせのために、颯太くんと思い出の喫茶店に来ていた。
「マスターこんにちは。無理言ってすみません」
「いいんですよ。おふたりの晴れの舞台のお手伝いをできるなんて、私は幸せ者です」
マスターはそう言いながら、そっと目元を拭った。
僕たちは無理を言って、二次会は思い出の喫茶店でやりたいとマスターに相談したんだ。
メインの結婚式の準備よりも、二次会の準備の方が楽しかったというのは、ここだけの秘密だ。
「当日が楽しみですね」
「はい!」
今日もいつものように、テーブルの上にはふたり分のレモンティーと紅茶のシフォンケーキ。そして店内には思い出のあの曲が静かに流れていた。
終




