第9話:パンの香りはまだ遠く。
夜明けの空気は、驚くほど冷たかった。
下水道の排水口を抜け出した瞬間、俺は土の匂いと、風の感触に包まれた。
「出られた……」
言葉にした途端、力が抜ける。
自由のはずなのに、胸の奥は重たく、苦い。
そうだ。俺は“1人”で出てきてしまった。
「グル……」
思い出すのは、牢屋の鉄格子越しに交わした言葉。
「パンはお前が焼け。俺は食う係だ」
あいつはあのとき、笑っていた。
けれどあの笑顔の裏に、不安がなかったはずがない。
仲間を置いてきた。社畜仲間を。
その事実が、自由の味を少しも甘くしてはくれなかった。
だが、立ち止まっているわけにもいかない。
捕まれば、グルの犠牲が無駄になる。
この世界で生き延びる術を探さなければ。
「……前に進むしか、ないんだな」
足元には草が生え、遠くには森の影が広がっている。
地平線の向こうに小さな村が見えた。
煙突の煙が、空に溶けていく。
――あそこなら。
食料、水、安全な寝床。
そして、もしかしたらパンを焼く環境も。
俺の中で「パン」という言葉は、
もはや“食べ物”ではなく“生きる意味”に近い響きを持っていた。
一歩、また一歩と歩き出す。
靴は泥まみれ、服はボロボロ。
それでも、この大地の感触は牢屋の冷たい床とは比べものにならなかった。
「待ってろよ、グル……。
俺が必ずパンを焼いて……お前と食う日を取り戻す」
空腹が、痛みのように腹を締めつける。
それでも心の奥には、じんわりと小さな灯がともっていた。
――そうだ、これが始まりだ。
社畜から、囚人から、逃げて、ようやく辿り着いた一歩目。
まだパンの香りは届かない。
でも、風は自由に吹いている。
俺は前に進む。
いつか、牢屋で夢見たアイツと“焼きたてのパン”に辿り着くために。




