第5章 夜の海と、未練の波
海に着いたのは、太陽が沈みきった頃だった。
街灯のほとんど届かない浜辺は、波と影の境目だけが薄く揺れていた。
「なんで海なんだよ」
「自殺志願者は境界を好む」
「境界?」
「生と死 街と自然 夜と朝 そのあいだは迷う者にとって居心地がいい」
線路の端に立った夜を思い出す。
確かにあそこにも境界があった。踏み越えられなかった線が。
波が足首の近くまで押し寄せ、砂をわずかに浚っていく。
その冷たさが、生きていることを強制してきた。
「座れ」
死神が短く言う。
俺は消波ブロックに腰を下ろした。隣には黒猫のぬいぐるみが置かれる。
「死ねなかった理由は見つかりそうか」
「……まだ分からない」
「曖昧なままでいい 言葉になる前のものを捕まえろ」
死神の声は、波より静かだった。
「ゲームを作りたかった ってのは出たけどさ」
沈黙を破るように言う。
「それだけで死なずに済む気もしないんだよ」
「当然だ 一言で自分は語れない」
「だよな」
「だから延長がある」
延長──その言葉が、初めて怖くなかった。
「お前は諦めたのだろう 希望ではなく順番を」
「順番?」
「親が望む道 世間が求める安定 正しさを選んだ結果 本当にやりたいことは後回しになった」
妙に自分に当てはまる言葉が胸に刺さる。
「……分かるのか?」
「働き者の死神は観察を怠らない」
どこか誇らしげに言うな。というか観察だけで俺にとって重圧だったことが分かるわけないだろと思うが、図星だったため何も言えなかった。
波が、ひときわ高く押し寄せ、黒猫のぬいぐるみの鈴が鳴る。
俺は手のひらを見つめる。
ここにあるはずだったものを、数えきれないほど失くしてきた気がした。
「作ってみたかったんだよ ゲーム」
言葉が落ちる。
「下手でもいいから 自分の世界ってやつをさ。でも出来なかった。言い訳になるかもしれないけど親に言われた難しい理系大学入ってレポートと課題に追われて何とか着いてくのがやっとだった」
死神は少しだけ、息を吸う音を立てた。
「それで十分だ 未練の核心はいつも短い」
「未練……か」
「死ねなかった理由は未練の形で現れる 自分で気づくまで離れない」
「面倒な仕組みだな」
「そうだ 働き者の死神を休ませない」
フードの奥で勝手に労働環境を嘆くな。
風が冷えた砂を運んでいく。
その冷たさは、線路のホームにも似ていた。
「そろそろ移動するぞ」
「今日は帰らせてくれよ」
「温泉だ」
「どの段階で温泉が出てくる選択肢なんだよ」
「延長中の人間は回復が必要だ」
「魂の回収が目的じゃないのかよ」
「延長は回収効率の向上が目的の一部だ 無駄に弱られて理由も分からないまま死なれると書類が増える」
書類。本当に書類が全てを支配している世界らしい。
死神が先に歩き、黒猫のぬいぐるみを抱き上げる。
それはまるで、何かを守っているようにも見えた。
「行くぞ」
波の音を断ち切るような声だった。
俺は砂をはらい、立ち上がった。
未練はすぐに消えない。
それでもほんの少しだけ、形を持った気がした。




