第1章 出会い
「飛び込むなら、あと三分待ってくれ。書類がまだだ。」
それが、最初の一言だった。
終電前の地下鉄ホーム。
俺は線路を見下ろしていた。靴先が、黄色い点字ブロックの端から少し浮いていた。
自殺しようとしているのに、その声はあまりに間の抜けたものだった。
「……は?」
ゆっくり振り返る。
近くに黒いロングコートに、深くフードをかぶった人物が立っていた。
細身。背丈は俺とほぼ同じ。顔は影になって見えない。
「誰だよ、あんた」
「自己紹介をするほど親切な役職じゃない」
くぐもった声が返ってきた。
「は? なんだよそれ」
「いわゆる魂の回収だ、仕事で来ている」
魂の回収。
言葉だけはそれっぽいが、言っていることはよく分からない。
「つまり死神ってことか」
「そう呼びたければ、そう呼べばいい」
なぜか選択制だった。
「死にたすぎて頭までイカれちまったのか俺は」
自殺をしようとしたら声をかけてきた怪しい男。
しかも、それは死神だと名乗る。
ここまで来たらもう笑いまで出てくる。
「何を考えているか分からないが駅員が来るぞ」
そのとき、ホーム奥から駅員が歩いてきた。
やばい、端に立っているのを見られたか──そう思って一歩引こうとした瞬間。
駅員は、黒いフードの人物の肩をすり抜けて通り過ぎた。
「……え?」
明らかに接触していい距離だった。
なのに、まるでそこに誰もいなかったかのように。
駅員は俺にだけ近づき、事務的な声で言った。
「お客様、黄色い線の内側までお下がりください。」
「……あ、はい。」
一歩下がる。駅員はそれで満足したのか、振り返りもせず去っていった。
俺は死神と駅員がすれ違った地点を見つめた。
「……見えてないのか。」
「だろうな。」
「……俺にしか?」
「そういう仕様だ。」
仕様と言われると、どんな仕様だよと心の中で思う。
「さっきの“三分待て”ってなんだよ。」
聞いてみると、死神は当然のように言った。
「そのままの意味だ。飛び込むなら三分待ってくれ。書類がまだだからだ。」
書類。魂の回収に書類。
業務感が強すぎて訳がわからない。
「死ぬのに事務作業いるのかよ。」
「俺もいらないと思うが、提出しないと後で別の部署がうるさい。」
「死神、部署あんのかよ!」
「ある。昇給はない。」
地獄だった。
死神は淡々としていて何を考えているか分からない。
普通ならこんな体験をしていること自体おかしな話だ。しかし自殺しようと考えてる頭が作り出した防衛本能から来る幻覚というふうに今は考える他なかった。
「三十二回だ。」
「何が」
「お前が線路に飛び込むか迷ってやめた回数だ。夕方から今までで三十二回」
心臓が跳ねた。
「……見てたのか」
「仕事だからな」
三十二回という数字は、俺が自殺出来なかった事実を鋭く突き刺してくる。
死神は続けた。
「死ぬ覚悟がある者は、三十二回も躊躇しない。」
「……うるさいな。」
事実だから腹が立つ。
やがて、死神が言った。
「書類が通った。予定どおりなら、ここで魂を回収するはずだった。」
終電が近づく。
トンネルの奥から風が吹き込む。
「だが、このまま回収すると報告書が面倒だ。」
「お前の都合かよ!!」
「もちろんだ、だがお前にも都合がいい」
「どこが」
死神は俺を見て──言った。
「お前はまだ、死ぬと決めきれていない。」
喉の奥で言葉が止まった。
反論したかったのに、声にならなかった。
「提案だ」
死神は言った。
「少し延長するか」
「延長……?」
「今日終わるはずだった命を、後ろにずらす。最長で、夏が終わる頃まで」
「そんな簡単に言うなよ」
「人生も死も、本来は簡単ではない。だが、延ばすだけなら簡単だ」
するとで終電が来るアナウンスがホームに鳴り響いた。
「決めろ。予定どおり終わるか、延長するか。」
正直、俺は今すぐに飛び込むことなどできないと内心でわかっていた。ここで振り切ることも出来ない自分に嫌気まで刺してくる。
「……まだ、決められない。」
死神はまるでわかっていたかのように言った。
「なら延長だ。」
なぜかフードで見えない死神の顔がニヤリとしたように思えた。
そうして、訪れるはずがない夏が延長することとなった。
延長された命の行き先など、そのときの俺はまだ知らなかった。




